2-4.揺れる心(1)


 その日から、シュナの生活は大きく変わった。


 週に何日も、あるときは連日のように、ルシアーノ家とイルカード家の間ではいくつもの手紙がしきりに交わされるようになった。もはや両家の配達人はすっかり門番とは顔馴染みとなり、シュナもレトリーの住むイルカード家の屋敷を頻繁に訪れるようになっていた。


 ウルクに会う。ただそのためだけの目的だったが、ルシアーノ家にはシュナより他にそのことを知る者はいない。


 皆、誤解をしている。シュナがレトリーに会うことを毎日心待ちにして、そして会ったから上機嫌で帰ってきているのだと思っている。レトリーにその日のうちにお礼の手紙を書くことも、次に会う日の約束を取付けることも、全てはウルクに会いたいだけなのに。


 ――けれど。


 実際のところ、ウルクと会えるのはごくごくわずかな時間で、それ以外のほとんどの時間をレトリーと過ごしていることは変わりない。

 そして、その時間があまりにも苦痛で耐え難いかと言うと、それもまた、そういうわけでもなかった。


 レトリーの態度もまた、少しずつ変わってきていた。

 軽い冗談ばかりで本心を見せないのは相変わらずだが、今までのように、シュナを終始見下して意のままに操ろうとしてくるような、演技めいた挙動は薄らいでいた。

 皮肉なことに、一度口づけを交わしたあの日以来、逆にレトリーとの距離は明確に広がった。

 レトリーは、自分がシュナから良く思われていないことを十分に心得ていて、それを大前提に接するようになった。デートのほとんどは観劇か音楽鑑賞か図書館で――つまり、レトリーとあまり顔を合わせて話さずに済むようなものばかりだった。だからシュナはあんなことがあったにも関わらず、逆に、不本意ながらもレトリーへの警戒心が徐々に薄らいでいることを認めないわけにはいかなかった。


 そうしてゆるやかに環境は変化の兆しを見せながら、シュナが最初にイルカード家の館を訪れてから、一月ほどの時が経というとしていた。


 季節は移ろい、穏やかな春は終わりを告げて、夏が初月を迎えていた。






 この日、シュナがレトリーの家を訪れるのは四日ぶりだった。

 レトリーは今は休暇中らしく家にいることが多いのだが、たまに仕事に出ていくこともある。

 たったの四日だが、今のシュナにはなんだか久しぶりな気がして、心が弾んでしまうのを抑えられなかった。


 楽しみにしていることが三つある。


 一つは言うまでもなく、ウルクに会えること。


「ウルクー! 来たよ!」


 最近ではもうイルカード家に着いても、応接間には通されなくなった。ルシアーノの者は知らなくても、イルカード家の者ならばもう誰でも、シュナがウルクに会うことを楽しみにしていることを知っている。

 馬車はシュナとセッターを乗せたまま庭園を抜ける小道へ入る。厩の前で下ろされて、シュナはそのままウルクの待つ小屋へ駆け込んだ。


 小屋の中へ入ると、入るなりウルクが飛びついてくる。巨きな体を抱きしめられるように抱きしめながら、ひとしきりふわふわの毛並みに顔をうずめて撫で回す。ウルクにもひとしきりにおいを嗅がれ、頬を舐められ、親愛の情をたっぷり交換しながら、シュナはウルクに他愛もない近況などを話していく。


 話しているうちに、ふいにウルクが立ち上がる瞬間がやってくる。


 名残惜しそうにウルクはくう、と鳴いて、シュナの顔に自身の顔を押し付ける。レトリーのにおいを感知したウルクが知らせる、おしまいの合図。シュナも察して、最後にウルクを強く抱きしめる。


 そのときに――いつからか、ちゅ、とシュナはウルクの鼻面に小さな口づけを落とすようになった。


 再会したあの日の出来事をきっかけに、シュナの中で、何かの螺子が緩んでしまった。抱きしめる、撫でる、それ以外にも気持ちを伝える手段があることを知ってしまったのだ。あふれ出る気持ちは自然な衝動となって、ごくごく当たり前であるかのように、シュナはウルクにキスをした。

 ウルクも、短くそれに応える。近付いた小さな唇を、ぺろ、と舐める。ちゅ、と口先で触れてくることもある。


 誰にも言えない、ふたりだけの秘密。


 そして、まるで悪戯でも仕掛けた後のように、目を見合わせてくすくすと笑う。その後にウルクはすたすたと山小屋の奥まで歩き、干し草の山のかたわらに腰を下ろした。


 すると見計らったようなタイミングで、扉が開き、レトリーが顔を出す。


「ふん。そんなとこにいたって無駄だ。どうせ俺が来るまでイチャイチャしてたんだろうが」


 小屋の角でつんと澄ました顔をしているウルクを見て、苦い顔をしてレトリーが毒を吐く。シュナがウルクに抱き着いたり撫でたりすることを快く思わないらしいのだが、レトリーが近付くとすぐにウルクは気付いて身体を離してしまうので、レトリーはあの日以来「イチャイチャ」の犯行現場を捉えられず、ウルクを叱れないフラストレーションを溜めていた。


「お久しぶりです、レトリー」


 シュナのレトリーを呼ぶ呼び方も、少し変わった。

 ある日呼び捨てで呼ぶか「愛しの旦那様」と呼ぶか、二つに一つを選べと迫られて、しかたなく呼び名を変更していた。


 そして。

 大変不本意ながら、楽しみにしていることの二つ目は、これだった。


「今日はどこへ行くんですか?」


 レトリーとのデートは飽きることがない。予定を事前に教えてくれる日もあれば、到着するまで絶対に教えてくれないこともある。シヴァインの劇場での観劇や音楽鑑賞、それも伝統的で本格的なものから大衆向けのかなり世俗的なものまで、レトリーの選定は幅広く、しかも全てが面白かった。他にも闘技場で剣闘会を見せてくれたり、図書館に入り浸って読みたい本を読みたいだけ読ませてくれる日もあれば、森で乗馬をしに行くこともあった。


 今日の予定は、事前に何度聞いても絶対に教えてくれなかった。

 それはそれで、何か面白いことが待っているのに違いなく、シュナはわくわくと声を弾ませてしまうのだった。


「まだ内緒だよ。とりあえず、またシヴァインに行く、とだけ言っておこうか」


 行こう、と右手を差し出され、少なくともその手を取るのにだいぶ抵抗がなくなるくらいには、シュナもレトリーに打ち解けていた。

 まだ、好きか嫌いかといえば、好きではない。相変わらず腹黒くて本心を見せず、うわべだけの軽薄な笑顔で接してくるところは、信頼するには程遠い。

 けれど以前ははっきりと嫌って憎んでもいたことを思えば、これでも大きな進歩といえた。


「じゃあね、ウルク。また来るね」


 レトリーの手を取って立ち上がり、そのまま手を繋いで山小屋を出る。扉のそばで振り向いて、最後にウルクに挨拶をする。じい、とシュナを見つめている水宝玉アクアマリンの視線に、なぜだか少し後ろめたいような気になって、そそくさと視線から逃げるように小屋を出るのもいつものことだった。






 イルカード家を出る間際にもう一つ、シュナが三つ目に楽しみにしていることがある。


「行ってらっしゃいませ、レトリー様」


 門前で、館の執事や従者たちがレトリーの乗る馬車を見送りに並んでいる。

 その先頭にいつもいる、白銀の髪をした背の高い騎士の姿を目に入れること。

 これがウルクにすら言ったことのない、シュナだけのひそかな楽しみだった。


「今日も五時までには戻るけど、何か連絡があればすぐに知らせるように」

「かしこまりました」


 シベリウスという名のこの騎士の声は、ここでしか聞くことはない。


 レトリーの第一従者というけれども、レトリーはシュナとの逢瀬に第三者が立ち会うことを厭うので、デートをするときにシベリウスを連れていくことは一度もなかった。移動はだいたい馬車を使うが、御者すら連れていくことはない。馬車は、馬の扱いに長けたレトリー自らが御していく。またレトリー自身が騎士でもあるから、そもそも護衛も必要なかった。


 シュナは、シベリウスにあまり会うことがない。ルシアーノ城への送り迎えはいつもセッターだし、そこからウルクの小屋へ直行してしまうので、そもそもイルカードの館にもあまり入ることはない。

 けれども接点がなければないで、なんだかどうにも気になってしまうのだった。

 気にして、そこからどうするというわけでもない。

 ただ、こうして門の前でちらりと姿を見て、レトリーとの短い会話のやりとりから声を聴く。シュナが話しかけられることなどないし、目だって合うことはない。あきれるくらいに何もなく、ただただ姿を見るだけではあるのだけれども、それでも今日もシベリウスはいるだろうかと、シュナが毎回気にしていることは紛れもない事実だった。


 それから馬車は何事もなく森を抜け、シヴァインの街へ出て、劇場へ向かう。


 レトリーが内緒にしていた公演は、以前シュナが観ておおいに感動したサヴァーク歌劇団の新作の演目で、またしてもシュナはおおいに喜び、感動した。


 公演が終わると、最初の頃はそのまままっすぐルシアーノの家に帰されていたが、最近ではリストランテでお茶をしていくなどの寄り道をすることが多くなった。

 レトリーの入る店はいつも決まっている。そこは平民の者は利用できない上流階級専門の店ではあったけれども、それでも街でお茶をしていく、などというのはあまり貴族のデートらしくはないのだと、マルチはこの話を聞いたときには驚いていた。

 けれどもシュナは、堅苦しくなく、飾らない、こんなデートの雰囲気を気に入っていた。


「今日の公演も気に入ったみたいだね。また同じ演目をやるときには、予約を入れて観に行こう」


 開け放たれた窓の外にさわやかな庭園の木立が見える、広い個室。

 窓と景色に向かい合う形で設置された大きなソファに、シュナとレトリーは隣同士で座っていた。

 手前に置かれたローテーブルの上には、甘いケーキと花茶のセット。


「はい。またぜひ、お願いします」


 答えるシュナの声は、機嫌がいい。

 ぱくぱくとケーキを口にするフォークの行方を、レトリーはじっと見つめている。真っ白なクリームとふわふわのスポンジにフォークを入れて、すくい取るように持ち上げ、口へ運ぶ。淑女教育が行き届いているので、大きな口を開けることはない。けれどそのわりにはフォークに乗せる量が多いので、閉じた口のまわりにぽってりと白いクリームが乗ってしまった。


「――ふっ」


 それを見て、レトリーが笑う。

 最初は小さく鋭く息を吐いただけだったのが、こらえきれずに断続していき、やがて大きな笑い声になった。

 シュナは、その顔を見て驚いた。

 それは、少しも堅苦しくなくて、飾らない――素のままのレトリーの表情であるかのように、見えた。


「ケーキ、好きなの? 可愛いね」

「わ、……笑わないでください……」


 家でだったら、ぺろりと舌を出して拭い取ってしまうところだが、さすがに人前でそんなはしたないことはできない。クリームのついた口元を手でおさえ、布巾を探していると、ふいにその手を横から取られた。


「ほら」


 レトリーは空いたもう片方の手を伸ばし、細長い指先でシュナの唇を横に浚った。人差し指の上に乗った小さなクリームのかたまりを差し出す。それを口に入れるのは少々行儀が悪い、と思ったのも一瞬のこと、ためらう唇の上に催促するように人差し指を置かれ、結局ぱくりとその指を口に入れてしまった。


「あー……参ったな」


 指を引き抜くと、レトリーは近付いた距離はそのままに、そっとシュナの頭を撫でた。

 優しく置かれた手のひらに、目に見えるくらい露骨に感情が籠められていて、シュナは思わず頬を赤らめた。

 ドキドキする。飾らない、演技ではない、素のままのレトリーの顔と笑い声。指先から伝わる感情。

 今、確実に、何かの一線を踏み越えた。


「シュナ。俺といるのは、楽しい?」


 楽しく、なくはなくなっている。悔しいけれどそれは事実だ。けれど心の底から何の憂いもなく楽しいと感じるには、まだまだ遠い。何と答えればいいのか、惑うように瞳を揺らしたシュナの顔を少しだけ寂しそうに見つめて、レトリーは静かな声で告白をした。


「俺はさ、楽しいよ」


 頭から、ゆるく括られた髪の編み込みをたどり。少し冷たい手のひらが、ゆっくりと赤い頬へ。


「君にこんなに夢中になるなんて、思わなかったな」


 いたたまれなくて、シュナは唇を噛んだ。


「また、そうやって、からかうようなことを言って……。私のことは、出世の道具にしか見ていないんでしょう」

「昔はそうだったんだけど」


 悪びれることもなくそう言って、レトリーは笑う。

 これも演技なのだろうか。こうすれば、シュナが心を開くと思って、またシュナのことを騙しているのだろうか。


 全部計算づくだったらいいのに。

 ――そうでなければ、嫌いになれない。


「そろそろ、結婚の話を進めてもいいかな」


 ドキ、と鼓動が跳ねた。胸が、痛い。


「今週末、ベルマン様と約束してるんだ。そこで具体的に結婚の話を詰めようと思ってる。うちの親族も同席するよ」

「今週末……」

「楽しみだな。紅爵こうしゃく位を継いで、領主になり、騎士団での階級も跳ね上がる。その上、こんなに可愛い妻も手に入るのか。夢みたいな人生だな」


 もう己を取り繕うようなことを、レトリーはしなかった。計算高く、腹黒いのに相違はないが、こうあけすけにされるとかえって諦めもつく。しょうのない人だな、と思うと、苦い笑みではあるけれども、シュナの顔にもようやく小さな笑みが浮かんだ。


「……やっぱり、出世の道具にしか思ってないじゃないですか」


 シュナが言うと、レトリーは笑った。


「あいにく、聖人君子じゃないんでね。でも君だって、俺のことを、ウルクに会うためのダシにしか思ってないだろ。お互い様だ」


 痛いところを突かれたと、シュナが唇を引き結ぶ。そんなシュナの顔に、愛おしそうにレトリーは触れる。


「でも、俺は君のことが好きだよ。この一ヶ月、楽しかった。もう他の誰にも触れさせたくないから、出来うる限り最短で結婚したい」


 その真剣なまなざしを、とても正面から捉えられない。

 目もとまで真っ赤に染まった顔をシュナは俯けたが、頬に置かれた手にグイ、と力が入り、強引に上向かされた。顔の距離が近付く。レトリーの吐息が鼻先に落ちる。


「キスしてもいい?」

「れ、レトリー……あの……」

「いいよね」


 いいのだろうか。

 わからない。


 ――本当に結婚するのだろうか、レトリーと。

 本当にそれでいいのだろうか。

 わからない。


「あの……待って……」


 ためらうように、やんわりと押し出された手のひらが、レトリーの硬い肩を押した――そのとき。


「失礼します。レトリー様、至急の要件です」


 コンコン、と扉がノックされた。

 聞こえてきたその低い声に、ビクッ、と驚いてシュナは飛び上がり、慌ててレトリーから距離を取る。はあ、と大きなため息に次いで、チッと盛大に舌打ちをして、レトリーは険しい顔を扉に向けた。


「入れ」

「失礼いたします」


 入室したのは、シベリウスだった。

 離れたといっても、シュナとレトリーの距離は通常よりはだいぶ近い。そんなふたりのそばへ、つかつかとシベリウスは無表情で近付いてくる。


 思わず、シュナはさりげなく、レトリーからまた少し距離を取った。

 そんなシュナを、ちらりとシベリウスは見下ろした。


 それは、とても珍しいことだった。この一ヶ月間、ほぼなかった。目と目が合う。シベリウスの水色の瞳。

 ドキ、とシュナの胸が鳴る。


 けれど次の瞬間、シベリウスはレトリーに視線を移し、跪いて懐から一通の赤い書簡を差し出した。


「王都より火急の報せです。スキーリー地方前線に戦が起こった、と」

「何だって? この間平定したばかりじゃないか」


 シベリウスの言葉を聞いて、さっとレトリーの顔色が変わる。

 真剣な顔つきで書簡を受け取ると、すぐさま開封して手紙を読んだ。


「チッ……ノーラの残党が集まったか……厄介だな」

「レトリー様には、至急王都の騎士団本部まで赴いてほしい、とのことです」

「わかった、これは確かに急を要する。シベリウスおまえ、ここまで何で来た?」

「ビッグです。そのままお使いください」

「オーケー。流石、よくわかってるな」


 シュナにはわからない、けれど不穏な会話を短くやりとりして、最後にレトリーはシベリウスの肩をぽんと叩いて労った。

 それから、引き締めた顔でシュナに向き直る。


「悪いね。これからすぐに王都へ行かなくちゃならなくなった」


 何やらただならぬ雰囲気を感じ取り、緊張と不安を押し込めた表情で、固く頷く。

 ――けれど。


「だから、今日はシベリウスに君を城まで送ってもらう」


 その一言に、思考が全て飛んでしまった。


「シベリウス。送るだけだ。くれぐれも余計なことをするなよ」

「はい」

「無事に送り届けたら、すぐにおまえも王都へ来い。本部の中に入れるよう手配しておくから、中で待機してろ」

「はい」


 そうして、三人は慌ただしく店を出た。

 シベリウスが乗ってきたのだろう、足の速そうな引き締まった身体の鹿毛の馬にレトリーが跨がり、反対にシベリウスはレトリーが引いてきた馬車の傍らに立った。


「いいか。絶対に、余計なことをするなよ」


 最後にもう一度、険しい顔をして、レトリーは何事かの念を押す。シベリウスが従順に頷くのをしっかりと見届けた後で、レトリーは馬を走らせた。

 呆然とその背を見送るシュナに、やがて、ぽつりと低い声がかかる。


「お送りいたします、シュナ様」


 その声に。

 初めて、名を呼ばれ。


 シュナは耳の奥で、パキン、と何かが壊れる音を聞いた気がした。


 それはこの一ヶ月もの間、レトリーとシュナが必死になって築き上げてきた砂上の楼閣が、ガラガラと音を立てて崩壊していく一歩となる、修復できないほど大きなヒビの入った音だった。


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