3-4.一つの想い


 ベッドの上に、ふたりで横になる。

 シュナはウルクの背中を見つめ、ウルクは薄いしみの滲む古ぼけた白い壁紙を見つめながら、ウルクの胸の前で手だけ重ねて、二人は空白を埋めるように会話を重ねていった。


「レトリーは、ウルクのことを知ってるの?」


 シュナが尋ねると、ウルクは頷いた。


「はい。一緒に戦争に行ったとき、レトリー様があんまり弱いので、人型になって助けました」

「そうだったんだ?」


 あの、いつでも自信に満ち溢れたレトリーの意外なギャップにくすくす笑ってしまうと、そのときのことを思い出したのか、「そうなんですよ」とウルクも小さく笑った。


「あれ。でも、服は?」

「そのへんで倒れていた味方の騎士の服を、ちょっとだけ借りました」

「裸じゃおかしいもんね」

「ただの変態ですね」


 軽い口調でそう言って、ふたりで、くすくす笑い合う。

 大きな広背筋が、小刻みに揺れる。ドキドキしながらシュナは、その背中をじっと見ていた。


「それ以来、索敵のときは獣型で、戦場では人型になって、レトリー様のおそばに仕えるようになりました。レトリー様はその戦で勲功を挙げられて出世し、それで私にも従者という仕事をくれたのです。レトリー様の従者となったことで、私は戸籍を得て、正式に騎士団に入団することもできました」

「……レトリーのおかげなんだ」

「はい。なので、レトリー様にはとても恩義を感じています。――まあ、今日裏切りましたけど」


 さらりと付け加えられた補足が重い。

 その話をする前に、もう一つだけ聞きたいことがあって、シュナはウルクに問いかけた。


「戸籍があるんだね。シベリウスというのが、ウルクの本当の名前だったの?」

「生まれたときに付けられた名前ですね。戸籍上は、ウルク=シベリウスという名になっています」


 みんな誤解をしているけれど、シベリウスは実は苗字の方なんですよ、と、ウルクが言う。


「――ウルク」

「そう。私の本当の名前はウルクの方です。シュナがつけてくれた、大切な名前ですから」

「ウルク」


 ウルクと呼んだとき、”シベリウス”の方はもういなくなってしまったのかという思いが、いつも付いて回っていた。その小さな寂寞が、今、ようやく消えた気がした。

 ウルク=シベリウス。

 ウルクと、シベリウス。二つの事柄だったものが、また、シュナの中で溶けて一つになる。

 シュナは、こつんと広い背中に額を押し当てた。

 想いが募る。シュナにとっても大事な名前を、ウルクの方でもこんなに大事にしてくれていたことが嬉しかった。

 背中に、シュナの額の熱を感じながら、ウルクはぽつぽつと話し続ける。


「戦から戻ってきた後も、人型になれることはシュナには言えませんでした。絶対に言ってはいけないと、レトリー様に言われていたんです。それに正直、私自身も、言わない方がいいのかな、とも思っていました」

「……え?」


 手に持ったシュナの左の指先を、大事そうに、慈しむように撫でながら、ウルクは言う。


「『ルシアーノの紅玉ルビー』。王都中央軍の元大佐にして、今は軍務省の参与でもあるベルマン紅爵こうしゃくの末娘。人間として暮らし、貴族の世界を知れば知るほど、シュナがどれほど貴い方なのかを思い知りました。自分などには手の届かない、遠い存在に思えたのです。この先、シュナが貴族として暮らしていくのなら、犬だろうが人間だろうが、私の存在そのものがきっとあなたの汚点になる。あの日、レトリー様があそこまでしてシュナから私を引き剥がしたことが、今の私には少し納得できるんです」


 指先に落ちる、唇の温度。

 ウルクの大きな指が、一本一本、シュナの指先を絡め取るように手を握り、ぎゅっと握った。

 近付く体温。

 触れ合う素肌が、徐々に温度を上げていく。


「わたし……本当はずっとレトリーと結婚したくなかった。そうしなきゃいけない、そうするしかないんだってわかっていたけど、いつまで経ってもうじうじ悩んで、覚悟を決めきれなかったの。わたしは全然、ウルクが思っているほど立派な、貴族らしい貴族なんかじゃないんだよ」

「私もですよ、シュナ。シュナにはレトリー様がふさわしい、私の出る幕はない、何度も何度もそう思って諦めようとしたけれど――でも、やっぱり駄目でした」

「うん。……ねえ、ウルク。やっぱり、こっちを向いて」

「はい」


 その言葉を待っていたかのように、ウルクが大きな身体ごと振り向いた。開かれた胸に、シュナは飛び込む。しっとりと湿った素肌に、熱く火照った顔を押し付けた。


「シュナ。今日、あなたがレトリーの部屋に行くと言ったとき……目の前が真っ暗になりました」


 初めは、ためらいがちにそろそろと回されたウルクの腕が。シュナの背中に触れた途端、糸が切れたように力がこもり、きつくシュナの身体を抱きしめた。


「それが普通のデートなら、まだ耐えられました。二人きりで馬車に乗るのも、リストランテの個室に二人で籠もるのも耐えました。でも――でも、それ以上は、だめです。シュナ、二年ぶりに再会した日にも、レトリー様に口づけされたことがありましたね」

「……あれ、見えてたの……?」


 ぎく、とシュナの肩が跳ねる。忘れられない、忘れてしまいたい記憶。シュナの強張った身体を抱く腕に、ウルクはぎゅっと力を込めた。


「見えてましたし、たとえ見えてなくてもにおいでわかります。あの日の、たった一度のキスですら、気が狂いそうなほど嫉妬しました。何もできずにただ見ているだけの自分にどうしようもなく後悔した。あの日のことがあったから、今日も……レトリー様を裏切ることになっても、シュナの将来に水を差すとわかっていても――どうしても、自分を止められなかったんです」


 うん、うん、と頷きながら、シュナもウルクを抱く腕に同じくらいきつく力を込めた。

 イルカード家の前でウルクがシュナを止めてくれなければ、きっと、取り返しのつかないことになっていた。いや、今に至るすべての事象は、そもそもウルクの正体をシュナが知り得ないことには動かなかった。

 全ては、ウルクのおかげなのだ。

 シベリウスがウルクであること。知ってしまったらもう、今までのままではいられない。

 そのことを、レトリーもきっとわかっていたのだろう。


「ありがとう、ウルク。ウルクに止めてもらえて、本当によかった」


 シュナが言うと、ウルクは苦笑した。ため息が、生乾きの前髪を温めて落ちる。


「まあ、喜んでいいのかどうか。これでもう、取り返しのつかないことになってしまいました」

「そう? 私はこれで吹っ切れたよ。もうレトリーとは結婚できない。婚約を解消してもらうようにお父様に言ってみる」

「それで本当にいいんでしょうか。……いまさらですけど」

「いいんだよ。わたし、婚約を解消してしまったらウルクにもう会えなくなるって――ただそれだけが気がかりだったの。でももう、そんなことないんだよね」


 強い決意を胸に、顔を上げてウルクを見上げる。


「はい。レトリー様には、ほんとうに申し訳ないですが……元々はあの人が私たちを騙したのが悪いんですから、そこは納得してもらいましょう」


 ウルクは答えて、ごそごそと動いて顔の位置を揃えると、真正面からシュナの顔を捉えた。

 至近で、見つめ合う。

 ウルクの瞳がきゅっと細まった。


 いつも見ていた、感情豊かで、もの言いたげな水宝玉アクアマリンのその瞳が。

 今宵、ようやく饒舌に、その感情を発露した。


「シュナ。好きです」


 ――恋をすることは、自分にはないと思っていた。

 けれどシベリウスに恋をした。

 それは、叶うことなど、決して有り得ないと思っていた恋だった。


「わたしも……ウルクが、好き」


 好きなひとに、好き、と言ってもらえること。

 好きなひとに、好き、と言えること。


 こんなにも心を蕩かすような、熱い感情があることを、知らなかった。

 ウルクの大きな指先が持ち上がり、シュナの瞳からあふれた涙を拭う。


「……私は、魔物ですし、たいした身分もないですけど」

「そんなこと、全然、気にしない」

「すぐに全裸になってしまう変態ですけど」

「そこはちゃんと服着て」


 泣き笑いのまま、二人で、声に出して笑う。

 こんなときに、こうやって冗談を言ってくるところも、本当にウルクらしい。

 城の誰もがウルクのことを、穏和しくて落ち着いている、利口な犬だと思っていた。けれど二人きりになった部屋の中では、ウルクは悪戯もするし意地悪もするし、それなりにやんちゃなところもあった。


 魔物だという。それが何だというのだろう。

 同じだ――人間のウルクも、獣のウルクも。

 それが世間に厭われる存在だというのなら、そのときは、シュナもウルクと同じ立場にいたかった。


「――でも」


 ひとしきり笑ったあとに。

 ふいに真面目な顔つきになって、シュナの頬をあつい両手で包み込み、ウルクは言った。


「人とは違う、私だけれど。でも、誰よりも、シュナを愛しています」


 鼻先が触れ合う。

 熱い吐息が、唇をくすぐる。


「わたしも。――あいしてる、ウルク」


 その位置まできて、そこから全然ウルクが動かないので、焦れたシュナの方が、先に唇を尖らせてしまった。

 たったのそれだけで、つん、と唇の先が触れ合う。

 もう少しだけ近付くと、ぴと、とやわらかな下唇がくっついた。


「……ふふ」


 ウルクが、小さく笑う。真っ赤な顔をして、口を離し、シュナは責めるような目つきでウルクを見た。


「ふつう、こういうのって、男の人の方からしてくれるんじゃないの?」


 言うと、ウルクがまた笑った。

 泣きそうなほど顔をくしゃくしゃにして。


「でも、私から手は出さないって、誓ってしまったので」

「なに、それ」

「うーん。やっぱり、今日シュナに手を出すのは、レトリー様に対してフェアではない気がするんですよね」

「なあに、それ。どういうこと?」

「私なりのけじめです。ただでさえ今日は、レトリー様との約束を破ってシュナに正体を明かしてしまいましたし、それどころかこうして、あなたを奪うようなこともしてしまった。これ以上のことは、レトリー様ときちんと話してからかな、と」


 わかるような、わからないような、なんともいえない複雑な気持ちで、シュナは小さく息をつく。

 レトリーのことなんて今さら何も関係ないと心底シュナは思うのだが、ウルクにとっては、そう割り切れるものでもないのだろう。レトリーに対して、大きな恩もあると言っていた。シベリウスとして、レトリーの従者をしていたときのウルクは、きっと嫌々ではなく心からの忠義に従って仕えていたのだろう。そんな、変に生真面目なところも確かに、ウルクらしいといえばそうかもしれない。

 なんとも言えずに押し黙ってしまったシュナを見て、にっこりとほほ笑み、ウルクはシュナの頬に置いた手のひらにわずかに力を込めた。ふにふにとやわらかな頬を指先でもてあそび、捉えながら、離れてしまった顔を再び近付ける。


「なので私から手は出せないんですけど。――でも、手を出されることについては、また別です」

「え?」

「だから、シュナからは、遠慮なくどうぞ」


 ちょん、と鼻先をくっつけて。そんな至近距離で、ウルクがあからさまに目を閉じる。


「ず、ずるい……」

「そうですか?」

「ウルクから……してほしい」


 恥を忍んで、勇気を振り絞ってそう言ったのに、返答は実にあっさりとしたものだった。


「いつもしていたじゃないですか」


 そんなことを言われて、思わず、ばんばんとそのたくましい腕を叩いてしまった。


「もう! あれは犬だったでしょ!」

「犬じゃないです」

「犬だから何しても許されると思ってたんでしょ。本当に、もう、恥ずかしいことばっかりして……」

「だから、犬じゃないですって」

「もうっ」


 鋭く吐いたシュナの吐息が、そのまま、ウルクの唇にぶつかっていく。

 先ほどよりももう少しだけ、深く、重なる。

 ウルクがゆるりと口を開いて、閉じた。シュナの下唇があたたかく湿り、ぱく、と食まれる。

 触れている身体が、急に熱くなった。


 ――いつもしていた、なんて、うそだ。

 犬にぺろぺろと舐められるのとは、比べものにならない。

 直に触れ合うくちびるは、確かな、あたたかい感情の味がした。


「シュナ。もっと」


 重ねたあと、どうすればいいかわからずに引いてしまったシュナを追いかけて、あつい吐息が、シュナを誘う。


「……うん」


 請われるまま、再び、唇を落とす。

 ちゅ、ちゅ――と、湿った音が薄暗い宵闇の帳に響く。


 頬に置かれていたウルクの指が、ふいに動いた。

 唐突にこぼれたひと雫の涙を拭い取ると、少しだけ顔を離して、優しくウルクは問いかけた。


「どうしました?」

「ウルク。……ウルクと、……ずっと、こうしていたい」


 喋る声に押されて、また、ひとしずく。

 こぼれた先からウルクが拭い、にっこりとほほ笑んだ。


「そうですね」

「うん。だから、もうどこにも行かないで」


 シュナが言うと。

 ウルクは、それには困ったように眉を下げた。


「それは、明日の戦のことですか?」

「そう。行かないでほしい。……ずっと一緒にいよう」

「それは……ごめんなさい。それだけは、無理です」

「どうして」


 きゅっと眉をひそめて尋ねると、そんな、拗ねたようなシュナの顔さえかけがえのないものと慈しむように撫でながら、ウルクは言う。


「騎士団では、軍功が最大の名誉となるそうです。戦で手柄を上げれば出世し、地位が上がります。最低限、黒爵こくしゃく位を戴けるくらいまで頑張らないと、あなたの夫になりたいなんて言えません」


 黒爵は、下位貴族である紫爵ししゃく位のさらに下。名誉ある者に贈られる、世襲権のない一代限りの爵位のことだった。確かに、ウルクの言う通り、手柄を立てた騎士に与えられることが多い。


「でも、黒爵になるには、紅爵こうしゃく以上の貴族の推薦が必要だって聞いたけど」

「そうですよ。だから、レトリー様に紅爵になってもらうか、あるいはもっと上の将校に顔を売らなければ」

「そんなことしなくても――今から、二人でどこかへ逃げてしまえばいいんじゃない?」


 それはこの宿に来てから、シュナがずっと思っていたことだった。二人きりで、周りには誰もいない。またとない機会に思えた。

 けれどシュナがそう言うと、ウルクは、声に出して笑った。


「家出、好きですねえ」

「そうじゃないの。そうじゃなくて、ウルクが戦に行くのが嫌なの」

「心配してくださってるんですよね、ありがとうございます。でも、家出なんてしたら、何もかも失ってしまいますよ。わたしは元々失うものはないけれど、シュナは違う。早まって捨ててしまうには、取り返しのつかないものばかりです」


 ウルクの言っていることは、わかる。一理はある。――けれど。


「でも、そうだとしても、今のままウルクと結婚できるとは思えない。ウルクが黒爵になれたとしても、黒爵との結婚なんてお父様が許すわけないし、それ以前にレトリーとの婚約だってどうなるかわからないのに。――そう、そのこともあった。婚約が解消できなかったら、わたし、どうすれば――」

「まあまあ。大丈夫ですよ」

「なにが大丈夫なの」


 妙に落ち着いて見えるウルクの態度が、逆に問題の大きさをまるでわかっていないようにも見えて、シュナは焦って唇を尖らせた。

 簡単に言ってみたけれど、考えれば考えるほど、レトリーとの婚約を解消するということがまずとてつもなく大きな障害に思えた。今夜の一件でレトリーとの仲には修復し得ない亀裂が入ったのだとしても、そもそもレトリーがほしかったのはシュナの夫としての紅爵の地位や名誉であるから、妻側の心情なんて元より考慮されていない。それに、何より世間体や体裁を重んじるルシアーノ家の親族が、結婚式直前で破談などという外聞を受け入れられるかどうか――


「シュナ。先のことは、考えたってわかりませんよ。今できることを、やれるだけやってみましょう。私はこのあと朝になったら、レトリー様に全て話して、ベルマン様にご挨拶に行こうと思います。シュナもついてきてくれますか?」


 戻るのか、と思うと、止められないため息が口をついて出た。


 戻るのか。

 今のこの、ふたりだけの、狭い幸せな空間から。

 あの息の詰まるような、閉塞した鳥かごへ。


「それは、もちろん……一緒に、行く、けど……」

「こうして倫理に背くようなことをしでかしてしまったことは事実なので、まあいろいろと心無いことを言われることもあるでしょう。やれるだけやって、うまくいかなかったら、そのときはまた一緒に家出しましょう」


 明るくウルクは言うけれど、シュナにはとても気が重い。


「どうして、そんなに楽観的なの? うまくいくなんて、わたしには思えないけどな……」

「シュナはなかなか悲観的ですよね。レトリー様のほうは、なんとかなるんじゃないかと思ってるんですが」

「え、そうなの?」

「彼には弱みがありますからね。そこにつけ込んで脅しましょう。ただベルマン様のほうは、正直言ってお手上げです。誠意を尽くして謝るしかない。どこまで話を聞いてもらえるかはわかりません」


 さらりと物騒なことを言う。けれど、そこをシュナが問いただす前に、ウルクはふたたびシュナに顔を寄せ、すりすりと鼻先をこすりつけた。


「そんなことより、シュナ。キスはもうおしまいなんですか?」


 ねだるような甘い声でそう言われて、ぽんっ、と花が咲くようにシュナの頬が赤くなった。


「もう……ウルクから、してよ」

「そんなことしたら、もう、止まらなくなっちゃいますよ」

「……だめなの?」

「だめなんですよ」

「でも、結局キスするなら、同じことだとおもうんだけど……」

「自分の中のね、気の持ちようが違うんですよ。ほら、早く」


 急かされるように、ぺちぺちと頬を優しくたたかれて、しょうがないなぁというようにシュナは笑った。


 昔のことを、ふいに思い出した。

 シュナが本や刺繍に没頭してしまって、まったくウルクを構わなくなると、ウルクはいつも急かすようにシュナを突っついた。

 椅子に深く腰掛けて座るシュナの足元で、まだ仔犬だったときのウルクは、シュナのドレスの裾を噛んで引っ張って破ってしまうことがよくあった。大きくなってからは、裾を噛むかわりに、足を甘噛みしたり、舐めたりしてくるので大変だった。


「――ふふ」


 笑いながら、ちゅ、と口づけると、ウルクが少し瞳を細めて、なんですか、と聞いてきた。


「ううん、なんでもない。犬だったときのこと、なんか、思い出しちゃって」


 笑いながらそう言うと、また、ウルクの瞳が細まった。


「だから、犬じゃないですって」

「じゃあなんて言えばいいの?」

「オオカミ……いえ、うーん、オオカミというわけでもない……」

「じゃあ、犬」

「犬ではないです」


 くす、くす。やっぱりふたりでいると、笑い声が絶えることがない。

 笑うと、ひどく心があたたかくなる。満たされた気持ちで再び口づけると、また、ウルクが唇を動かして、ちゅう、とシュナのやわらかな下唇に吸い付いた。

 獣の姿では成し得なかった、人と人との、やわらかな触れ合い。

 ぴりぴりと、胸の中を、甘やかな幸せが駆け巡った。


 同時に、シュナの中に、とある一つの決意が浮上した。


「もっとですよ、シュナ」

「……うん」


 飽くことなく、唇を重ねる。

 しとしとと止まない雨の降る冷たい夏の夜に、あつく湿ったかすかな音が、なりやまずに響き続ける。

 ふたりで一緒にいることが、こんなにも、心地よい。


 ――これだ、と思う。

 確信する。


 シュナの欲しかったもの。

 心から望んでいたもの。

 他の何を置いても、手に入れたいもの。


 ――やれるだけやって、うまくいかなかったら、そのときはまた一緒に家出しましょう。


 ウルクの示した未来への道標が、シュナの頭の中で上書きされて、新しい道へと形を変えて描かれ始める。


 レトリーと婚約を解消する。

 ベルマンに、ウルクとの結婚を認めてもらう。

 それだけではまだ不十分だった。


 ウルクと一緒にいられる、新しい未来のために、シュナにもできることがきっとまだある。何もかも投げ出して家を出るのは、それからでも遅くない。


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