1-6.最後の日(2)


 部屋の扉を開けるなり、シュナは身の丈を超える巨きな獣にのしかかられ、押し倒された。


「う、ウルク……?」


 シュナが飛びかかって抱きしめにいこうと思っていたのに、当てが外れて目を丸くする。けれどすぐにウルクがすんすんと鼻を鳴らして顔を近付け、シュナの目もとをぺろぺろ舐めだしたので、全てお見通しなのだろうなと悟った。

 いつもそうだった。ウルクはシュナの気持ちをよく知っている。悲しいとき、さみしいとき、落ち込んでいるときは特に。いつだって何も言っていないのにそばに寄り添って、慰めるように頬を舐めてくれるのだった。


「ウルク……ウルクぅ……!」


 あふれ出した涙が止まらない。白くなるほど強く噛み締めた唇の内側から、熱い嗚咽がほとばしった。腕を伸ばして、ふさふさの胸にしがみつく。くうくうと沈んだ声で鳴きながら、ウルクは撫でるようにシュナの頭に頬を寄せた。


 ――けれどいつまでも、泣き暮らしているわけにもいかなった。

 雪はいつしか降り止んで、曇天の色は数段明度を落としている。日が暮れるまでもういくらもない。嘆く暇も、悲しんでいる暇も、そして進退を悩み深慮している猶予もまた、なかった。

 シュナはゆっくりと顔を上げた。

 上げた瞳にはすでに涙はなく、強い決意が滲んでいる。


「聞いて、ウルク」


 ウルクの両頬に手を当てて、言い聞かせるようにゆっくりと口にする。


「これから騎士団が、ウルクを討伐しに来るんだって。捕まったら離れ離れになって、きっともう会えなくなっちゃう。私は、そんなの絶対に嫌」


 ウルクは、黙って耳を傾けている。否定も肯定もせず、慎重にその話の真意を吟味しているように見えた。


「だから、一緒に家を出よう」


 ウルクは、わずかに首を傾げた。

 シュナは何を問われたのかわかっているかのように、強くはっきりと頷いた。


「私も行く。一緒に街で暮らそう」


 再び、ウルクは首を傾ける。

 本当にそれでいいのかと問うているのだろう。

 そしてまた、その瞳の奥には、やめた方がいいのでは……と引き止めるような葛藤が窺えた。それに気が付いて、かえってむきになるように、シュナはすくっと立ち上がった。


「もう、それしかないの。時間もないんだ。これから少しだけ、不便な暮らしになると思うんだけど……一緒に、行ってくれる?」


 シュナは一度そうと決めたらなかなか撤回しない頑固なところがある。シュナが十歳の頃から片時も離れず共に過ごしてきたウルクは、誰よりもそのことをよくわかっていた。

 わん、と力強く一度ウルクは鳴いた。シュナの覚悟を受け止め、同時に己の覚悟も決めて、全てに従う強い意思を持った返事だった。


「すぐに準備する。待っててね」


 決めた後はもう、行動は素早かった。

 荷造りなど、今までにしたこともなかったが、そもそも持ち出せるような荷物があまりなかった。シュナが自室として使用している部屋は、主室が一つに、寝室と衣装部屋が続き部屋として繋がっている。金も食料も、生活に必須の日用品も、その部屋の中には何もない。

 シュナは衣装部屋に転がり込んで、売ればまとまった金になりそうな貴金属のアクセサリー類をかき集めた。バッグは舞踏会に出るとき用の小さなハンドバッグしか持っていなかったので、入る分だけ詰めたらすぐに終わってしまった。バッグの持ち手にスカーフを繋いで紐状にし、肩から掛ける。

 次に下穿きを何枚も重ねて穿いて、膨らんだ脚を毛皮の長靴に突っ込んだ。外套コードを羽織り、マフラーと手袋を嵌め、毛糸の耳あてが付いた帽子を目深に被る。


「準備できたよ。後は……」


 最後に忘れ物はないかと主室を見渡して、飾り棚に置かれた小箱のところでピタリとその目が止まった。

 駆け寄って、箱を手に取る。手のひらに収まるくらいの、宝石の散りばめられた小さな小箱。亡き母から譲り受けたその小箱に、シュナは宝物をしまっていた。

 箱を開ける。母親の付けていた指輪と、初めて家族で街へ出た日に買ってもらったブローチ、ウルクが大きくなるたびに買い替えてきたいくつかのケージの鍵、そして、小さな首輪が出てきた。


「……これ、懐かしいなぁ」


 小さな首輪。柔らかく鞣した黒革に、水宝玉アクアマリンの宝石が埋め込まれている。仔犬のウルクがこの家に来ることが決まった後、一番最初に買った首輪だった。

 今のウルクと比べると、笑ってしまうくらいに小さな輪っかだった。このくらいの大きさしかしかなかったのかと思うと、まだ五年ほど前の出来事がもうずいぶんと遠い昔のことのように思えて、懐かしさに目頭が熱くなった。


「持っていきたい、けど……」


 ハンドバッグはもうパンパンで、外套に付いたポケットも小さい。スカーフに巻き付けようか……それとも荷物は最小限に抑えるべきと諦めるのか……悩んでいると、ウルクがシュナの足元まですり寄って、すい、と前脚を差し出した。


「なに、ウルク? ――あっ」


 そうか、足首になら付けられるかもしれない。ドキドキしながらシュナはウルクの右の前脚に仔犬の首輪を巻き付けた。一番輪の大きくなる箇所で留め具を合わせる。


「うん、似合う。じゃあわたしは、鍵を持ってるね」


 右前脚に黒い首輪を嵌めたウルクに、満足そうにシュナは微笑んだ。幼い頃は、首輪を付けることがなんだかかわいそうに見えて好きではなかった。けれど今は、まるで自分の所有物の証であるかのように見えるその首輪に、なんだか少しドキドキしていた。


 シュナは最後に小さな金色の鍵を外套のポケットに突っ込んで、部屋の大きな窓を開けた。

 昔、部屋の窓から縄を下ろして城を抜け出すお姫様の話を読んだことがあった。堅苦しい規律に支配された城を出て、下町で仕事を見つけて自由に生きる、その小説がシュナは大好きだった。

 こんな形で家を出ることになるのは遺憾でしかなかったが、同時に少し、少しだけ、心がわくわくもしていた。周囲との軋轢。思い通りにならない未来。暗く閉塞したこの状況から、抜け出すことができるのだ。


 ウルクと二人で街で暮らすという想像は、明るかった。最初はたいした仕事もできないだろうから、貧しくもなるだろうが構わない。そのうち何かやりがいのある仕事を見つけて、自分で稼いだお金で、自分のしたいことだけをする。きついコルセットを無理やり締め上げられることもない。意に沿わぬ婚姻を強要してくる者もいない。――もしかしたら、いつか「恋」というものもできるかもしれない。


 開いた窓から、風花の散る零下の寒風が吹き込んできた。

 夕暮れ間近の冬の屋外は、予想を越えた寒さだった。思えば、こんな時間に外に出たこともなかった。

 けれど寒さは、今のシュナには躊躇に繋がらない。

 まだまだ、自分の知らないことがある。一つ一つ、それを見つけていく旅がこれから始まるのだ。

 大丈夫。

 だって、自分は一人ではない。


「――ウルク」


 窓から伝っていくような縄などないことは、初めからわかっていた。けれど、なんとかなると確信していた。最近ではずっと家の中にいてろくに身体を動かせないウルクが、たまにこの窓から外へ抜け出して、散歩がてらに森を駆けて帰ってくることがあるからだった。

 呼びかけると、心得たようにウルクが身を伏せる。

 シュナは強く地を蹴って、ひらりとその背に飛び乗った。


「メイドたちが使っている門の前にマルチがいるんだって。わかる?」 


 尋ねると、すんすんと鼻を鳴らして、ウルクは一つ頷いた。

 そして軽やかに窓枠に飛び乗って、隣のサクラルの樹に飛び移り、あっという間に部屋を後にした。






 凍えるその身を抱き込むようにして震えて立っていたマルチの元へ、木々の間をすり抜けるように駆け抜けたウルクが音もなく着地する。

 いっとき降り止んでいた雪はまた静かに降りはじめ、空は墨を溶かしたように暗い色になっていた。


「よかった、シュナ様――」


 マルチは俯いていた顔をぱっと上げたが、ウルクの背中に跨ったシュナとその格好を目に入れるなり、一瞬明るんだその表情をすぐにまた曇らせた。


「シュナ様……まさか……」

「最後に会えてよかった。マルチ、今までありがとう」


 無邪気に悲しみそう言ったシュナに、鋭いマルチの声が飛んできた。


「いけません! だめです、シュナ様。私は、ウルクを外に逃がすためにここにいるのです」

「そんなこと言ったって、一緒に行くってもう決めたの。でも、あのね、部屋の窓を開けてきてしまったの。騎士団が来るまでに少しでも遠くへ行かないといけないのに……だからね、戻って、時間を稼いできてくれないかしら。お願い」

「そんな! わたしに、シュナ様の逃亡に加担しろとおっしゃるんですか!? そんなこと絶対に駄目です!」


 引き留めるマルチの必死の形相を見て、ひやり、とシュナの心に冷たい汗が伝った。

 当てが外れた。予想と異なる。思い通りに事が進まない――まるで先行きの暗示のようだ。

 最後にひと目、マルチに会いたかった。会ってお礼を言って、落ち着いたらまた会おうねと約束を交わすはずだった。別れはつらいけれど、それでも明るい未来のためなら笑顔で手を振れる――そう、思っていたのだが。


「お戻りください。いけません」


 生まれて初めて、マルチからこんなにも厳しい声と口調でそう言われて、シュナの心に浮かんだのは深い悲しみと絶望――そして、心を焼くほどの激しい反発心だった。


「じゃあ、もういいよ!」


 マルチになど会わずに、さっさと誰にも見えないところから出てしまえばよかった。一刻を争う場面で、選択を間違えた。そのことがシュナの心に、いいようのないほど大きな不安と焦りを与えていた。

 シュナがウルクの肩を叩くと、身を伏せていたウルクが立ち上がった。マルチは半開きになっていた門扉を後ろ手に閉めるとその前に立ちはだかり、ついに大きな声で叫んでしまった。


「誰か! お嬢様を!」


 やめてよ、とシュナが悲鳴に似た声を上げるのと、すぐに城の通用口が開き、メイドが一人と衛兵が一人やってくるのとが同時だった。


「ウルク! お嬢様を離せ!」


 衛兵が剣を抜き、振りかぶる。

 ウルクに剣を向けるなんて、とシュナは青褪めたが、ウルクは全く意に介していないように飄々と歩みを進めた。一度跳ねて剣先の軌道を外れ、二歩目でマルチの真横に下り立つ。マルチにぶつかるすれすれで、前脚を上げて扉を蹴り開けた。


「ウルク、シュナ様! お待ちください!」


 シュナの背を打つ、マルチの悲愴な声。

 メイドの悲鳴。大慌てで城内へ駆けていく音。

 振り向くと、血眼で剣を振り下ろす衛兵と目が合った。

 人はこんなにも、憎悪に満ちた怖い表情をすることができるのか、と思った。

 次いで、その憎悪の感情が他の誰でもなく、自分とウルクに向けられたものだと悟り、シュナの心の奥で何かが欠けて砕ける音がした。

 それが何かを考える前に、ウルクは軽々と側溝を飛び越え、薄闇の森へと姿を消した。


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