▼第2章 お嬢様と婚約者

2-1.二年後


 ウルクがルシアーノ城を離れてから、一年が過ぎ、二年が過ぎた。

 その間、シュナも城を離れていた。


 婚約の条件としてもう一つレトリーが提示したのは、十六歳になったら花嫁修業を兼ねて王都の学校に二年間入学することだった。

 そこは貴族の子女と、平民の中でも貴族の推薦を受けた裕福な家の子だけが入れる女学院で、規律に厳しい全寮制の学校だった。

 騎士としてまだ下位の部隊に所属しているレトリーは、近ごろは頻繁に国境を侵攻してくる西の隣国との戦に駆り出されていくことが多かった。

 正式にシュナとレトリーの婚約が成立した二年前のあのときも、レトリーは国境警備のため西方のスキーリー地方の州隊へと派遣されることが内定していた。

 レトリーは、自身の目の届かない場所で、シュナが社交界に出ることを決して許さなかった。


 ――俺がいない間、万が一にも他の男のお手付きになったら大変だからね。女子寮で慎ましく暮らしているんだよ。


 レトリーにそう言われても、シュナには黙って従うほかなかった。

 あの日、ウルクをシュナから引き剥がし、かつシュナを城へと無事に送り届けたレトリーは、ルシアーノ城の英雄となった。

 ベルマンを筆頭に、城中の人々からの絶大なる信頼を手中に収め、シュナとの婚約も驚くほどすんなり決まった。シュナを学校へ入れてほしいという相談も、騎士の妻として軍学の勉強にも力を入れてほしいともっともらしいことを並べ立てれば、ベルマンは二つ返事で了承した。

 全てはベルマンとレトリーが決めたことであり、そこにはシュナの意思はなかった。


「卒業まであと少しだったのに……本当にこんな時期に退学してしまうの?」


 寮のエントランスに備えられた小さな談話室で、三人の淑女が話している。

 そのうち一人だけ制服ではなく普段着のドレスを着ているのが十八歳になったシュナ。シュナを囲う制服の二人は、ここで仲良くなった年下の学友たちだった。


「本当にね。もうちょっと、みんなと一緒にいたかったんだけど」


 暗く沈んだ表情で、シュナは言う。

 レトリーから急に手紙が来たのは、つい先日のことだった。

 予定より早く戻れることになったので、シュナも学校を辞めて城に戻ってきてほしい、と書いてあった。

 学校へ行くのも、行かないのも。その時期ですら、レトリーの意のままだ。

 そのことに、不満がないわけではない。不満しかない。

 けれどどうすればいいのか、シュナにはわからなかった。

 自分で決断して、行動した。ウルクと城を逃げ出した冬のあの日。

 あの日、何もかもうまくいかなかったこと。自分の決断が間違っていたこと。そもそも自分で決断したと思っていたその一切が、結局は全てレトリーの掌の上で、レトリーの意のままに踊らされていただけだったこと。そのことが、シュナの心に重い鍵をかけてしまっていた。


「どうして、こんなに急に帰ることになったの?」


 友人の一人、シズに尋ねられ、シュナは憂鬱なため息をついた。


「婚約者が任地から帰ってきたの。それで、私にも帰って来い、ですって」


 そう言うと、もう一人の友人、コリエが両頬に手を当て黄色い声を出した。コリエはシヴァインで宝石商を営む家の娘で、シュナとは領主と領民の関係にあたるものの、たいそう気の合う仲だった。


「それって、じゃあ、帰ったら結婚するってこと?」


 そういうことになるのだろうか。シュナの口から出てくるのはため息ばかりだ。


「あのさ、シュナさんの婚約者さんて、イルカード紫爵ししゃく家のレトリー様なんでしょう?」

「えっ、知ってるの?」


 なぜレトリーと婚約していることを知っているのか、なぜレトリーその人のことを知っているのか。二重の意味でそう問うと、同じ紅爵こうしゃく位の令嬢であるシズはうんうんと頷いた。


「教室で噂になっているのを聞いたの。国王陛下のご信任もあるとっても有望な騎士様なんですって?」


 それはシュナも知らなかった。けれど野心のかたまりのような人だから、あの腹黒さと頭の良さをもってすれば、国王にすら取り入ることもあり得るだろう、とは思う。


「へえ、騎士様なんだぁ。かっこいいなぁ」

「そうなの、それがね、本当にものすごーく格好いいお方だってみんな言っていたの。背も高くてスマートでお顔もシュッとしてらっしゃるとか。上のご兄弟がもう社交界に出られている方で、お話ししたことがある人も多いみたい」


 シュナには社交界に出ることを固く禁じておきながら、自分は悠々とそうして華やかな場に赴き、多くの知り合いを作っているというのもまたレトリーらしい。

 あらためて、そんな人と結婚するのか、と思うと気が滅入った。


「……とても評判が良いわよ、っていうのは、慰めにはならなかったかしら」


 ますます重いため息をつくシュナを見て、シズが口を噤む。


「かっこよくて将来有望な騎士様なんて、私みたいな平民には縁遠すぎて憧れちゃうけどなぁ」


 無邪気なコリエの言葉がまたしても、尽きないシュナのため息を引き出した。


「シュナ様。お家の方がお迎えにいらっしゃいました。お支度はよろしいですか」


 寮母が談話室に現れてそう告げた。三人は会話をやめて立ち上がる。寮母はシュナの荷物を代わりに持って、エントランスの大きな扉を開いた。


「今までありがとう。楽しかったわ」


 シズが言って、涙ぐむ。コリエは、一緒に卒業したかったのに、とぐずぐず泣いた。


「私も、楽しかったわ。みんなによろしくね。今まで本当にありがとう」


 シュナは、泣けなかった。

 ウルクと離れ離れになってしまったあの冬の夜以来、涙がその頬を流れたことはない。それ以上に悲しいことなんて、今のシュナには何もなかった。

 ただ、寂しさや未練もそれなりにあった。

 学校は、ウルクと会えなくなったシュナにとって、とてもいい気晴らしの場所だった。あのままウルクのいない城の中で、父のベルマンや使用人たちを恨みながら鬱屈とした日々を過ごしていたら、すり減った心は決して元には戻らなかっただろう。

 同年代の友人と笑い合い、好奇心の向くまま勉強し、好きなだけ本を読んだ。そんな非日常的な日常に、シュナは確かに救われたのだった。


 そんな居心地の良かった場所を去り、これから戻るのが、あの日ウルクを追い出した城だと思うと憂鬱だった。

 昼前に馬車に乗り、乗り続け、ルシアーノ城に着いたのは夜も更けた頃だった。

 暗闇の門前で、ランタンを掲げて待っていたのはマルチだった。


「お帰りなさいませ、シュナ様」


 にっこりと微笑むマルチの笑顔の底に、ひやりと冷たい澱のような感情がひっそりと沈んでいることをシュナは知っている。

 小さく笑んでただいまと返す、シュナの表情もきっと同じに見えるだろう。

 あの日、家出をするシュナをマルチは咎め、そんなマルチにシュナは怒った。あのとき分かりあえなかったことが、二人の絆に消えない小さなヒビとなり、今なお修復できずにいる。

 それはマルチに限ったことでもなく、この城に住まう全ての人にとって、シュナとの間には冷たい確執が存在した。

 誰もがシュナのことを「ペットに依存するあまり家出までした愚かな娘」として見ており、一線引いて接していることをシュナはわかっていた。


 広い城を一人で歩く。

 広すぎて、冷たい風が吹いていた。

 一人で新しい部屋に入る。昔ウルクと住んでいた子ども部屋は今はなく、品は良いけれどもどこか他人行儀でそっけない、真新しい家具に囲まれた広い部屋。

 この部屋もまた広すぎて、やっぱり冷たい風を感じる。

 大きなベッドに横たわる。天蓋から幾重ものヴェールのカーテンが下りた孤独なベッド。

 無意識に枕元に手をやってぬくもりを探してしまう、その癖はなかなか治らない。

 伸ばした指先が冷たい鉄のパイプに触れて、シュナはため息をついて浅い眠りのふちに落ちた。






 レトリーが来るとルシアーノ城に連絡があったのは、シュナが戻ってから一週間も経った頃だった。

 すぐに連絡を寄越してこないことに対して、不満をいう者はこの城にはいない。きっとお忙しいのだろうと勝手に推測し、そんなにお忙しいのにこうしてきちんと連絡を下さったのかと、的外れに喜ぶ者さえいた。それほどまでにこの城でのレトリーの評価は、今や絶対的で揺るぎない。


「それにしても、今日これから行きます、なんて急すぎると思わない?」


 シュナは、自室の大きな化粧台の前に座っていた。

 背後ではうきうきとした様子を隠そうともしないマルチが、鼻歌など歌いながらシュナの長い蜂蜜色の髪を編み直している。


「それだけお忙しいのでしょう。いいのですよ、レトリー様はもうすぐこの城の主になるのですから。レトリー様のやり方にわたしたちが合わせるいい機会です」

「前向きね……」

「およそ二年ぶりになりますか。久しぶりにお会いできるのがみんな嬉しいのですよ」


 言外に、シュナもそう思うべきなのだと匂わされて、シュナはため息を呑み込むように口を噤んだ。


「髪飾りは、お花と宝石どちらにしましょうか」

「どっちでもいいわ」


 これもきっと、尋ねられているのはシュナの気分ではなく、レトリーがどちらを好むのかという質問なのだろう。


「せっかくですから、お召し物もとびきりお可愛らしいドレスに変えましょう。どれがいいかしら」


 耳の上から編み込みの目に沿って、繊細な宝石を散りばめた髪飾りを付けられて、今度は続き部屋になった衣装部屋へ移動する。子どもの頃よりだいぶ大きくなったその部屋の中は、シュナの知らない、大人っぽいドレスで溢れていた。


「どれでもいいわ。マルチが選んで」

「そうですか? では、あとでレトリー様にちゃんとご感想を聞いてくださいね。あと、レトリー様のお好みの色やかたちも。次に選ぶときの参考にしますから」


 そう言いながらマルチが選び取ったのは、胸ぐりの大きく開いた明るい若菜色のドレスだった。切り替えの下は淡い色調を重ねたふんわりとしたスカートで、ところどころに小花の刺繍があしらわれている。そんな繊細なかわいらしさを持ちながら、胸元や背中は大胆に開けて肌の白さを強調する。少女から、大人の女性へと変貌したシュナの魅力を存分に引き立てるドレスだった。


「ちょ、ちょっと、前が開きすぎじゃない?」


 ふくよかに育った胸の谷間までもがあらわになったデザインに、なんだかいたたまれない気になってくる。けれどマルチは実に満足げで、このくらいがちょうどいいんですよ、と笑って取り合ってくれる気配もない。そして背中の紐をきつく締めるとあらためてシュナの正面にまわり、その出来栄えを確認した。

 まるで人形ドールのように愛らしかった少女は周囲の期待を裏切ることなく成長し、たいそう見目麗しい令嬢になった。

 肌は白くきめ細やかで、ほっそりとしているのに女性らしい肉づきも兼ね備えている。

 少しばかり表情は固く陰が落ちることも多いが、それもかえって落ち着きのある大人の魅力になっている、とマルチは思う。

 とにかくマルチは、シュナの美しさをよりいっそう引き立てることに強い使命感を覚えていた。こんなに美しい女性を、婚約者のレトリーが決して蔑ろにするはずがない。そのことだけを考えて。


 これから二人は結婚する。たとえ望まない政略結婚だったとしても、そこから愛を育んでいく家庭は山とある。

 願わくば、主にもそうして幸せになってほしいと、マルチは誰よりも強くそう思っている。


 もうマルチは、シュナの心の拠り所ではなくなってしまった。マルチだけではなく、それは、他の誰でもなり得ない。


 願わくば、この先は。

 レトリーと二人、仲睦まじい関係になってほしいと、そう思わずにはいられなかった。


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