1-4.ふたりはいつも一緒(3)


 その日からまた、一年が過ぎ、二年が過ぎた。


 十四歳になったシュナは、また少し背が伸びて、身体のあちこちに女性らしいふっくらとした丸みをつけ、子どもから年頃の少女へと変わろうとしていた。

 ウルクもまた、さらに大きくなった。四肢を付けて立ち上がると頭がシュナの胸のあたりまでくる。体長は尾を含めずとも軽々とシュナの身長を超すほどで、今やもう誰もがウルクのことを、さすがに「犬」とは呼べなくなってしまった。


 この年、厄介な流行り病が国を襲った。

 いつもは冬に流行るような質の悪い風邪の一つが変異して、夏に流行った。

 ルシアーノ城にもその病魔は忍び寄り、メイドが罹り、マルチが罹り、そしてある晩とうとうシュナに移った。


「お嬢様。お加減はいかがですか」


 夜、寝込むシュナの様子を見に部屋に訪れたのは、療養中のマルチではなく、別の侍女のキャリアだった。マルチの休暇の日にのみ代わりにシュナにつく年配の侍女で、普段はシュナの寝室の中にまで入ってくることはない。そのため、さながら虎かライオンか、まるで大型の肉食獣のような大きさに育ったウルクをこんなに間近で見るのは初めてで、ベッドのかたわらに寝そべるウルクを見たときは危うく手に持ったトレイを取り落としそうになってしまった。


「……食事なら、そこに、置いておいて」


 ベッドの中から、弱々しい声で返事があった。キャリアが薬と食事を運んできたことには辛うじて気が付いていたようだが、起き上がるほどの気力はないようだった。痛ましい様子にキャリアは悲しげに目を伏せる。ウルクも心配そうに、くう、と鳴いた。


「昨日も一日、何も召し上がっておられないですよね。せめて一口だけでも、お口になさいませんか」

「うん……あとで」

「いえ、どうか少しだけでも。食べさせて差し上げましょうね」

「いい……」


 もはや声を張る余裕もなく、断る声はかすれてか細い。正義感と使命感に満ち、少々強引なところもあるキャリアに意見をするのは体力がいる。諦めてシュナが熱いため息をこぼすと、その意を正確に汲み取って、ウルクがのそりと起き上がり、ベッドへ近付こうとするキャリアの行く手を阻んだ。


「そ……そこをおどきなさい、ウルク。シュナ様にお食事を……」


 ぴたりと、キャリアの足が止まる。それはそうだろう、普段は人前で牙を見せることすらしない穏和なウルクが、うう、と喉の奥で低い唸り声を上げていた。威嚇されていることは明確で、キャリアは足元から竦むような恐怖がせり上がってくるのを感じていた。


「し、シュナ様……」


 しかしキャリアはシュナの侍女であり、しっかり看病するようにと重々ベルマンから申し付けられている。衰弱しきっているのは目に見えて明らかで、せめて薬を一口だけでも、という強い思いは変わらない。変わらないのだが――


「あとでちゃんと、たべるから……いまは……」


 言葉の続きは、強い咳の音にかき消されてうやむやになる。肺にひびでも入っているような、嫌な音のする長い咳込みがようやく終わると、辺りは急に静かになった。すう、と小さな寝息が聞こえる。そのまま眠ってしまったのだろう。


「シュナ様……」


 キャリアは葛藤した。職務を全うしたいという強い責任感でもって、シュナが完全に寝入ってしまう前にベッドに駆け寄ってその身を起こし、水と薬を与え、汗を拭き取り、そしてせめて一口だけでも粥を口にさせるべきだと思っている。

 けれど、できない。

 どうしてもこれ以上ベッドに近付けなかった。

 思い通りに仕事ができない悔しさにキャリアはぎりぎりと唇を噛んだ。それよりも何よりも、これ以上万が一シュナの病状が悪化したときに、自分がここで何もしなかったせいだと責められることが耐えられなかった。侍女としてのプライドにかけて、責任を持ってシュナの看病をしたかった。

 ――けれど、できない。

 いいようのない口惜しさと敗北感に顔を歪ませながら、キャリアはドスドスと足音も荒く退室した。


 もともと、キャリアは、ウルクを飼うこと自体に初めから反対していたのだ。シュナは庶民の娘ではない。結婚を控える紅爵家の令嬢が、たかだか犬に――いや、事態はなお悪い――もはや犬ですらない得体の知れない獣に依存して同じ部屋で暮らしているなんて、外聞が悪くてならなかった。


 あんな獣、いなければよかったのに。


 仕事への不満は、やがて、そんなウルクへの呪詛と嫌悪に変わっていた。


 ――そして。

 そのような不満を持つ者は、城内に決して少なくなかった。






 そのまま深夜を過ぎても、シュナは滾々と眠り続けた。

 吐く息は荒い。また熱が上がってきたのか、布団から出ている顔は真っ赤だった。


「ウルク……ウルク……」


 シュナはうなされながら、何かを探るように枕元へと手を伸ばした。

 そこは四年前からこの間まで、ウルクが寝ていた場所だった。

 最近はもうウルクが大きくなりすぎて、さすがに同じベッドで眠ることが不可能になっていた。ベッドはウルクが横になるとそれでもういっぱいいっぱいで、一緒に寝ようとするとシュナはウルクの腹の上に乗って寝るしかなくなる。ウルクはそれでも良さそうな顔をしていたのだが、さすがに窮屈で明け方にもなると身体が痛むし、寝返りをするたびにベッドから落ちてしまうので、おおいに不満そうな顔をしながらも仕方なく、ウルクはベッドを下りて床で眠ることになったのだった。


「ウルク……」


 かすかなシュナの声。うわ言で、呼びかけているわけではないのだが、浅く眠っていたウルクはすぐに気がついて起き上がり、眠るシュナの胸の上にぽふんと顔を置いた。

 そこにいたのかとほっとするように、シュナは小さく息を吐き、弱々しい手つきでウルクの頭や耳を何度も撫でた。


 ウルクは、静かに目を閉じた。

 触れるシュナの手のひらが、今までにないほど熱を持っている。

 体内を侵す病魔のにおい。日に日に弱っていく息づかい。

 病に抗うだけの体力が、もう、今のシュナには残っていない。

 けれど、どうすればいいのか、ウルクはちゃんと知っていた。

 ウルクは利口で、そして聡明な獣だから。


「……」


 小さなランプの灯りだけが照らす薄暗い寝室で、ごそ……とわずかに衣擦れの音がした。いつもウルクが使っているくたびれた毛布が、くるりと「何か」に巻きつけられた。


 シュナは依然眠っている。

 そのシュナの上に、大きな「人」の影が静かに覆いかぶさった。


「……ん、……」


 苦しげに浅い呼吸を繰り返す小さな唇に、「誰か」の唇がそっと重なった。

 ぴったりと合わさった唇の内側を、ぬるい液体が少しずつ伝っていく。粉末状の薬と栄養剤を混ぜて溶かした薄橙色の水。温かい舌が、眠っている口内をそっと揺り起こすように、柔らかい頬の内側をやさしく撫でた。

 ゆっくりと、シュナが水を飲む。鼻から漏れた浅い吐息が誰かの鼻に小さくかかり、その「男」は小さく目もとをゆるませた。


 男は何度も何度も繰り返し、少しずつ、少しずつシュナに栄養水を与えていった。

 時間をかけてコップ一杯弱を与えきると、今度はすっかり冷めた粥の皿に手を伸ばした。においを嗅いで成分を確かめると、少しだけ口に含んでふたたびシュナに覆いかぶさる。

 粥はとろとろに溶かされていて、ほとんど液体のようだった。重ねた唇の内側に、ミルクのにおいが香り立つ。とろみのあるどろりとした粥は男の口の中で数回咀嚼され、舌の上に乗せて慎重に喉の奥まで届けられた。


「……ん……っ」


 久しぶりの食事を意思とは無関係に嚥下した喉が驚いて、そこでようやくシュナは薄く目を開けた。


「……」


 口を離し、男はわずかに顔を上げた。


「……」


 暗闇の中で、目と目が合う。

 シュナの唇がわなないた。


「……だれ、ですか」


 部屋は暗い。熱のせいか、目に映る景色も霞んでぼんやりしていた。それでも、おおよその気配から、それが男の人だということはなんとなくわかる。今までに会ったことのない、全く知らない男だということも。

 ――けれど、そんなこと、有り得るだろうか。

 城の者ではない。護衛の兵士でもない。ほかに忍んでくるような男の知り合いも特にない。何よりこの部屋は、護衛より番犬よりはるかに頼りになるウルクが護っているのだ。他人が入れる道理がない。

 よって、有り得ない。

 ということは――

 それでは、これは、夢なのだろうか。


「――シュナ」


 知らない男の人の声、だった。

 聞いたこともない低い声が、小さく、シュナの名を呼ぶ。

 伸ばされた手のひらが汗に塗れたシュナの額に触れ、頬に触れ、そしてやさしく耳に触れた。


「――――――」


 ――ウルク、と。

 とっさに呼びかけようとして。

 そのようなことがあるわけがないことに思い至って、口を閉じる。

 わけもなく、ドキドキしていた。

 風邪による熱とは無関係に、触れられた耳がひどく熱かった。


「……」


 誰なのだろう。

 わからない。

 不思議なのは、誰かもわからないその人のことを、シュナはまったく怖いと思っていないことだった。


 シュナはそっと手を伸ばした。

 熱い手のひらが、男の頬をとらえる。

 輪郭をたどるように顔を撫でると、まるでいつもそうされているかのように、心地よさそうに男が目を細めた。

 伸ばしていた左手が、男に取られる。

 男はシュナの左手に愛おしそうに鼻先を擦り付けて、においを嗅ぎ、ほっそりとした指先にそっと口づけた。


「はやく、元気になって」


 男が言う。

 わけもなく――

 何かを思考する間もなく、シュナの瞳からぽろりと涙の粒がすべり落ちた。


「……うん」


 ぽろ、ぽろ。涙がこぼれる。

 夢でもいい。熱に浮かされた頭が見せる幻覚でいい。

 この人に会えたことが、涙が出るほど嬉しかった。


 目を閉じると、気配が近付き、まぶたに唇が下りてきた。柔らかく温かい唇が、涙の粒と軌跡を丁寧に舐めて拭っていく。

 ふわりと香る、嗅ぎ慣れた花石鹸のにおい。

 その奥に、もっと嗅ぎ慣れた生温かい獣のにおいを感じながら、シュナは再び深い眠りに落ちていった。






 シュナの熱は翌日には下がり、その翌週には歩けるようになるほどにまで回復した。

 ベッドのかたわらには相変わらずウルクが寝そべって控えていて、シュナが呼ぶといつでもぽふんと布団に頭を乗せてくる。


 やがて流行り病は季節風のようにペティシュールの国を通り過ぎ、ルシアーノ領にも以前と変わらぬ日常が戻ってきた。


 あの日の夜に見た夢を、シュナはもう、覚えていない。


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