2-3.「はじめて」
その日は、朝から気持ちが浮ついていた。
そわそわして、気も慢ろ。急に物思いに耽り、食事の手が止まってしまうことも多かった。
そのことを、城の者たちがみんな誤解をしている、とようやくシュナが気付いたときには、もうイルカード家からの迎えの馬車が到着していた。
「わざわざお出迎えくださいまして、ありがとうございます。今日のこと、お嬢様はさぞかしお楽しみにされていたようでございます」
応接室で、城の家事や雑事を取りまとめる執事長が自ら出向いてイルカード家の使者を歓待していた。シュナはマルチと共にその部屋に入る。迎えの使者としてそこにいたのは、レトリーの元従者であるセッターだった。
「お迎えに上がりました、シュナお嬢様」
「セッター様。お嬢様のこと、くれぐれもよろしくお願いいたします。レトリー様にお会いできることを、とても嬉しそうにしていらっしゃいましたから」
ふふ、と笑ってそう言って、マルチが退出する。
え? と疑問に思って振り返ったシュナの耳に、老執事長のおおらかな声が重なった。
「ええ、ほんとうに。こんなに嬉しそうなお嬢様を見るのは久しぶりで、わしらも喜んどるところです」
確かに、嬉しい。嬉しさが挙動の端々にまで出ていたような気もする。
けれどそれは、二年ぶりにウルクに会えるからだ。
それはよかったです、と呑気に笑い合っている執事長とセッターの声に、ヒヤリとシュナの心が冷えた。
ウルクに会いに行くという名目は、城の者には知り得ない。つまりシュナの様子は傍から見れば、レトリーに家に誘われ、デートを心待ちにして浮かれているようにしか見えないのだろう。
「いやー、シュナ様がそこまでレトリー様を慕ってくださっていたとは。ちょっと驚きましたが、嬉しいですねー」
馬車に乗り、ゆっくりと森の中の小道をゆく。御者の隣に座ったセッターの機嫌の良い背中を眺めながら、シュナは後方の客席で複雑な思いを噛み締めた。
レトリーに会うのが楽しみだったわけではない。けれど、表立って否定するわけにもいかない。小さく嘆息しながら、シュナは御者台に向かって小さく声をかけた。
「あの……セッターさんは、レトリー様の従者をお止めになると聞いたのですが……」
聞いてしまった後で、聞き方が少し不躾だっただろうかと後悔したが、根から明るいこの若者は、何も気にしていなさそうに笑って答えた。
「そうなんですよー。レトリー様が遠征先からお戻りになったと思ったら、いきなり従者を変われって。ひどくないですか? まあでも、休日が多くなるからいいんですけどねー。あ、そんなわけで、これからはお迎えに上がる際にはオレが参りますんで、今後ともよろしくお願いいたします」
こんなに口の回る男だとは意外だったが、今に限っては都合が良かった。緊張し、けれどその緊張を決して表には出さず、平静を装い外の景色に目を向けながら、そういえば、とシュナは口を開いた。
「その新しい従者さんというのは……どのような……」
どう尋ねたものか迷ったが、言い切る前にセッターの方から勝手に話し始めた。
「あーあいつね、シベリウスというんです。苗字はないっぽいので、たぶんこのへんのどこかの国の平民だったんでしょうね。詳しいことはオレもわからないんですが、遠征先の戦場でレトリー様とお知り合いになったそうで、めちゃくちゃ強いからってレトリー様がそのまま騎士団に入団させちゃったらしいですよ」
「へぇ……素性もおわかりにならないのに?」
「オレは知らないってだけで、さすがにレトリー様はご存知なんじゃないかなぁ。とにかくね、無口だし、よくわからないやつなんですよ。ただ、レトリー様には従順だし、特に何か余計なことするわけでもないし、悪い奴ではないと思うんですが」
つまりおまえと真逆なんだな、と、今まで黙っていた御者がふいにそう口を挟んだ。セッターはげらげらと大口を開けて、そういうことだな、と言って笑った。
男たちの粗野な笑い声が静かな森の中に響く。しばらく続く御者とセッターの冗談交じりの軽い掛け合いを聞きながら、なんともなしに不安になって、シュナはネックレスの紐に下げた黄金色の小さな鍵を胸の上でぎゅっと握った。
今まで、女ばかり三姉妹の中に育った。周りにいたのはいつだって姉妹やその侍女ばかり、学校に通っても女学校で生徒も教師もまた女ばかり。思えばシュナは、男の人というものに極めて免疫がない。一人で城を出て、反対に男ばかりのレトリーの家へ行くということは、シュナにとってはひどく心許ないことだった。大海に一人投げ出され迷子になってしまったように、不安は増していく一方だった。
「あ、見えてきましたよ。あれがイルカード家の館です」
セッターが前方を示してそう言った。馬車に乗り、まだいくらも経っていない。それほど近い距離にあったのだな、と思いながら、シュナも指し示された馬車の前方に目を向けた。
城ほどの規模ではないにしろ、立派な門構えのある煉瓦作りの大きな館だった。
シュナはまるで敵地へ乗り込むような心地で、お守りの鍵を握りしめた。
緊張する。漠然とした不安が拭えない。怖い。
――けれど、ウルクに会える。
ウルクに会える。それ以外の全ては些事で、どうでもいいこと。
ウルクに会える。
ようやく、ウルクに会えるのだ。
案内されたのは、最低限に作り込まれた簡素な庭園の西外れ、厩の並ぶ小道の先に建つ、まだ目立った傷も汚れもない大きな小屋だった。
レトリーは支度中とのことで、先にシュナだけがセッターの道案内でこの小屋の前に来た。
「開けますけど……本当にお一人で大丈夫です?」
扉の前で、セッターがちらりとシュナを窺う。セッターは明らかに中にいる大型の獣に慣れていないようで、その顔にははっきりと怯えが見えていた。これと同じ表情を、シュナはもう何年も城で見てきた。見るたびに少し悲しくなる。どうしてそんな顔をするのだろう。
「大丈夫ですから、どうぞ外で待っていてください」
毅然と答えると、セッターはあからさまにほっとしたように息をつき、ゆっくりと扉を押し開いた。
太い丸太を横長に組んだ、ログハウス風の小屋だった。天井近くの壁を横長にくりぬいた大きな窓からは時おり爽やかな薫風が吹き通り、小屋の中の籠もったにおいを浚っていく。
シュナは扉を閉めて、その陽光の向こうにたたずむ、一匹の獣に向き合った。
「……」
ウルク、と呼んだはずが、言葉にならない。
かすれた声が、嗚咽にかき消された。
一歩踏み出すと、その足が地面を踏むよりも早く、風のように躍り出た巨大な獣の体にぶつかった。
「ウルク」
膝をつき、抱きしめる。ふわふわの白い毛並みに顔をうずめた途端、その白が涙でにじんで見えなくなった。ウルクは顔を落として、シュナの頭を撫でるように何度も何度も頬や耳をこすりつけた。
よく陽に当たった干し草のにおい。森の樹々と大地のにおい。よく知った、なつかしい――けれどどこか前とは違う、ウルクのにおいをたっぷり吸い込む。
会いたかった。会ってこうして抱きしめたかった。
それだけで全てが報われた気がした。
ウルクもシュナと同じように、再会を喜んでくれているのだろうか。いつも落ち着いている大きな尻尾はせわしなく揺れて、くうくうと喉の奥で高い声が鳴っている。
押し付けられた大きな顔は何度も上下して、シュナのにおいを深く吸い込んでいた。ウルクもシュナから、よく知った、なつかしい、けれど前とは違う大人っぽい石鹸と香水のにおいを嗅いでいるだろう。ウルクはそれを感じて、何を思っているのだろう。
シュナはわずかに顔を上げると、今度は正面からウルクの顔を見た。シュナが手を伸ばし、ウルクの両頬を撫でる。黒い鼻面が触れるほど間近でその目を見つめると、どこまでも深く澄んだ、湖面のような色の瞳がそれに応えた。
「久しぶり。元気だった?」
尋ねると、
鋭い牙が見える。けれど少しも怖くはない。待っていると、ざらざらとした、温かい舌がシュナの頬に流れた涙を舐めた。
十歳のときにウルクに出会い、そこからずっと、シュナの涙はウルクと共にあった。シュナが泣いたら、ウルクが慰める。それがふたりの間の当たり前だった。
シュナは大人になった。ウルクは離れて暮らしている。けれど、それが何だというのだろう。そんなことは、障壁にはならなかった。大人になっても、いくつになっても、シュナが泣いたらそこにはウルクがいないといけない。シュナは、強くそう思った。
「ウルク……もう少しだからね。結婚したら、ウルクはまたうちに戻ってこれるからね。もう少しだけ、待っててね」
シュナがそう言うと、ぐう、と低くウルクは鳴いて、ふるふると首を横に振った。
「え……だめなの? また一緒に暮らそうよ」
言うと、それには答え倦ねるというふうに、ウルクはクゥ、と小さく一度だけ鳴いた。
「ウルク、私が結婚するのが嫌なんでしょ。大丈夫だよ、そんなことくらいで、何も変わらないよ。結婚して、ウルクをうちに返してもらうの。それが私の目標なんだから」
諭すように、ウルクの目を見てそう言うシュナの目を、諭すように、ウルクも見つめた。
また一緒に暮らしたい。お互いにそう思っていることだけは違いないように思う。けれどウルクは、シュナが結婚することに対しては頑なに首を振り続ける。思えばそれは、もう何年も前からずっとそうだった。
どうしたらわかってもらえるのだろう、とシュナが考えているのと全く同じ色の瞳で、ウルクもシュナの瞳をじっと見返した。
全く同じ、けれどなぜか通じ合わない思いが交差して、ぶつかる。
ふいにウルクが舌を伸ばした。
「――――あ」
ぱ、とシュナが、唇を押さえた。
「……」
目が合う。
いや、ウルクが、シュナの大きなまるい紅色の瞳を覗き込んでいる。
「う、ウルク」
そろそろとシュナが手のひらを下ろした、途端。
再び、無防備に空いたシュナの唇に。
そっとウルクが舌先で触れた。
また、ぱ、とシュナは唇を押さえた。
「ウルクってば……」
口づけ、ではない。
だってウルクは犬で――いや、犬ではないかもしれないけれども、ペットで――いや、ペットよりはもっと近しい仲ではあるけれども――けれども、けれども、少なくとも人ではなくて。
だからこれは口づけではない。ないのだけれども。
そういえば、思い返してみれば、ウルクは幼い頃から親愛の情を示すようにシュナの手や頬などいろいろなところをよく舐めたけれど、それでも唇に触れたことは今までに一度もなかった。
人間の世界では、その行為は特別な意味を持つことを、まさか知っているのだろうか。
いや、そんなはずはない。
そうだとしたら、今のこの行為にも、何か特別な意味が込められていることになってしまう。
ドキドキ、鼓動が高鳴って、わけもなく頬が熱くなってしまった。
口づけではない、ないはずなのに、どうして――
「ちょっと、近すぎるんじゃないかな? おふたりさん」
そのとき。
ふいに小屋の扉が開いて、ため息まじりの声が飛んできた。
何もやましいことなどないはずなのに、ドキン、と跳ねた心臓が口から出そうになるほどシュナは驚いた。
「ウルク、離れろ」
レトリーの低い声。
一切抵抗する素振りを見せず、従順にウルクは立ち上がり、声の通りにシュナから離れていく。
「二カード以上近付くなよ」
するりと手の中から離れてしまったぬくもりが、まさか本当に距離の単位まで理解しているのだろうかという正確さで、シュナからどんどん距離を取り、やがて小屋の角までたどり着いてそこでようやく腰を下ろした。
それをシュナは、とても意外な気持ちで見つめていた。
なんとなく、ウルクとは、レトリーに対して同じ敵愾心を抱いているのだと思っていた。二人を謀り、仲を引き裂いた敵として、反発心を共有しているのだと信じていた。
けれど、あきれるくらいにウルクはレトリーに対して従順だった。
命令し慣れているような、レトリーの声。鋭く強い言葉でも、まったく動じることもなく、ただ黙って従うウルクの挙動。
「お待たせ、シュナ。遅くなってごめんね」
レトリーが小屋に入ってくる。
舞い上がっていた心に、突然冷水をかけられたようだった。
ウルクは――今はもう、レトリーのものなのだ。
「準備できたよ。行こうか」
干し草の上に膝をついていたシュナの元へレトリーが近付いた。腕を取ってシュナが立ち上がるのを助け、ドレスにいくつもついてしまった干し草のごみを払い、そのまま流れるような自然さでシュナの手を取った。
「あの……どちらに?」
小屋から出るよう促されて、シュナは思わずぽかんと口を開けてしまった。
待ちに待った、待ち望んだ、二年ぶりのウルクとの再会だった。
それがこんなにもすぐに、呆気なく終わってしまうなんて。
そんな顔をしているシュナを見下ろして、レトリーはにっこりとほほ笑んだ。目は確かに笑っているのに、なぜだかその顔は、少しも笑っているようには見えなかった。
「ウルクに会った後は、俺とデートに行くって約束。まさか忘れてたわけじゃないだろ」
「それは……忘れてませんけど……」
「じゃ、行こう」
「待ってください。ウルクと、あの、もう少しだけ……」
「あのね」
ダン、と強く壁を叩いた音が、すぐ耳の横で響き、思わずシュナは肩をビクッと緊張させて飛び上がった。
扉の横の丸太に背中が付けられる。その身体に正面から影がかかった。シュナを壁際に追いやり、耳の横に拳を置いて、レトリーは笑っていない笑顔をグッと近付けた。
「普通、逆だから。ウルクが何だって? シュナは、俺に、会いに来てるんだよ。そのついでにウルクの顔を見ていくだけ。そう思ってほしいな。てか、普通そうだから。な?」
普通?
普通とは何だろう。
シュナはそうは思わない。シュナは「普通」ではないのだろうか。
「……そう、ですね。ごめんなさい……」
言いたいことはある。言いなりになるのは悔しい。
けれど、ここでむやみに反発して、もうウルクに会わせないなどと言われることだけはあってはならなかった。
感情を押し込めた声で形ばかりに謝ると、それでもいいのか、近付いた笑顔がようやく笑った。
「まあ、わかるよ。ウルクはずっとシュナの大事な『ペット』だったんだろ? だからさ、別にこれからも会ったっていいんだよ。そういう約束だったからね。でもさ」
近付いた顔が、さらに、近付いてくる。
鋭い胡桃色の瞳の中に、怯えた顔の自分が映っているのが見える。それほどの近さ。
「あくまでも、犬じゃなくて、俺に会いに来てんだってことを忘れるなよ」
生温かい吐息が触れる。
――何かを、思う、暇もなかった。
落とされた唇が触れあった。
しっとりと重なり、じっくりと味わわれ、ゆっくりと離れる。
「わかった?」
最後にぺろりと自身の唇を舐め、妖しくつややかに濡れた口でにっこりと笑い、レトリーがそう念を押す。
「……はい……」
呆然とするシュナの頭に、あやすようにぽんぽんと手を置いて、ようやくレトリーは身体を離した。
「じゃ、行こうか。シヴァインの劇場でペイル劇団の公演を予約しているから観に行こう。観劇は好き?」
「……はい……」
肩を抱かれ、小屋を出る。
一度だけ振り返ると、小屋の奥に積まれた干し草の山の隣で、彫像のようにじっと座っているウルクと目が合った。
シュナがレトリーにこんなことをされても、ウルクは動かない。吠えないし、唸りもしない。
本当にウルクは、レトリーによく躾けられた、レトリーの従順な僕になってしまったのだろうか。
ひどく落胆した気持ちで、シュナはレトリーに連れられて、とぼとぼと小屋を後にした。
ルシアーノ城に帰っても、寝ても覚めても、そこから何日経ってもまだ、シュナはぼうっとした心地のままだった。
初めて、口付けをされてしまった。
いや、初めて、唇になにかが触れてしまった。
シュナにとって最初のキスは、ウルクになるのか、レトリーなのか。
ぐるぐる、ぐるぐる、その疑問がもう何日も頭の中を駆け巡ってやまない。
ウルクのしたことは、口付けではない。
けれどレトリーに口付けをされたとき、初めてなのに、とはなぜか思わなかった。
ではやっぱり、ウルクの舌が触れただけなのを、勝手に口付けだと思ってしまっているのだろうか。
わからない。
わからないけれど、でも、一つ何かを見落としている気もする。
ウルクの舌が、唇に触れた。
本当にそれが「初めて」だっただろうか?
遠い昔に見た夢が、その断片が、ふいにシュナの脳裏に朧な影を映していた。
記憶というほど確かではなく、曖昧で、儚い、頼りない記憶のかけらを頭の奥深くで追い求める。
自分は、昔、一度だけ――白銀の髪をした優しい声の男の人と、唇を重ねたことがなかっただろうか。
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