2-5.揺れる心(2)


 ゆるやかに陽射しが傾いていく。薄い水色から黄金色へのグラデーションが始まり出す、夕暮れ前の午後の小道を馬車はゆっくりと進んでいく。


 王都とルシアーノ州城は、ちょうどシヴァインの街を挟んで西と東に分かれている。レトリーが単騎で駆けていったのが西、今シベリウスが手綱を握る馬車がシュナを乗せて向かっているのが東だった。

 馬車は小型ながら四輪で、二頭の馬で曳いていく。剥き出しの御者台の後ろに幌のついた広めの客席が連なっている構造で、御者は御者台からも客席からも手綱を握れるのが特徴だった。レトリーは最初の頃こそ自分は御者台に座り、シュナ一人だけを客席に乗せていたのだが、すぐに自分も客席に乗るようになり、シュナの隣に座りながら器用に馬を操った。

 今は、当然のようにシベリウスは御者台に座っている。一人客席に座るシュナは、シベリウスの無口な広い背中をじっと見つめていた。


 夏に入ったとはいえ、夕刻に近付けば街にも涼しい風が吹く。

 夏用ドレスの生地は薄く、剥き出しの肩や大きく開いたデコルテが少し肌寒かった。シュナは肩から羽織ったショールの合わせを引き寄せながら、シベリウスに話しかけようか、どうしようか、そればかりをずっと考えていた。


 シベリウスとふたりで話す機会は、今までにももちろんなかったし、これからも滅多に無いだろう。ましてやそれが、周囲に人目もなくふたりきりだなんて、奇蹟にも近い機会であるような気がする。

 とはいえ、何を話せばいいのだろう。そもそも、話しかけていいのだろうか。

 シベリウスにとってシュナは仕えている主人の婚約者にあたる。ましてやシュナの方がはるかに身分も上だから、何も話さないことが普通であり常識であり、いきなり馴れ馴れしく話しかけられても困るだろう。

 そうわかってはいるのだけれども、やっぱり、シュナにはどうしてもシベリウスが気になって仕方がなかった。


 なぜ、こんなにも気になってしまうのだろう。その出自や経歴、すべてが謎に満ちているから気になるのだろうか。ウルクと同じシルバーグレーの髪色に親近感を抱いていて、話しやすそう、と勝手に思い込んでいるからだろうか。わからない。わからないからますます気になる。その声をもう少しだけ聞いてみたい。


「……あの」


 結局、馬車がシヴァインの街を抜ける頃、ゆるやかに傾いた太陽に背中を押されるようにして、思い切ってシュナは口を開いた。


「また、戦に行かれるのですか」


 レトリーに届いた一通の書簡。聞こえてきた、物騒な単語。不穏の兆し。――それが特別に気になるというわけではないのだが、会話の糸口になりそうなものはこれしかなかった。

 街道の両側で、青々とした田畑の緑が揺れている。風が強くなってきた。


「まだ、どちらとも言えません。確かにレトリー様が前回赴任されていた場所での再乱ではありますが、もうレトリー様のスキーリーでの任務は終わっておりますので」


 耳に残る、低めの声。音の半分が風に取られてよく聞こえない。けれど、シベリウスが喋っている。そのことだけで、なんだか胸がせつなくなった。


「そうですか……。レトリー様が行かれたら、シベリウスさんもやっぱり、一緒に行かれるのですか?」

「はい、おそらく」

「そうですか……」


 シベリウスから、それ以上特に何かを言われることはない。

 会話が途切れる。

 風が吹き、無音となった馬車の空気を洗っていく。


 話すことがもう無くなってしまった。いや、どうでもいいこと――たとえば、年はいくつで、どこの出身で、どうしてレトリーの従者になったのか、など――ならばいくつでも尋ねてみたかったが、もともとシュナだってそんなに社交的な方ではないし、何より結婚まで秒読みとなった身で、他の男とふたりきりで話しているという後ろめたさも手伝って、口は時間が経つにつれ鉛のように重くなってしまった。


 時間だけが残酷なほど平等に、いつも通りに過ぎていく。

 また太陽が少し傾き、西からの陽射しが強くなった。


「――お寒くはないですか」


 とつぜん、眺めていた大きな背中が振り向いて、そう尋ねた。


「えっ」


 あまりにも唐突で、そして予想外だったので、言葉が完全に詰まってしまった。

 ずっと見つめていたことに気付かれてしまったのではないだろうかと、バクバクと早鐘を打つ心臓が痛い。

 すると、そんなシュナをじっと見て――シベリウスは街道から少し道を逸れたところで、おもむろに馬を止めてしまった。


「……あの……?」

「よろしければ、こちらをお使いください」


 御者台を下りたシベリウスが、客席のそばまでやってきて、騎士団の制服の上から羽織っていた群青色の薄外套マトルを差し出した。


「え……でも、シベリウスさんは……」

「なくても構いません」

「そ、そうですか……ありがとうございます……」


 手を伸ばす。

 差し出す手と、受け取る手が、ほんの一瞬だけ触れた。


 ――それは、もう、衝動だった。


 考えて口を動かしたわけではない。けれど、ずっと残り時間を数えていた身体が無意識下で絶えず強い焦りを訴えていた。あともう少し。あともう少ししか時間がない。こんな機会は滅多にない。滅多にないのに、そんな機会が、あともう少しで終わってしまう。


 このまま終わっていいのだろうか。

 このまま終わらせるべきなのに。

 ――できなかった。


「あの……風が、強くて、お声がよく聞こえなくて……」


 こんなにも勇気を振り絞ったのは、生まれて初めてかもしれない。真っ赤になった顔を俯いて隠し、受け取ったマトルをぎゅうっと指先で握り込みながら、シュナは震える声を必死に喉から手繰り寄せた。


「……なので、こちらに、お掛けになりませんか……」

「……」


 返事は、無い。

 風の通り過ぎる音だけが聞こえる。


「……」


 ああ――

 言葉を失わせるくらい、愚かなことを言ってしまったのか――。

 後悔があふれ、前言を撤回しようと口を開いた、そのとき。


「……よろしいのですか」


 耳に落ちてきたその声は、シュナのはしたなくも常識外れな提案に、呆れているわけでもなければ、蔑んでいるようにも聞こえなかった。

 視線を上げて、シベリウスの顔を見る。

 口角はゆるりと持ち上がり、端正な目もとがほんのりと細められている。その澄んだ水色の瞳の奥には、何かとてつもなくあたたかな感情がひたひたに満ちているように見えた。

 つまり、疑いようもなくはっきりと、シベリウスはシュナの言葉に喜んでいた。


「……はい」


 答える声は、たいそう気の抜けた、芯のない声となった。

 シベリウスは、寡黙で、無表情な人なのだとずっと思っていた。何を考えているのかわからず、誰と接するときも常に一線を引いている。イルカード家で誰かと雑談をしているところなど見たこともないし、レトリーとですら、最小限の仕事の会話しかしていなかったように思う。


 信じられなかった。

 声だけではなく、全身から力が抜けていってしまう心地がした。

 信じられない。

 そんなシベリウスが、今、シュナに対して。

 こんなにも優しく、あたたかいまなざしで、感情もあらわに微笑みかけてくれているなんて。


「では、失礼いたします」


 シベリウスは御者台から緩んだ手綱を引き寄せると、客席の踏み台に足をかけ、ひょい、と身軽に乗り込んできた。

 シュナは慌てて端に移動し、横長の椅子に広くスペースを取る。けれど、窮屈そうにかがんで幌をくぐってきたその身体は、近付いてみるとかなりの大きさだった。レトリーより背が高い、と漠然と思っていただけだったが、実際にこうして近くに並んで座ると、身体の厚みが全く異なっていることがわかる。


「狭くなってしまって、すみません」


 謝りながらも、そんな声すら、どこか楽しげだった。口もとが終始穏やかに微笑んでいるから、尚のことそう見える。

 シベリウスの長い脚が、シュナのドレスの裾に触れている。マトルの下に着ていたのは騎士服といっても平時に着用するラフな半袖で、色白で筋肉質な素肌をのぞかせている右腕に、シュナの左の肩が当たっていた。

 シュナは、借りた群青色のマトルを背中からふわりと羽織り、思わずその中に俯けた顔を隠した。


 ドキドキする。

 鼓動が、痛いほどだった。

 頬が熱を持つほど火照っているのが、自分でもわかる。

 触れた肩が、感覚のないはずのドレスの裾でさえ、がちがちに緊張して固まっていた。


 ――シュナは今、この上もなくはっきりと、自分の気持ちを自覚していた。


 この一カ月、レトリーとデートを重ねてきた。腹黒い野心家ではあるけれども、シュナとのデートに細やかに心を配り、徐々に素を見せて笑ってくれるようになったレトリーに、シュナの心は確かに開きかけていた。

 けれど、そんな比較対象があったからこそ、逆にはっきりとわかってしまった。

 レトリーに開いた心をほころびかけた一つのつぼみとするならば、今、シベリウスに対する感情は、心いっぱいに満開の百花が咲き乱れるようなものだった。

 開花を止める術がないように、この感情の奔流もまた、止めることなどできなかった。


 シュナは、シベリウスに恋をした。

 他の誰よりも、シベリウスが恋しかった。


「お寒くはないですか」


 すっぽりと顔を隠してしまったシュナに、斜め上からやんわりとした優しい声がかかる。

 どうして、シベリウスは、こんな声で話すのだろう。

 レトリーとも、館の誰とも、一度たりとてこんな声で話していなかったのに。


「は、はい、大丈夫です……ごめんなさい……」


 周りの景色は見えないが、馬車はゆっくりとした速度で歩みを再開している。

 いきなりすっぽりと顔を隠してしまった挙動を詫びながら、とにかく落ち着け、落ち着けと祈るような心地で、シュナは深く息を吸い込んだ。


 吸い込んで、吐く。

 吸い込んで、吐く。

 ――吸い込んで。


「……」


 そのまま、止まった。

 そろそろとマトルの中から顔を出す。鼻から下はまだ隠したまま、目だけを上げてシベリウスを窺い仰いだ。

 シベリウスはそんなシュナを見下ろして、どうしたのですか、と問うようにわずかに首を傾げる。


 首の後ろに沿うようにかかる、少し長めの、青みがかった白銀の髪。厚みのある大きな身体。

 優しげに細められた、水色の瞳。

 マトルからほのかに香る、――冬の森の大地のにおい。


 強い既視感。

 このにおいを、シュナは知っている。


「……あの……」


 思わず、ぽかん、とシュナは口を開けてしまった。

 力の抜けた指先から、握っていたマトルの端が滑り落ち、呆けた表情と真っ赤な頬が風に晒される。

 いつのまにか、馬車は森の中へと入っていた。木陰の隙間を縫うように、傾いた西陽がまばらに降り注ぎ、白い馬車に幾すじものオレンジ色の光の模様を描いていく。


「あの……わたしたち、昔、どこかで会いませんでしたか……?」


 ぽつり、とシュナがそう言うと。

 シベリウスの動きと表情が、ピタリ、と止まった。


 口にすることで、既視感はより強固になった。

 昔、どこかで、会ったことがある。そんな気がする。絶対にそうだと思った。だから、最初に一目見たときから、こんなにもずっと気になっていたのだ。何でもいいからシベリウスのことを知りたい、と強く思ったのは、それが自分でも忘れていた何かの記憶なのではないかと思ったからだ。

 けれど、そう思えば思うほど、同じだけその裏で違和感も膨らんだ。

 シベリウスは元は異国の平民で、レトリーとは戦場で出会ったと聞いた。生まれてから一度もルシアーノ領を出たことがなく、せいぜいシヴァインの街くらいまでしか出歩いたことのなかったシュナが、いつか、どこかで、出会っていたはずがない。


 シュナは、じっとシベリウスを見上げた。

 その強い視線を受け止めて、澄んだ水色の瞳の奥底で、何かの感情がゆらめいている。


「……さあ。どうでしょうか」


 やがて。

 静かに下された声は、予想していたものとも、覚悟していたものとも、そのどちらとも違っていた。

 落胆と困惑の入り混じる、混乱した瞳でシベリウスを見る。白銀の髪。水色の瞳。この瞳に湛えられた深い慈愛と優しさに、どうしようもなく確かに、見覚えがあるような気がするのに。


「どうでしょうって……なんですか?」

「そうですね……なんとも、お答えしようがないというか」

「それって、どういうことですか?」

「どういうことなんでしょうか」


 問い詰めても、困ったように苦笑して、シベリウスはそれ以上答えない。

 のらりくらりとはぐらかされて、シュナの心に漠然とした大きな焦りがせり上がってきた。

 はぐらかされる意味がわからない。答えは明白で、会ったことがあるのか、ないのか、その二択でしかないはずだ。

 会ったことがないならば、ない、とただ一言そう言えばいい。言わずにはぐらかすということは、つまりはシュナの言う通り、どこかで会ったことがある、ということではないだろうか。

 けれどそれならば、なぜそう言わないのだろう。会ったことがあると言えば、きっとシュナは、いつどこで、と質問を重ねていく。そこに答えたくないのだろうか。けれど、なぜ? わからない。

 馬車に落ちる、オレンジ色の彩度が濃くなっていく。時間がない。この森を抜けたらもう城が見えてきてしまう。


「お願いです……教えてください。知りたいんです、どうしても」

「……すみません」

「じゃあ、どうしてですか? どうして答えてくれないのか、せめて理由だけでも教えてください」


 藁にも縋る思いで、とにかく手当たり次第に質問を重ねていく。

 すると、何を聞いても答えてくれなかったシベリウスが、そう聞いた途端にはたと表情を変えた。


「それは――」


 大きな肩越しに、シベリウスの整った顔が、じいっとシュナを見つめてくる。困ったような苦笑がほんの少し色を変えて、水色の瞳のその奥に、ぽうっと悲しみの光が灯る。


「それは――あなたが、もうすぐご結婚されてしまうからです」


 見つめ合った視線を通し、悲しみがシュナの瞳の奥にも移った。全身から力が抜けていく。胸が痛くて、息がうまく吸えなくなった。

 シベリウスに恋をして。

 浮かれていた頭の中で、すべての思考がピタリと止まってしまった。


「……結婚……」

「もし、本当にご結婚されるというなら、あえて知らなくてもいいこともあります」

「そんな――」


 言いさして、ふとその言葉の違和感に気付き、シュナは小さく首を傾げて反芻した。


「もし本当に、って……じゃあ、結婚しなかったら、教えてくれるんですか?」

「え。結婚しないのですか?」


 逆に問われて、今度はシュナの方が口を噤んでしまった。

 くしくもそれは、もうここ何年もずっと、最近はとみに頻繁に、シュナが何度も何度も繰り返し自問してきた質問だったからだ。

 本当に自分は、レトリーと結婚するのだろうか。

 結婚するのか。

 しないのか。

 何度も何度も考えて――そして、どう考えてもいつも、行きつく答えは一つなのだった。


「……結婚、します……」


 シベリウスの顔を見ながらは言えなかった。うつむき、ぼそりと答えると、はあ、と深く大きなため息がそれに答えた。


「そうですか。じゃあ、何も言いません」


 あきらめたような、ふてくされたような、ヤケになったようなそんな言い方が、なんだか妙に子どもっぽくて意外だった。そんな一面もあるのかと思うと、また、きゅうっと締め付けられるように胸が痛んだ。今さらそんなもの、知りたくなかった。どんどん魅せられて、惹かれていく自分が愚かで悲しかった。


「私だって別に、結婚したくてするわけじゃないんですよ……」


 こんなことを言うのはみっともない、と自分でも思うけれど、ぐちぐちと言い訳を紡ぎ出す口が止まらなかった。シベリウスに想いを伝えることはできなくとも、少なくとも望んでレトリーと結婚するわけではないのだと、そんな心境を知ってほしかった。


「……したくないのなら、しなければいいのではないのですか」


 返ってきたのは、そんな、至極当たり前の月並みな正論だった。

 今度はシュナが、はあ、と深く大きなため息をつく番になった。


「そんなこと、できません。結婚したらウルクもうちに連れてきてくれるって約束なんです。どうせいつか誰かと結婚しなくてはいけないのなら、わたしは、ウルクがそばにいてくれないとだめなんです」

「私は――――」


 何かを、言いかけて。

 シベリウスは、押し殺すように唇を噛み、続く言葉を呑み込んだ。

 それからシュナはシベリウスの言葉を待ち、シベリウスは口を噤んだまま押し黙り、そうしてしばらく、無言の時が過ぎていった。

 空がふいに明るくなった。

 馬車は森を抜け、小高い丘に出た。空を切り取る樹々のシルエットは消え失せて、かわりに城壁に囲まれた立派な州城が夕闇のグラデーションの麓に浮かび上がった。


「……最後に、私からも一つだけ、お伺いしてもよろしいですか」


 シベリウスの低い声が、ぽつり、と響く。

 先ほどの会話が終わってしまったこと。

 結局、シュナが一番知りたかったことを教えてもらえなかったこと。

 こうしてふたりで話す時間が、これでもう、「最後」であること。

 それらすべてを思い知らされて、シュナは借りたマトルに顔をうずめた。


「なんですか?」


 せめて、このにおいと、温かさを。

 このさき一生、忘れてしまうことのないように、と。


「――先ほど、リストランテの個室のお部屋で」


 シベリウスの声を聴きながら、息を吸う。

 肺の奥にまで、酸素に乗って、身体に――すべての細胞にまで、そのにおいがしみわたるように。

 深く、深く息を吸い込んだ。


「……レトリー様と、キス、されたんですか?」

「え?」


 あまりにも意外で、予想外な質問に、思わずシュナは再びマトルから顔を上げてしまった。

 シベリウスの横顔をぽかんと見つめる。

 頬に、じわじわと熱が上がっていく。

 なぜ――

 そのようなことを、聞くのだろう。


「してません、けど……」


 なぜ。なぜ。どうして。

 疑問が泡のように立ち上がり、思考を塞いでいく。


「……そうですか」


 また、短くそれだけ答えて、シベリウスは安堵したように、ほっと小さく息をついた。

 変なことを聞いてすみません、と取り繕うように早口でそう言う、シベリウスの声が耳の表面を過ぎる。


 なぜ、そんなことを聞いたのだろう。

 なぜ、シュナの答えを聞いて、そんな顔をしているのだろう。


 シベリウスは――

 シュナのことを――じきに結婚してしまう、主人の婚約者のことを――それなのに、婚約者の従者に接してこんなにも顔を赤らめ、胸をときめかせている非常識で多情なシュナのことを、いったい、どう思っているのだろう。


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