1-5.最後の日(1)


『その日』は、突然訪れた。


 その日、シュナは十六歳の誕生日を三ヶ月後に控え、いつものように誕生日パーティの準備に勤しんでいたところをベルマンに呼び出された。

 曇天から大粒のぼたん雪が降り注ぐ、寒い冬の日の午後のことだった。


 貴族籍に生まれた子どもにとって、十六歳の誕生日は特別な意味を持つ。

 社交界サロンへの出入りが公に許可され、結婚も可能となる。その日をもって子どもから大人へと扱いが変わる、ひとつの大きな節目の日だった。

 シュナも誕生日当日に正式にルシアーノ家を継ぐ者としてお披露目されることが決まっており、その日のためにベルマンはパーティの開催を予定していた。

 招待客の多くはルシアーノ家と同じく軍務系の派閥に属する貴族家で、そのパーティの中でベルマンとシュナは婚約者を選定することになっていた。


 廊下を歩く、シュナの足取りは重かった。

 今年は例年にない寒冬で、大雪の続く窓の外はいつも薄暗い灰色の空に覆われている。ぴたりと閉ざされた窓の内側で、毛皮の長靴を履いているのに、凍るような寒さが足元から上ってきた。

 それなのに、いつもかたわらでその足を温めてくれていた、ウルクの姿はどこにもない。

 ウルクは一年ほど前から、その大きさが使用人や来客に恐怖を与えるという理由によって、シュナとともに城内を連れ立って歩くことを禁止されていた。

 ベルマンはウルクを部屋に入れておくことにも猛反対で、そのことでシュナとはひどく折り合いが悪くなっていた。顔を合わせればそのまま言い合いに発展していくことが多く、今日呼び出されたことだって、シュナが聞いて楽しい話でないことは明白だった。


 どうして、こうなってしまったのだろう。


 成長するにつれ、毎日、少しずつ何かが壊れていくようだった。

 ウルクとふたり、無邪気に笑い合いながら、元気に庭園を駆け巡った。

 あの頃の幸せは、いったい、どこへ消えてしまったのだろう。






「……お父様、シュナです」


 ベルマンの居室にほど近い、応接室の一つをノックする。扉が開いて、ダークスがシュナを招き入れた。落ち着いた深緋の絨毯が敷かれた広い部屋。正面の壁の奥には大きな暖炉が設えられ、ゆたかな炎が焚かれている。シュナが入ると、すぐにキャリアがやってきて、湯気の立つリーゴの香茶こうちゃを持ってきた。

 部屋の中はとても暖かいのに、そこに広がっていた光景を目に入れて、シュナは歩みを凍らせた。


 険しい顔をしたベルマンの前に、二人の男が立っている。

 一人は二十一歳になったレトリー。もう一人は見たこともない平民の若い男だった。その男の服の前面と左袖は血塗れで、腕には手当てをしたばかりと思われる、朱色のにじむ真新しい包帯を巻いていた。


「シュナ。お前は……大変なことをしでかしたな」


 静かに語り出す、ベルマンの声は震えていた。これほど怒った父の声を、シュナは今まで聞いたことがなかった。


「何の、お話ですか」


 心臓が、鷲掴みにされたようにぎゅうっと痛んだ。何を言われているのだろう。何の話かわからない。けれども言いようのないほど巨大な不安が一瞬にして沸き上がり、シュナの脳裏を真っ黒に染め上げた。


「とぼけるな。わかっているんだろう。――ウルクがこの者に怪我をさせたことを」


 ベルマンはそう言って若者を指さした。男は腕をおさえて大げさに呻いてみせた。


 ――ああ。

 いったい、どうして、こうなってしまったのだろう。


「お父様……どうして、そんなことを言うんですか」

「何?」

「どうして、信じるんですか、そんな話を。ウルクがそんなこと、するはずがないでしょう」

「本当にお前、何も知らないのか。間違いなくウルクがやったのだ。何人も目撃しているのだぞ」

「え?」


 そんなはずはない。ウルクがそんなことを、するはずがない。

 全く聞く耳を持たないシュナに、レトリーが横から口を挟んだ。


「私が見ました。ここへ来る途中の庭園で、商品を運び入れているこの若者に、突然巨大な白い獣が襲い掛かったのです」

「あり得ません!」

「僭越ながら……わたくしも見ておりました。確かに、あれはウルクでございました」

「えっ!?」


 さらに言葉を重ねたのは、お茶を出し、そのまま壁際に控えていたはずのキャリアだった。


「他にも、メイドや庭師なども目撃しております。手当てをした医術師も証言できるかと」


 ただの侍女かと思っていたが、そうではなかった。キャリアも役者だったのだ。

 この笑えない、下手な茶番の。


「嘘……嘘だって、みんなわかってるんでしょ。そんなはずないじゃない」

「シュナ。そう思いたいのはわかるが、現実を見なさい」

「現実を見ていないのはお父様の方でしょう!」

「シュナ! いつまでもペットに依存してるんじゃないと言っているんだ!」


 ベルマンが声を荒らげる。強い物言いにびくりと身が竦み、次いで、そのあまりの言い様に涙がにじんできた。


「う、ウルクは、愛玩動物ペットじゃありません……!」

「じゃあ何だ、友だちか? 弟か? そうだとしたらなお悪い。おまえ、わかっているのか。もうすぐ十六になるんだぞ。いつまでもウルクウルクと……相変わらず首輪も付けないで。おまえがそうやってウルクに依存して甘やかすから、このような悲劇が起きたんじゃないか」

「違います! ウルクがやったんじゃない!」

「ウルクが、やったんだ。今回の罪をもって、ウルクは施設へやることにする。いいな」

「いいわけないじゃないですか! ひどい! なんでそうなるんですか!?」

「なんでも何もない。他に犯人がいるとでもいうのか。ウルクの他に、この私の平和な領土に、あんな悍ましい魔獣が他にいるものか」


 初めてウルクに出会った日――

 動物商のブルッグからウルクを引き取って、そのままベルマンとシュナはシヴァインの街で買い物をした。

 母が亡くなり、二人の姉たちは嫁に出て、広い広い州城に取り残されるように父と娘は二人きりになった。互いに心の距離感を図りあぐねているように、探り合うようにぎこちなく接していた。そんなあのときのベルマンとシュナの間に入り、仲をとりなしてくれたのがウルクだった。

 ウルクを中心に、会話が弾んでいく。ウルクに似合いそうな首輪を探そう。ウルクの食べものを買いに行こう。食べものを買うならついでに新しい食器も買おう。そうしてベルマンとシュナは買い物を繰り返し、次第に仲の良い親子になっていった。

 ベルマンはシュナの腕に抱かれるウルクの背中を撫でて、あの日、静かな声でこう言ったのだった。


 ――おまえが来てくれて嬉しい。

 心から感謝している、と。


「お父様……どうして……」


 みんな、ウルクに感謝していた。

 みんな、ウルクが好きだった。

 確かにそんな日があった。

 確かにそんな日があったのに――


「話は終わりだ。施設には話を通してあるから、夜には迎えの者がくる。それまでにお別れと、心の整理をしておきなさい」


 ベルマンはそう言って、ちらりとシュナの顔を見て――それから、深く眉間に刻み込んでいた皺をふいに和らげて、心底困ったようにため息をつき、シュナのそばまで来るとその肩をぽんぽん叩いた。

 白くなるほどかみしめた唇を震わせて呆然と佇んでいる、シュナの様子をさすがに憐れと思ったのだろう。


「だから、首輪をして、ケージに入れて繋いでおくようにと、何度も何度もそう言っていただろう。だが、可哀相だが、いい機会だった。結婚したらどのみちウルクはここにはいられなかったのだ。これでおまえも吹っ切れるだろう」

「……え……?」

「当たり前だ。紅爵夫人ともなるべき者が、年中自室にこもってペットと戯れているわけにもいかないだろう。人と動物の間には、適切な距離がある。その距離を保てないのでは、親としてこれ以上一緒に居させることはできない」


 人と動物の間に――距離が――果たして本当にあるのだろうか。

 適切な距離。適切とは何だろう。誰かが誰かにとって都合がいいと決めただけの、そんな勝手なものさしで、シュナとウルクのいったい何を「適切」ではなかったと断ずるのだろう。

 あんなにも心から信頼し、愛しく思い、心の支えと思ってきたのに。






「……シュナ様」


 あまりの出来事に思考を止めて、ただただ立ち尽くしているシュナに、気遣わしげなダークスの声がそっとかかった。

 いつの間にか、ベルマンとレトリーは揃って執務室へと出て行ったようで、キャリアも、怪我をした男も退室し、部屋にはシュナとダークスだけが取り残されていた。


「シュナ様……早くしないと、施設のものが来てしまいます。それまでに、どうか」


 目をやると、ダークスの目にも激しい困惑と心痛の色が見えていた。

 ダークスは動物が好きだった。普段はベルマンに付き従っているのであまりシュナたちと会うことはなかったが、たまに会ったときは、よくウルクを撫でて可愛がってくれていた。

 シュナの目に、ようやく感情が浮かび上がった。


「ダークス……ウルクは本当にやってないの……」

「わかっております。ウルクではありません。あの子がそんなことを、するわけがない」


 きっぱりとそう言い切られて、シュナの目に大粒の涙がせり上がった。


「お願い……ウルクを、連れていかないで」

「申し訳ございません……出来ることならば私もそうしたかったのですが……旦那様の決意はお固く……」


 ああ、とシュナはくずおれた。

 けれど床に両手をついたところで、その肩を力強い腕が支えた。


「シュナ様。旦那様は『施設の者がくる』とおっしゃいましたが、実際に来るのは騎士団の魔物討伐部隊の者です。彼らが到着すればウルクには逃れる術はないでしょう。そうなる前に、どうかウルクを、森へ」

「……そんな……」

「急ぎませんと。旦那様もきっと、本音では殺してしまうのはさすがにやりすぎだと思っておられると思うのです。だからこの場に私が留まっても何も仰らなかった。ウルクが自ら出ていくというのであれば、きっとそのまま行かせてくださるでしょう」


 優しいはずのダークスの言葉を、絶望に染まる心地でシュナは聞いていた。

 どう言い繕ったところでつまり、結局は、ウルクはこの城から出ていってしまうということだ。


 ――そしてもう、二度と会えない。


「いやだ……嫌だよ、そんな、急に……」

「おつらいですね……ですが、急ぎませんと。騎士団が来てしまう前に」

「でも……!」

「お嬢様。シュナ様。ウルクはシュナ様の言うことしかききません。シュナ様しかウルクを動かせないのです。ウルクを守れるのは、シュナ様だけなのですよ」


 守る――

 その一言にはっとして、ようやくシュナは顔を上げた。

 確かにそうだ。たとえダークスがウルクに森へ逃げろと言ったところで、絶対にウルクは動かない。シュナの部屋で、たとえシュナがいなくとも、ずっとその部屋を守り続けるだろう。


 ――どこにも行かないでね。ずっと一緒にいてね。


 それが、幼いシュナとウルクの交わした、二人を繋ぐ約束だから。


「お急ぎください。裏手にある使用人用の出入り口にマルチを立たせております。そこまで行けば、あとはマルチが外に出してくれるでしょう」


 ダークスの言葉に、シュナは小さく頷いた。


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