2-2.新しい従者
「久しぶりだね、俺の愛しのお嬢様。元気だったかい?」
応接室に入ると、そこにはすでにレトリーが到着していた。
およそ二年半ぶりで、レトリーは今年で二十三歳になった。久しぶりではあったが、演技じみた大仰な仕草や軽薄な微笑みなどは相変わらずで、一見して特に変ったようには見受けられない。
「お久しぶりです。おかげ様で、恙なく過ごしております」
「相変わらず素っ気ないな。けれど見違えたよ、とても綺麗になったね」
「あ……ありがとう、ございます……」
部屋には、レトリーとシュナの他に、何人もいる。シュナの後ろに付き従うマルチ。ティーセットを用意しているメイド。扉を守る衛兵。あとはレトリー付きの従者が一人と、その背後に、騎士服に身を包んだ見慣れない若い男の姿もある。父こそ不在だが、こんなに大勢の前であけすけに褒め称えられて、照れるというよりは大いに居心地の悪さを感じ、シュナは言葉を詰まらせた。
「社交界に出さなくて本当によかった。さ、もっとこちらへおいで」
若い婚約者同士の、二年ぶりの再会だった。さりげなく衛兵が扉を開けると、マルチを筆頭に、レトリーの従者やメイドがそそくさと退室していく。若い騎士の男だけは部屋に残ったが、彼はまるで観葉植物のように気配を押し殺し、壁に張り付いたまま動かなかった。
「さすが、
特に行きたくはないのだが、行かないわけにもいかないのだろう。しぶしぶシュナはレトリーのそばに歩み寄る。さっと立ち上がったレトリーが椅子を引き、シュナを座らせた。そのすぐ隣に自らも腰を下ろして、あらためて間近にシュナを見つめる。頭の先からつま先に至るまで、熱い視線でじっくりと見られて背中からむずむずと居心地の悪さがせり上がってきた。
「本当に、綺麗になったなぁ。この服は何? 俺に会うためにおしゃれしてきてくれたの?」
「そ……そんなつもりでは……いえ、そうかもしれませんが……」
「よく似合うよ。なんだかんだ言って、君もこの結婚を楽しみにしてくれているんだねえ」
「そ――……」
言葉が、喉に詰まる。
そうです、と言わなければならないのだろう。嘘でも笑って肯定できる、そんな性格でなければならないのだろう。
お世辞。駆け引き。本音を隠すうわべの言葉。ひいては、貴族社会で生き抜くためのそんな処世術を、本来ならば社交界に出てゆっくりと学んでいくはずだった。学んだところで、実践できるかどうかはともかくとして。
「――なんてね」
しばらく、シュナの言葉を待ち。
その小さな薔薇色の口から、一向に色よい言葉が出てこないのを確認すると、ふう、とレトリーは一つため息をついた。
そこから出てきた声が、心なしか、いつもの「レトリーらしい」作りものめいた声とは異なる気がして、シュナは思わず視線を上げた。肩の力を抜き、姿勢を崩し、レトリーは困ったようにくしゃりと表情を崩して苦笑した。
シュナは驚いてぽかんと口を開けた。
こういう表情を、することがあるのか。
――それとも、これも演技なのだろうか。
「君が俺のことを良く思ってないことはわかってる。君にはずいぶんとひどいことをしたと思う。まずは謝らせてほしい。あのときはごめんね」
突然、予想もしていなかったことを語られて、シュナの心は動揺した。
あの日のことを言っているのだろう。あの日、レトリーが一計を案じ、ウルクを城から追い出した。そればかりか、シュナからウルクを取り上げ、離れ離れにさせてから、シュナを本人の意思も聞かずに勝手に学校へ放り込んだ。確かに、「ひどいこと」をされたと思う。シュナは未だに深く根に持っているし、謝られたところで許せるものでもない。
――けれどこれは、あくまでもシュナの視点から見た事の次第だ。
本当はシュナだって、心のどこかではわかっている。レトリーのしたことは、シュナにとってはひどかったけれど、貴族の在り方としてはさほど間違っていることでもない。
あの頃のシュナは確かにウルクに依存気味で、ウルク以外の世界のことには全然真剣に取り合ってこなかった。けれどこの先シュナが生きていかなければいけないのはその「ウルク以外の世界」の中であり、そこに目を向けるためには確かに一度ウルクから目を離す必要があった。
現にウルクがいなくなったことで、シュナは「正しい貴族の娘」となった。正式に婚約者を持ち、花嫁修業に打ち込み、精神的に自立することができた。
そのことを、ちゃんとシュナはわかっている。
そして、ちゃんとシュナがわかっているのだということを、おそらく、レトリーもわかっている。そうでなければきっと、このように謝ってはこなかっただろう。
自分は確かに悪かった。――けれど、君も悪かったよね、と。
謝られているはずなのに、逆にそう責められているような気になって、よりいっそうシュナは言葉を出せなくなってしまった。
「でも、そうは言っても、もう過去は変えられない。俺と君が結婚するっていう、その事実もね。どうせ何も変えられないなら、その中で楽しくやっていくしかない。今からでもいいから、少しずつ俺に心を開いてみないか」
上から粉砂糖をふりかけたような、ひどく甘ったるい声が、あくまでも優しく穏やかに、シュナの心に密やかに近付いてくる。
こんな声、聞きたくはないのに、逃れられない。
それは、いちいちレトリーの言っていることが、もっともだと思うからだ。
レトリーへの不信感は拭えない。未だ不信感しかない。
けれどもどうしたってそんなレトリーと、どうせ結婚するしか道はないのだ。ベルマンから絶大なる信頼を得ているこの男との婚約が、そう簡単に破談になるとは思えない。また、もし万が一そうなったとしても、その先に続く未来が今より良い状況になっているかというと、それもまた考えにくかった。
そうであるならば、どこかで、受け入れて、覚悟をしなくてはならない。
レトリーと本当に結婚するのだという、その事実を。
「すぐにとは言わない。ゆっくりでいいよ。ただ、少しだけでも努力してみてくれると嬉しいな。気長に待つよ」
優しい。
……優しい、ように聞こえる。
けれどシュナは本当のレトリーをまだ知らない。
これが本当のレトリーなのか。
それともこれも演技なのだろうか。
「あの……ウルクには、会ってもいいですか」
ひどく心がざわめいていた。
レトリーのことがわからない。そのことが不安でしかたがない。
無性にウルクに会いたくなった。
「またウルクか。しょうがない子だな。でも、まぁ約束だからな」
はぁ、と小さくため息をついてレトリーは椅子の背もたれに肘をかけ、だらしなく姿勢を崩して香茶を手に取った。
少しずつ、砕けている、ように見える。演技めいたレトリーが演技をやめ、素のレトリーを見せようとしている――ように見える。
それがシュナには、ひどく落ち着かなかった。
そんな顔は見せずに、いつものように人を見下すような冷たい笑顔で、シュナを陥れることだけを考えていてくれないと調子が狂う。
「じゃあ、早速明日、うちに来る?」
「いいんですか?」
レトリーの言葉に、一も二もなくシュナは飛びついた。
とにかく、何を押しても今は、一刻も早くウルクに会いたかった。
学校へ通っていた二年間、ウルクとは一度も会えていなかった。
レトリーが遠征先にウルクを連れていってしまったからだ。
「いいよ。俺も明日は一日暇だから、そのままデートにでも行こう」
レトリーがそう言って、しっかりとシュナの心に憂鬱な影を足していく。
どうあっても自分の都合のいいように立ち行かない現実に、シュナが心の中で深々とため息をついたとき、ふいにレトリーが身体を起こしてパチンと指を鳴らした。
今の挙動はやけに演技っぽいな、と呆れているシュナの顔を見て、楽しいいたずらでも思い付いたかのような顔をして、レトリーは背後を振り返った。
「そうそう、そういえば、すっかり忘れていた。君に紹介しようと思ってたんだった」
レトリーが指を曲げる。その動きだけで、窓際で直立していた若い騎士が音もなく滑り出て、そっとレトリーの傍らに立った。
「俺の新しい従者のシベリウスだ。これからはこいつも行動を共にすることが多いから、シュナもよろしく。シベリウス、こちらは婚約者のシュナだよ」
「よろしくお願いいたします」
紹介された、シベリウスという名の男は、それだけ言ってシュナに深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします……シュナ=ルシアーノです」
答えながらシュナは、なぜか、ドキドキと鼓動が高鳴るのを感じていた。
レトリーよりも背が高い。鍛えられているのであろう身体はしなやかに引き締まっていて厚みがあった。すぐに頭を下げてしまったので、顔だちはよくわからない。けれどその下げられた頭に、視線がいってしまって外せなかった。
まっすぐ首のあたりまで長めに伸びた、青みがかった白銀の髪。既視感が過り、すぐに思い当たった。光の加減で、白にも薄い灰青にも見えるその色が、ウルクの毛並みの色にとてもよく似ていたのだった。
なつかしさがこみ上げ、痛いほど胸が締め付けられる。
じっとシベリウスを見つめるシュナを、その隣でレトリーもじっと見ていた。
しばらく、無言のままに時が過ぎる。
「シベリウス、もういい。また下がってろ」
「はい」
ぼそりと響く、低い声。寡黙な男なのだろう、必要以上の言葉は発さない。
シベリウスは二人に一礼し、再び窓際に下がって直立した。ちらりとシュナがその姿を目で追うと、その視界に割り込むように、レトリーが身体を起こしてシュナに尋ねた。
「何か気になることでも?」
やましい気持ちはないとはいえ、仮にも婚約者の前で他の男にじっと見入ってしまっていた事実には変わりなく、ばつが悪そうにシュナはうつむいた。
「いえ……ただ、セッターさんは退室なされたのに、あの方はお下げにならないのだな、と、思って」
セッターとは、前からレトリーに付いていた従者のことだ。先ほどマルチとともに退室していた。
「そう。セッターには悪いけれど、シベリウスの方が有能なんでね。第一従者を変わってもらうことにした。今は業務の引継ぎも兼ねて共に行動しているけれど、じきにシベリウスだけになる」
「そう、ですか」
そんな人と、いったいレトリーはどこで知り合ったというのだろう。名をシベリウスといった。姓を名乗らなかったということは、持っていないのだろうか。持っていないということは出自はよくて平民、それ以下の可能性も考えられる。そんな人が、下位とはいえ紛れもない爵位を持った貴族騎士であるレトリーの側近に、いったいどうやって上り詰めたのだろう。まだ若いように見えたのに。そういえば年はいくつなのだろう。それにあの髪色は、ペティシュールの国の者ではないように見える。あの白銀は、いったい、どこの国の色彩なのだろう。
泡のように沸き上がる疑問の数々に、シュナは無理やり蓋をした。
関係がないことだ。レトリーの従者が変わろうとも、誰になろうとも。
「じゃあ、シュナ。明日のことだけど、うちから迎えの馬車を寄越すよ。供は連れずに、一人で乗っておいで」
レトリーにそう言われ、シュナの心はどきりと跳ねた。従者のことなど、一気に考えている余裕はなくなった。
明日。
明日、ウルクに会えるのだ。
――けれど。
「マルチは……一緒に行ってはいけませんか」
問うと、レトリーが苦笑した。
「もう子どもじゃないんだから、デートくらい一人でおいで。心配しなくても、ちゃんと日が落ちるまでには帰すよ」
デート、という単語で、昔のことを思い出す。シュナが十二歳になったとき、レトリーはシュナの婚約者の候補になった。レトリーは、思えば最初からシュナには積極的にアプローチをしており、何度もデートに誘われた。けれどシュナは、結局一度も応じなかった。
だから、つまりこれがシュナにとって初めてのデートとなる。
学友のコリエなら、きっと胸を弾ませるのだろうな、と思った。恋、デート、お付き合い。そんなふわふわキラキラとした言葉が彼女は好きだった。
「これからの君は、侍女にお世話されるのではなくて、俺にエスコートされるんだよ」
レトリーはそう言って、シュナの左手をそっと取った。
「早く慣れてね。愛しのお嬢様」
最後に大仰なしぐさでそう言って、レトリーはにっこりと笑い、そっとシュナの手の甲に口づけた。
諦めて状況を受け入れ、レトリーに心を開いていくべきなのか。
当初の自分の思う通り、そんなことはできないと貫くべきなのか。
手のひらにぬるい体温を感じながら、シュナは自問を繰り返した。
答えは出ない。
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