1-7.ここでお別れ
斜面に深く降り積もった重たい雪をものともせずに、シュナを背に乗せたウルクは森を駆けた。
追手がいること。すぐにも追ってきていること。そのためには少しでも早く遠くへ逃げなければならないこと。街道を外れ、獣道すらない森の深部を逃げるほかないこと。降雪は強まり、夕闇は濃くなっている。こうして道なき道を駆け続けてさえいれば、いつかは逃げ切る道も見えてくること。――誰にも何も言われていないのに、ウルクはすべて理解している。
ただ、そのような状況であるにも関わらず、わき目も振らず全速力で駆ける――というわけにはいかなかった。
鞍すら乗せていない生身の背中に、人一人を乗せて駆けるというのは思った以上に困難だった。しかも乗っているその人は、何があろうとも絶対に落としてはならない人だった。
追手に捕まらないように速く、それ以上に、間違ってもシュナを振り落としてしまわないように慎重に。追手の気配がすれば反対の方向へ、また別の方から気配がすれば別の方向へ駆ける。どこが危険で、どこが安全なのか。おそろしいほど利く鼻で、すべての状況を嗅ぎ分けながらウルクは進む。
ウルクは、それができる賢い獣だった。
ウルクは、それができるほど賢い獣だったから、やがてゆっくりとその足を止めることにも躊躇はなかった。
「……ウルク? どうしたの?」
宵闇の中、月の明かりも無い。真っ暗で、頬に落ちる雪の冷たさだけが感じられる。
立ち止まったウルクは背中から慎重にシュナを下ろした。足元にはやわらかい新雪が降り積もっている。その雪の中に、倒れ込むようにシュナは崩れ落ちた。
寒かった。
とにかく寒くて、凍えてしょうがなかった。
ずっと吹きさらしの脚にもはや感覚はなく、立ってもいられないほどだった。
そのことも、ちゃんとウルクはわかっている。
「……ウルク」
ウルクはせつない小さな声でくうくう鳴きながら、倒れたシュナの下半身にそっとその身を横たえ、シュナより体温の高いお腹の被毛で、シュナの凍傷寸前の脚をあたためた。
「だめ……だめだよウルク……いいよ、わたしのことなんて……」
話す声はか細く震え、がちがちと歯が鳴っている。
ウルクは、小さく首を振り、シュナの身体を温め続ける。
「いいってば……はやく、行かないと……行ってよ、ウルク……」
強い焦りが、シュナの手だけを動かす。弱々しい指先が、撫でるようにウルクのふさふさの頭を叩き続けた。
本当はすぐにも立ち上がって、不安定だけれども決して落ちることのないウルクの背に跨り、どこへかはわからないがどこまでも逃げ続けていたかった。
けれど身体はもう動かない。かろうじてウルクの首周りの毛をつかみ、ぎゅうっと抱きしめることくらいしか、今のシュナにはもうできなかった。
「ウルク……いやだよ、ここでお別れなんて、嫌だよ……!」
くう、くう。ウルクはシュナに顔をこすりつけながら――それでも、首を横に振る。
「だめだよ。わかってるの? 捕まったら、しんじゃうんだよ。そんなの、そんなの嫌だよ」
言い募ると、わずかにウルクが顔を上げ、じっとシュナの目を見つめた。
目と目が合う。
「……捕まらない、って言ってるの?」
なぜだか、シュナには、ウルクの言いたいことがわかった。
それはそうだろう。
十歳の時から片時も離れず、常にその瞳を見続けてきたのだから。
ウルクははっきりと頷いた。
言葉が通じていることを確信し、なおもシュナは言葉を重ねる。
「ウルクだけ、逃げるの? わたしがいたら邪魔になるから……ウルクひとりだったら、捕まらないで逃げきれるって、そういうこと?」
尋ねると、ウルクが頷いた。
「そうしたらまた……会える?」
じわりと、シュナの目じりに涙が浮かんだ。
まつ毛の先で凍っていた雪の結晶と一緒に、ウルクのあたたかい舌がそのしょっぱい粒を舐め取って。
一つ、はっきりとウルクは頷いた。
――――そしておもむろに立ち上がると、宵闇の一点を見つめて低く唸り出した。
「……え?」
どきん、と心臓が重く跳ねた。耳を澄ませるが、何も聞こえない。けれど只事ではない気配を感じ取り、なおもじっと息をひそめて耳を凝らしていると、やがてかすかな馬の嘶きが聞こえ、遅れてオレンジ色の灯かりが見えてきた。
足に力を入れてみる。
まだ、立てなかった。
「いたいた。探したよ」
てっきり城の衛兵か、あるいは騎士団の討伐隊だとばかり思っていたシュナは、聞こえた声にぽかんと口を開いてしまった。
それは、予想だにしていなかった。
単騎で姿を現したのは、騎士団員に支給される濃紺の冬用の
「……レトリー、様?」
「もうちょっと手前で追いつくかと思ったんだけど、そこは当てが外れたな。まあ、深窓のお嬢様にしてはよく頑張った方だ」
「……どうして、あなたが……」
「これでも騎士の端くれだからね。討伐隊が来たら一緒に参加するつもりだったんだけど、それより早く出番が来たからさ。全く、逃げるのが下手だな。でも、そのおかげで無駄な労力を使わずに済んだよ」
レトリーはすっかりベルマンの忠実な部下となり、よくルシアーノ城にも出入りしていた。けれどシュナは相変わらずその人を苦手としていて、思いつく限りの仮病と居留守を繰り返し、最近ではもうすっかり会ってもいなかった。
だからというわけでもないが、こんなに口調が砕けていることにまず少なからず驚いた。レトリーにとってシュナは、婚約者候補の一人とはいえ、あくまでも恭順する上司の娘であるはずだった。多少慇懃無礼ではあるものの、下から謙るような物言いをずっとしてきた。
それが、今は、いったいどうしたことだろう。
口調もそうだし、その内容もまた内容だった。シュナは怪訝そうに眉をひそめてレトリーを睨む。ウルクも同じような顔をしてずっとレトリーを威嚇していた。
ただ、二人分の穏やかならぬ視線を受けてもレトリーはいたって平然としており、利口な馬を大樹の根本に止まらせると、ひらりと外套の裾を翻して馬を下り、すたすたとシュナとウルクの元へと近付いてきた。
「こ……来ないでください」
牙を剥き出しにしたウルクに全くひるむことなく歩いてくるレトリーに、少なからず動揺し、シュナは思わずウルクの胴にしがみついた。
うう、とウルクが低く唸る。
そんな二人を見て、にっこりと穏やかにレトリーは微笑んだ。
「討伐隊はもうここを取り囲むように配置されている。俺が合図すればすぐにここへ来るし、そこの犬が君を置いて一匹だけで逃げるにしても、もう無傷で逃げ切ることはできない。その犬は賢いんだろ? だったらそいつは、もう状況をわかってるんじゃないかな」
「……」
「いわゆる『詰み』ってやつ。もう夜になったし、子どものお遊びはここまでにしようか」
相変わらず、苦手だ。嫌みたっぷりに、人を見下したようなこの言い方が。
押し黙るシュナに、レトリーは分厚い手袋を嵌めた右手を差し出した。
「帰ろう」
「嫌です」
間髪入れずに答える。
レトリーの笑みが深まる。
「すると、聞き分けのないお嬢様のもとへ討伐隊をお呼びすることになるけれど」
「やめてください」
間髪入れずに再び、答える。
レトリーの笑みがいっそう深まった。
そして。
「じゃあ、こうしよう」
まるで、あらかじめ用意された台本を読んでいるかのように。
よどみなく、朗々とうたうように、レトリーは自身の勝利への軌跡を諳んじた。
「この犬は俺が引き取ろう。そして討伐隊には、犬は森の奥へ逃げたと話す。犬の命は助かるし、君も家に帰ってお父様にしこたま怒られるだけで済む」
レトリーの言葉の裏を推し量るように注意深く聞きながら、シュナはゆっくりと口を開いた。
「そうしたら……ウルクにまた、会えますか?」
「君が望むだけ」
「ウルクのこと、怖がらないでちゃんとお世話してくれるんですか?」
これには意表を突かれたのか、素の声でレトリーは吹き出した。
「もちろんだよ。ていうか、俺はそもそもこんな犬怖くはないよ。それに、戦場へ連れて行く強いペットが欲しいと思っていたんだよね。訓練すればかなり使えそうだし、そのための世話は怠らないよ」
「せ、戦場に……!? な、何をいってるんですか、だめです、そんなの……!」
物騒な単語に悲鳴のような声を上げたシュナに、冷ややかに見下ろすレトリーの視線が静かに突き刺さる。
「駄目? 何を言ってるんだ。俺が譲り受けるんだから、どうしようと俺の勝手だろ。俺が言っているのはそういうことだよ。もうこいつは君のペットじゃなくなる。俺のものになるんだ」
それでは、そんな話は受け入れられない――安易にそう言おうとしたシュナの言葉を先回りして、レトリーはなおも言う。
「それが嫌なら勝手にすればいいよ。このまままたどこへなり当てもなく逃げてもいいし、討伐隊に捕まって犬を失うのも君の勝手だ。言っておくけど、たとえ一度は逃げおおせたとしても、また君の家で落ち合うなんてことは不可能だと思うよ。あの城は今やこの犬にとって敵地みたいなものだからね。侵入した途端に捕まって終わりだ」
「そ……そんな、こと……」
声が喉に躓いて、口から先へ出てこない。
シュナは寒さに震える指先で、ぎゅうっとウルクの身体にしがみついた。
レトリーの言うことは、頭では理解している。八方塞がりになったこの状況では、確かに、レトリーの提示した策が最善のように思える。それはシュナだってわかっている。
ただ、今日の日に起こったすべての出来事が、シュナがそう思えるように仕組まれた茶番だったことを考えると、そこに何か大きな裏があるように思われた。
おそらくは、きっとすべて、レトリーが仕組んだことなのだろう。
配達の若者の腕の怪我。それがウルクの仕業だとベルマンに密告した。討伐隊の手配。わざと時間に猶予を持たせて、シュナが家出をするよう仕向けた。仕向けたにも関わらず、結局はこの場所でシュナとウルクを一人で捕え、シュナにつらい現実を突きつけている。
レトリーは何がしたいのだろう。
ここまで手の込んだことをして、そうまでして、いったい何を望んでいるのだろう。
「……あなたは、何がしたいんですか……?」
ぽつりと、シュナはそう尋ねた。
出てくる声には、もうわずかばかりの覇気もない。
嵌められたのだ、と思う。何かとてつもなく大きな罠に。けれどそこから脱却する糸口が見出せない。話せば、話すだけ、どんどん罠に落ちていく心地がした。
どうやっても、ウルクと、ここでお別れする未来しか見えてこない。
「俺の望みは、一つだけだよ」
もう一歩、レトリーが足を進めた。
シュナとウルクのすぐ目の前。剥き出しの敵意で威嚇し続けるウルクをものともせずに近付いて、レトリーはいつもの飄々としたあの笑みで、高みからふたりを見下ろして言った。
「この犬を助けるかわりに、俺と結婚してほしい」
ぐ、とシュナが唇を噛む。
触れた手の先で、ウルクの身体にも強い緊張が走ったことがわかった。
「結婚……?」
「そう。俺だけを正式な婚約者として公にしてほしい。
「わたしが……あなたと?」
「意外か? もともと君の婚約者の候補だろ。それに、どう考えても君にとって悪い話じゃないと思うけどね。この犬に会いたいんだろ? これからも、ずっと」
これからも、ウルクに会える。
討伐隊に捕まって殺されるか、無事に逃げてもこの先一生会えなくなるかという最悪な二択を前にして、その言葉は奇蹟のように明るく輝いて見えた。
今までのように同じ部屋で暮らすことはできなくとも、今までのように元気な姿で会うことはできる。
――いや、そうではない。
結婚、という言葉に秘められたもう一つの可能性に気が付いて、シュナはぱっと顔を上げてレトリーを見た。
ベルマンは、婿を取るのだ、といっていた。つまりレトリーが、結婚したらルシアーノの城へ来るのだ。
ということは、つまり。
レトリーの所有物となったウルクだって、あるいは――。
「一つだけ、約束してくれませんか」
瞳の奥に強い光を携えて、シュナが言う。
抱きしめた腕の内側で、ふるふる、とウルクが首を振っているのには気が付いていた。
やめた方がいいと、ウルクは思っているのだろうか。
けれども他にもう、シュナにはウルクと一緒にいられる方法が見つからなかった。
「何を?」
「結婚するなら、そのときはウルクも一緒に連れてきてほしいんです」
「おいおい……まったく、貴族のお嬢さんが、たかだか犬一匹にこの入れ込みようか。これでは紅爵がご心配なさるはずだ」
「誰に何て言われてもいいです。わたしにはウルクが必要なんです」
「重症だな。――よし、じゃあこうしよう。犬は城の中には入れずに必ず外小屋で飼うこと。あくまで俺の所有物であること。ゆえに会うときは必ず俺の許可を取ること。この条件が呑めるなら連れて行ってもいい」
「……」
束の間、シュナは返答に迷う。
ウルクは、だめだ、というように何度も首を振っている。
親友に――あるいはそれ以上に大切な存在であるウルクに会うのに、いちいちお伺いをたてなければならないなんて、そんなばかみたいな話があるだろうか。そこまで下に見られなければならないのか。こんな男の、口先だけの約束を真に受けて受け入れて、それで本当にいいのだろうか。
「どうする?」
――いや。
それでいいのだ。
ウルクが無事でいてくれて、また会うことができる。
願いはシンプルで、ただそれだけだ。
どうせいつかは、誰かと結婚しなくてはならなかった。誰が選ばれても意に沿わないのなら、それがレトリーであっても問題はない。仲睦まじい夫婦生活が送れる自信は皆無だったが、政略結婚なんてそんなものだ。そんなつまらない未来の中に、そんなつまらない未来だからこそ、たとえ会うのに許可がいるのだとしても、ウルクがいるか、いないのか、この差は殊更大きかった。
「……わかりました。あなたと、結婚します」
シュナが言う。
固くこわばっていたウルクの身体から、するりと力が抜けていった。
「そう言ってくれると思っていたよ。では、これからよろしくね、シュナ」
差し出された右手を、シュナは無視した。
けれどその手を無理やり引き寄せて、レトリーは強引に握手を交わし、実に満足げににっこりと微笑んだ。
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