▼第3章 お嬢様とウルク

3-1.ウルクの首輪(1)


 しとしとと針のように止まない雨の降る、冷たい夏の夜だった。


 今夜レトリーの家に行くのだ、とマルチに告げると、有能な侍女は何も聞かずに淡々と準備をしてくれた。

 まずは入浴して入念に身体を整える。全身にロージュの花の香りをすり込み、髪は解きやすいようゆるく編まれて真っ白なリボンで留められた。初めて袖を通したのは、胸元にフリルをたくさん拵えた、薄くて露出の多い白いドレス。コルセットは、付けられなかった。

 夜風が通り、全体的にすーすーとする心もとない身体に雨よけの外套コードを羽織り、裏口からそっと城を出る。城の中にいるはずのベルマンには、なぜか不自然なほど会わなかった。


 門前に一台の馬車が用意されている。外から中に乗っている人が見えることのない箱型の馬車。御者台に乗っているのは、道中のシュナの護衛も兼ねているのか、城の衛兵の中でも古参の副兵長だった。いつもなら城内でベルマンの居室を護っているはずの副兵長がわざわざこんな役を買っているあたり、やはり今夜のことはベルマンの黙認のもとにあるのだろう。

 馬車は薄着のシュナを独りだけ乗せて、ゆっくりと雨の中を走り出す。

 天井に提げられた小さなランプの灯りが揺れる。頼りないその灯りの下で、シュナは首にかけた細い革紐の先に繋がっている、小さな黄金色の鍵をお守りのようにぎゅっと握りしめた。


 不安はある。怖さも、後ろめたさも。

 けれど、それら一切がどうでもよくなるくらい、ウルクのことしか頭にない。


 レトリーに会って、ウルクを返してもらえないかと頼むつもりだった。呆れられてもいい、怒られても、蔑まれても、何を言われてもいい。ウルクを返してもらい、そのままシュナの手元に置く。戦場には絶対に連れて行かない。そのためならシュナは、それ以外の何だってするつもりだった。


 覚悟を決めて、鍵をきつく握り込む。

 二年前のあの冬の夜、家を出ようと決意して、この鍵をお守り代わりに手に取った。ウルクと共に過ごした思い出の詰まった大切な鍵。家出は失敗してしまったけれど、この鍵を見ると今でも勇気が湧いてくるような気がした。


 そういえば、あの日も雪が降っていた。

 シュナとウルクの間に立ちふさがる大きな障害の数々に、まったく思い通りにならない手厳しい運命に、まるで憐れんで泣いているかのような空模様。

 ――けれどシュナは、運命は、泣いてもどうにもならないことをもう知っている。

 誰も助けてはくれない。自分が何もしなければ、何もしないままの状況が続くだけだった。それでも、ウルクが元気で過ごしていて、そんなウルクに会えるのならばそれでもいいと思ってきた。けれどそんなささやかな願いでさえ、失われようとしている。それだけは――それだけは、耐えられない。

 シュナは握っていた拳をゆっくりと開き、手のひらにおさまる小さな鍵をじっと見つめた。


 そういえば、ウルクに渡した、黒い小さな首輪はどうなったのだろう。


 雨はまだ、降り続いている。






 馬車はイルカード家の門をくぐり、そこで止まった。

 中まで入らなかったのは、そこに出迎えの者が立っていたからだ。


 迎えの者と御者が何かを話している声が、雨音に紛れて小さくシュナの耳に届く。いつもシュナの出迎えや送りはセッターの役目だったから、今日もそうなのだろうな、と思う。使用人とはいえ男の人に、忍んでレトリーの部屋に行くことを悟られるのはあまりいい気はしないな――と思ったところで、客室の扉が外側から開かれた。


「こちらへどうぞ」


 そう言って、シュナに手を差し出してきた男の顔を見て、思わずシュナは階段を下りる足取りをぱったりと止めてしまった。


「こちらへ」


 けれど、大きな手がシュナの手を取って、そのまま力を入れてシュナの身体ごと引き寄せた。ふわりと身体が持ち上がり、力強い腕に抱きとめられるように下ろされる。びちゃ、と足元で水音が跳ねた。


「では、わたくしはこれで失礼いたします」


 シュナを抱きとめた腕がそのまま馬車の扉を閉めると、副兵長はそれだけ言ってさっと馬を走らせた。

 あっという間にふたりきりになってしまって、シュナはおおいに戸惑った瞳でかたわらに立つ男を見上げた。


「どうして、シベリウスさんが……」

「ここでは冷えますので、ひとまずこちらへ」


 背中に落ちていた雨よけのフードをシュナの頭にぱさりと被せ、その上からさらに傘を差し出して、自身は雨に濡れたまま、シベリウスはシュナの手を取って歩く。


「あの……」


 気のせい、ではない。シベリウスの固い声。取られた手にこめられた、強い力。明らかに怒っている――ように、見える。けれどそんな態度を取られる理由が思いつかなくて、シュナはあいまいに呼びかけた。

 当然のように、返事は無い。

 どこへ行くのだろう。暗い庭園のわきを通り過ぎて、シベリウスはなお歩く。そこはいつもは馬車に乗ったまま通り過ぎていく場所で、もう少しすれば厩が見えてくるはずだ。いったいなぜ、こんなところを歩いているのだろう。


「あの、シベリウスさん」


 てっきりシベリウスが、レトリーの部屋まで案内してくれるのだと思っていた。

 それとも、あくまでも忍んでいくわけだから、やはり表からは入れない、ということだろうか。

 だとしたら、こんなところに、レトリーの部屋へ通じる裏口があるのだろうか。


「あの……どこへ行くんですか」

「……」


 なぜ、何も、言ってくれないのだろう。

 厩が見えてくる。

 ――そのまま、通り過ぎる。

 その先にある大きな小屋を見て、あっ、とシュナは声を上げた。


「先にウルクに会わせてくれるのですか!?」

「……」


 やっぱり、何も、シベリウスは答えない。

 ほどなくして、ウルクの小屋に着く。

 シベリウスが小屋の扉を開けた。そういえば、なぜ、鍵がかかっていなかったのだろう。ちらりと疑問が脳裏をかすめるけれど、促されて中へ入ると、そんなことは一気にどうでもよくなった。


「ウルク!」


 呼びかける。

 ――返事はない。


「……ウルク?」


 真っ暗な小屋の中。

 いつもなら、シュナが呼ぶより早く駆けてきてくれるはずの、ウルクの姿はどこにもない。

 カチ、と小さな音がして、ぼうっとかすかな明かりが灯った。シベリウスが携帯用の小さなランタンに火を入れて、壁に提げる。


 小屋の中は薄暗い。

 先まで見通すことはできないけれど。

 やっぱり、そこには、ウルクの姿はないように見える。


「……あの……どういうことですか?」


 誰もいない小屋。ここへシュナを連れてきた、シベリウスの意図がわからない。

 雨よけのフードを背中に下ろし、困惑した瞳で問いかける。ほのかな灯りが、暗い影を落とすシベリウスの固い表情をぼんやりと照らしていた。


「……ひとつだけ、お聞かせください」


 やがて、ぽつりと、シベリウスが口を開いた。


「……なんでしょうか」

「本当に、レトリー様のお部屋へ行かれるのですか」


 シベリウスが、シュナを見る。

 暗い光を宿す水宝玉アクアマリンの瞳に、射抜くように鋭くじいっと見つめられ、シュナの心がズキンと重く痛んだ。

 レトリーの部屋へ行く、ということ。

 シュナが、自ら足を運んでいくのだ、ということ。

 ただでさえ誰にも言いたくないような秘密を、よりにもよって、一時あんなに激しく心を揺らしたその本人に言うなんて。


 ――けれど。躊躇は一瞬だった。

 レトリーの部屋へ、自ら、足を運んでいくこと。

 すべきことを思い出した。

 こんなことをしている場合ではない。


「そう、そうなんです。早く行かなくちゃ」

「お待ちください」


 動き出そうとしたシュナの手を、また、シベリウスの手が取った。

 熱い、大きな手のひらが、シュナの細い手首をつかむ。

 その瞬間、シュナは猛烈な焦りを感じた。

 早く行かなければいけないのも尚のこと。こんなところ、レトリーに見られたら、いったい何を言われるかわからない。


「は、離してください。何なんですか。わたし、早く行かないといけないんです」

「お待ちください。なぜ――本当に、行かれるのですか」

「行きます。そのために来たんですから」

「それがどういう意味か、おわかりなのですか」

「わ、わかってますよ。どうして……そんなことを聞くんですか」

「行ってほしくないからです」


 強く、きっぱりと。

 シベリウスは一言、そう言った。


「……え?」

「あなたに。レトリー様のところへ。行ってほしくないからです」


 手首をつかむ、強い力。

 険しくひそめられたその瞳の奥で、熱い感情の炎が揺らめいている。


 どうして。

 シベリウスが、そんなことを言うのだろう。


 シュナにとってシベリウスは、あくまでも、婚約者の従者でしかない。寡黙な従者で、影のように忠実に主に付き従う。分を弁えており、余計なことはしない。そんな男だ。


 ――違う。


 違った。

 あの日、馬車での帰り道。シュナに優しく微笑みかけたやわらかいまなざし。レトリーと本当に結婚するのかと聞いたときの、憮然とした顔。そして何より、レトリーとキスをしたのかと、聞いてきたこと。

 寡黙で無表情な従者――違う。そんなこと、なかった。

 シベリウスは、シュナの前では、決してただの「レトリーの従者」ではなかった。


「だ……だめ、です。離して」


 震える声でそう言うと、シベリウスの瞳が剣呑に細められた。

 大きな身体が近付いてくる。シベリウスの顔が、シュナの顔のわきに近付き――そして、すん、と鼻を鳴らした。


「こんなにいいにおいを振りまいて……行かないでください」


 言われて、さっとシュナの頬に赤みが差した。

 肌に塗り込んだ、花の香り。劣情を誘うようなその色香に、気が付かれて指摘されることが、こんなにも恥ずかしいことだと思わなかった。

 夢中になって首を振る。


「離してください」

「レトリー様のこと、好きではないって言っていたじゃないですか。なのにどうして、こんなことを」

「そんなこと、今は関係ありません。約束したんです。今行かないと、もう、ウルクに会えなくなっちゃう」


 そうだ、自分で言っていて、気がついた。

 ウルクがいなかった。小屋の中にいないなんてありえない。それはきっとレトリーが、シュナが勝手に会ってしまわないように隠してしまったからではないだろうか。レトリーならやりそうなことだ。


 つまりシュナが早くレトリーのところへ行かなければ、ウルクに会う術はなくなってしまう。

 逸る心が、シュナの心に焦燥感をかき立てていた。


 早く。早く行かないと。誰にも見つからないうちに早く。


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