第9話



「うん、やっぱり。俺の考えは正しかった」


 軽やかな、秋の空の様な涼しげな声が闇夜に熔けていく。声を発する唇は、ゆるりと弧をかき「月娟」とまるで愛しい者を呼ぶようにその名を呼ぶ。そして男は両手を広げ、壊れ物に触れるかの様に怖がる少女を抱き寄せた。


「久しぶりだね」


 闇の中、翡翠色の瞳が爛々らんらんと輝いた。その光に欲望の色が微かに宿る。男は恍惚とした表情で少女を見つめた。




***




 最初に異変に気付いたのは芙蓉だった。

 琰慈の先導され、深い森を駆けていた時、月の光に照らされ、遠くでキラリと何かが光った。それと同時に聴こえるのは弦の張る音。その音が耳に届くと瞬時に隣にいた月娟の腕を引いて自分の背後に隠した。


「前方に弓を構える者がいます」


 琰慈と藍藍に忠告するように小声で囁いた時、ヒュンという音と共に何かが闇を切り裂く。それは真っ直ぐ、琰慈と藍藍へと飛来した。

 それを見て、芙蓉は咄嗟に動いた。月娟の手を離すと、射手いての居場所を探る琰慈の肩を力一杯押しのけ、前に躍り出る。



 ——直後、赤い血が空中を飛散した。



 熱を帯びはじめる左腕を抑え、芙蓉はその場でうずくまった。痛みを耐えるようなくぐもった声が口から漏れる。

 飛来した矢は芙蓉の左腕を貫通した。そこからとくとくと赤い血が流れ、群青色の胡服を黒く染める。

 それを見て、琰慈は焦った様に芙蓉の名を呼んだ。


「傷を見せろ!!」


 琰慈は乱暴に手首を掴み、傷の具合を見ようと芙蓉の襟に手をかけた。それを芙蓉は脂汗を掻きながら、「大丈夫だ」と押しのける。


「それよりも月娟様と藍藍殿を物陰に。ここは目立ちます」


 自分よりも二人を守り、物陰に隠れるように指示を出す。その時、再度、空気を揺らす弦の音。それが弾けると同時に、空気を裂く音が芙蓉の耳に届いた。

 矢は自分に向かってくるのを捕らえると、芙蓉は剣でなぎ払った。剣の刃は矢じりをかすめた。矢は飛ぶ軌道を変え、芙蓉から離れた地面に突き刺さる。

 矢ごと腕を抑えながら、芙蓉も陰に隠れようと立ち上がった。

 そして背後にいる月娟を振り返り、怯えているであろう主人を安心させるように唇を持ち上げ、表情を作った。


「月娟様、こち——」


 その表情のまま振り返る。と、驚きに海色の瞳が瞠目どうもくした。


「——……月娟様?」


 左右を見渡すが、視界に広がるのは風に揺れる木々とその背後の炎。藍藍の側にいるのか、と内心焦りながら視線を投げるが、そこには恐怖で顔を覆う侍女頭の姿。月娟の姿はない。


「芙蓉殿、どうした。公主殿と早くこちらへ!」


 凍りついたまま動かない芙蓉に、琰慈が声をかけた。しかし月娟の姿が見えないと知ると、琰慈は焦ったように眉根を寄せる。


「公主殿はどちらに?」


 その問いに芙蓉は答えない。

 棒立ちになったまま、月娟がいた場所を見つめながら、早くなる鼓動を鎮めるように、芙蓉は血に濡れた右手で胸を押さえた。耳には弦を張る音が届く。その音は琰慈も聞こえてたようで、怒ったように芙蓉の名前を呼びながら、力いっぱい芙蓉の腕を掴み、自らに引き寄せた。

 矢は芙蓉の首筋を掠める。赤い線が白い肌に浮かび上がり、痛みで熱くなるが、それとは反対に芙蓉は氷水を浴びせられたように身体の体温が下がっていく感覚に襲われていた。



 直後、背後から抱きしめられる。背中に、自分よりも高い体温を感じながら、芙蓉は放心したように月娟がいた場所を見つめた。

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