2-6.暗転


 ベルマンとの会食を予定していたその週末に、レトリーはようやく王都から戻ってきた。

 服こそ着替えてきたものの、その顔には疲労の色が濃い。またその険しく引き締まった表情からは、西方の情勢が良くないこともひと目で周知された。


 会食に出席しているのは、ルシアーノ側からはベルマンとシュナと、州外れで療養中の前紅爵こうしゃく夫妻であるシュナの祖父母。イルカード側からはレトリーとその両親と、レトリーの兄夫婦。そしてもう一人、結婚式を執り行い婚姻の立会人となるルシアーノ紅領中央教会の司教も招かれて、その誰もが皆一様に緊張した面持ちで席に着いていた。


「さて本来ならば、喜ばしい相談をする場であったはずだが……」


 重々しい雰囲気のまま食事が始まる。

 グラスの中の赤ワインをユラユラと執拗に揺らしながら、ベルマンがそう口火を切った。


「少々、状況が変わるやもしれん。レトリー、先に王都で決まった話を我々に報告してほしい。その話如何によって、結婚式の日程を調整しよう」

「はい」


 レトリーが、ワインで喉を湿らせてから、ゆっくりと話し出す。


 結婚式、という単語にどきりとして、シュナは思わず視線を上げた。

 対面に座ったレトリーの、その後ろの壁際に立っているシベリウスの顔をちらりと見る。けれどシベリウスはシュナの方など見てもおらず、相変わらず固めの無表情で直立していた。

 それを確認して、ふう、とシュナはため息をついた。

 あの馬車での帰り道の一件を、シュナの方は寝る暇も惜しんで日夜記憶に呼び覚ましているというのに、シベリウスはもう忘れているのではないだろうか。そのくらいシベリウスは済ました顔で、いつも通り淡々とレトリーに付き従っている。


「先月まで私が赴任していたスキーリー地方で、再びノーラとの小競り合いが起きております。討ち損じたノーラの残党が、周辺民族を取り込んで結集しかなりの規模となっているようです。先日、王都にて援軍が編成され、すでに先遣隊が出陣しました。私は、この休暇の後にルシアーノ州基地へ異動する予定となっておりましたがそれはなくなり、急遽三日後に王都を発つ援軍の二軍に入ることになりました」


 レトリーの話を聞きながら、はあ、とシュナは重苦しい吐息をついた。

 ペティシュールと周辺の国々は、元々一つの大国だったが内乱により長く分断されていた。特に西隣のノーラとは、豊富な資源を排出する鉱山帯の利権を巡って争いが絶えず、ずっと国境線が定まっていない状態が続いていた。

 また、戦に行ってしまうのか、と思うと気が重かった。

 レトリーが、――それももちろんだが、ウルクが。

 そして、シベリウスが。


「せっかくシュナ様がレトリーとこんなに仲良くなって下さいましたのに……こんなことになって、本当に申し訳ありません」


 シュナのため息を聞きつけたのか、レトリーの母親がそう言ってベルマンに詫びた。

 はっと顔を上げたシュナの目に、疲れた顔で、それでもシュナに向かってほほ笑んでいるレトリーの顔が映る。

 そんな二人の顔を見て、酒を飲んで上機嫌になったベルマンは快活に笑った。


「なんの。二人の仲睦まじい様子は私も十分に聞き及んでいる。この様子ならば、多少式が遅くなっても問題なかろう」

「いや、本当に。最近は暇さえあれば二人で街に繰り出しているとか。お熱いことですなあ」


 父親たちが笑い合う。茶化さないでくださいよ、とレトリーが苦笑した。

 不穏な話はあったが、元々軍閥系の両家であるから、この手の話には慣れたものだった。ここにいる男たちは皆、若い頃にはレトリーと同じように騎士団に所属し、下積み時代には戦にも駆り出された経験を持つ。生きて帰って来れれば箔が付き、手柄を上げれば地位も上がる。それはむしろ、レトリーを婿に迎えるベルマンにとっても喜ばしいことだった。


「では、レトリー様がスキーリー地方から戻り次第、すぐにも式を挙げる、ということでよろしいですかな」


 丸眼鏡をかけた老司教がそう言った。尋ねられたベルマンがレトリーを見る。


「だいたいどのくらいで終結する?」

「見立てでは、遅くとも年内には終わるのではないかと。冬初月ふゆはづきまでには戻ってきたいですね」

「でしたら、大星祭だいせいさいに間に合いますな」


 司教が言うと、場がにわかに沸いて色めき立った。

 大星祭とは、年に一度、二日間続く教会の冬祭りのことだった。雪の深まる冬中月ふゆなかつきに行い、気温が零下になると青白く発光する「銀重石ぎんじゅうせき」を粒状に砕いて街中に撒く。大小さまざまに造られた星の形の雪像は地上に瞬く銀河となって、地下に眠る死者の魂を導き、夜空に還す標となると伝えられている。また、女神ヌイエはその星の光を頼りに現世に下り、死者を導く代わりに生者に祝福をかけていくともいわれていて、人々は年に一度の女神の降臨に合わせ、その日に節目の行事を行うことも多かった。


「大星祭に結婚式か、いいですね」


 ほう、とため息をつくようにレトリーが言う。うっとりと瞳を輝かせたレトリーの母がすぐさま同意した。


「他にありませんわ。その日にしましょう」

「教会の都合はどうなのだ。空いているのか?」


 ベルマンもすっかり乗り気のようで、司教に予定を確認する。司教は、いい提案をした、とばかりに得意げに肩をそびやかした。


「二日目の『祝日いわいび』は外せない教会行事が入っておるのですが、それ以外でしたら可能です。一日目の『祈日いのりび』の昼、陽の一番高くなる時間に行うのがよろしいかと思います」

「決まりだな」


 ベルマンがそう言って、居合わせた者のほとんどすべてが頷いた。

 ――そこまでして、ようやく、全員がはたと思い至ってシュナを見た。

 先ほどから一言も声を発していない、この結婚の一番の当事者でもある花嫁を。


「シュナ。君はどう思う?」

「わたし、は……」


 レトリーが尋ねる。けれど、シュナの口は重く閉ざされたまま開かなかった。

 大星夜に結婚式を行えることを、まさか喜ばない人がいるとは思ってもみなかったのだろう。レトリーの瞳の奥に、何か文句でもあるのかと、詰るような強い光が宿る。じい、と見つめられて、シュナはますます顔を俯けた。


「まさか今さら、結婚をするのが嫌だなんて子どもみたいなことは言わないよね」


 すう、と細められたレトリーの瞳から、冷えた視線が突き刺さる。

 まさかそんなこと、とイルカード夫妻は明るく笑っているが、ベルマンの瞳もまたレトリー同様、剣呑に細められてシュナを見ていた。ベルマンにしてみれば、もう何年もずっとこの結婚にいい顔をしていなかったシュナが、ここ最近になって急にレトリーと仲良くなったと言われても、そちらの方がにわかには信じがたかった。だから今のシュナの反応も、心のどこかでは覚悟していたものでもあった。


「まあまあ、みなさん。シュナはね、繊細な子なんですよ。ついさっきまで戦だなんだって物騒な話をしていたのに、いきなり結婚式の話なんかされてもすぐには切り替えられませんよ。ねえ、シュナ?」


 おっとりとした声で、祖母が助け船を出す。その祖母の言葉もまたひどく的外れではあったが、今は心底ありがたくて、シュナは小さく頷いた。


「そう……ごめんなさい。なんだか、今は……」


 言葉を詰まらせ、瞳を伏せたシュナを見て、ベルマンは一応は納得した様子だった。お優しいのねえ、とレトリーの母が言うのに、騎士の娘なのに情けない、とため息で返している。

 それから、再びベルマンと司教を中心として結婚式の日程の話が進んでいく。


 また一言も話さなくなってしまったシュナを、冷めた瞳で、レトリーはじっと見つめ続けた。






「今日はずっと元気がないんだな」


 会食が終わり、各々が帰り支度を進める中、大事な話があるからと、シュナはレトリーに呼び出された。

 夜の庭園を二人で歩く。正確には、数歩後ろから影のようにシベリウスも付いてきていて、それもまたシュナの心をいたずらにざわめかせていた。

 スイレイの花の色づく池の前で、レトリーはベンチに腰を下ろした。周囲にはシベリウス以外誰の姿もない。暗く沈んだ顔をしながら隣に腰掛けたシュナの耳に、無言のうちに責めるような、静かなレトリーの声が積もる。


「どうしたの。何かあった?」

「何でもないです」

「何でもないって顔じゃないだろ。今さら俺と結婚するのが嫌にでもなったか?」

「そんなこと……!」


 そんなこと――ない、とは言い切れなくて、ぐっとシュナは唇を噛んだ。

 言葉を止めたシュナを冷ややかに見下ろして、フッとレトリーは短く笑った。諦めのため息にも似た、自嘲まじりの乾いた笑み。


「なんでかな。少しずつでも、うまくいってると思ってたんだけど、女の子の心は難しいな。この一ヶ月、無駄な努力だったってことか」


 取り付く島もないその言い方に、きりきりと心臓が痛くなる。


「……そんな言い方、しないでください。違うんです、急に結婚式の話が具体的になったから、なんだか、ちょっと驚いてしまって……」

「無理に言い訳しなくていいよ。けど、心配しなくていい。どうせ戻って来れないかもしれないから。憂鬱の種が消えてよかったね」

「え?」


 投げやりにそう言って、だらしなくベンチの背もたれに寄りかかり、投げ出した足を組んでぷらぷらと揺らしているレトリーの横顔をシュナはじっと見つめた。

 何を言っているのか、とっさに理解ができなかった。

 戻って来れない。戦から戻って来れないということは、つまり、最悪の場合を想定している、ということだろうか。全てを諦めたようにふてくされたレトリーの態度からそう察して、さっとシュナの顔が青褪めた。


「よかったねって……良くないですよ。そんな、縁起でもないこと言わないでください」

「なんで? 俺が死んだら君は嬉しいだろう、こんな好きでもない嫌味な奴と結婚しなくて済むんだから」

「どうしてそんなことを言うんですか。わたしは、あなたと結婚します。するってもう決めたんです」


 まるで半分は、自分にそう言い聞かせるように、シュナの声には強い力がこもっていた。

 確かに、レトリーとの結婚が嫌だった。シベリウスに会ってから余計に嫌になり、結婚式の話が具体的に決まったときには絶望さえした。

 けれど、塞ぎ込んでいた本当の理由は違う。

 シュナは、レトリーが戦に行くことを、喜んでしまった。

 ああこれで、結婚が半年は延びた――と、一瞬、確かにそう思ってしまったのだった。

 けれどそれは、個人としての好き嫌いに関わらず、これから命を賭して国のために戦わんとしている人に対して、絶対に思ってはいけないことだった。

 結婚式の件よりむしろ、そんな自分の子どもじみた浅はかな思考に対して、どうしようもない嫌悪と後悔を感じていたのだった。


 ――だから。

 そんな自分に負い目があったから、よりいっそう嘘で固めた言葉を紡いでいく必要があった。


「……無事で、帰ってきてください……。わたし、レトリーが帰ってくるの、待ってますから」


 それが、たとえ嘘であったとしても。

 シュナの口からそう言った、という事実を、レトリーが見逃すはずがない。


「……へえ。そう」


 レトリーの瞳に、すうっと鋭い光が宿った。

 底冷えするようなその冷たさに、びく、とシュナは思わず肩を震わせた。


「でも残念ながら、無事で帰れる保証はないんだ。お父様たちには言ってないけど、今回のノーラの大将は、前に俺が討ち漏らした奴なんだ。責任取って前線送りにされる予定だから、まあ、運良く生きて戻れたとしても無傷じゃ済まないだろうな」

「……え、そんな……そうなんですか」


 静かに、淡々とそう告げられて、シュナの心は冷え切っていく。

 戦に行く。結婚式が延びる。そんな小さなことで喜んだ浅はかで愚かな自分の心を、どこまでも容赦なくレトリーに追いかけられて、責められているような心地だった。

 そして、そんなシュナに最後のとどめをさすように、レトリーはこう言った。


「戦にはウルクも連れて行く。だから、最悪、俺たちがシュナに会えるのはもう最後になると思う」

「えっ!? 嘘でしょう!?」


 シュナは悲愴な顔をして思わず立ち上がった。


「そんな……」


 言葉は、続かない。真っ黒な不安が胸に押し寄せて、思考を端から塗りつぶしていくようだった。

 何も考えられない。

 ウルクに、もう、会えなくなる?

 結婚式の憂鬱、シベリウスへの恋、レトリーの安否……それらすべてが、一気に、頭の中から飛んでしまった。

 ウルクに、もう、会えなくなる?

 まるで悪い夢でも見ているようだった。


「まあ、そんなわけだからさ。明日の夜、うちに来ないか?」

「……ウルクに、会いに?」

「ばか。俺に会いにだよ。俺に会ったあとなら、最後にウルクに会っていってもいい」

「行きます」


 一も二もなく、シュナは強く頷いた。

 ――このまま会えずにお別れなんて、絶対に嫌だ。

 そんなことしか考えていないシュナの手を、ぱしりとレトリーが取って、諭すようにもう一度言った。


「本当にわかってる? 明日の、夜。一人で、俺の部屋に来いって言ってんだよ?」

「――――」


 わかってます、と言おうと開いた、その口が。

 開いたまま、ようやくその意味を理解して、ピタリと止まる。

 夜。一人で。婚約者の『部屋』に。

 それは。

 それは、つまり――


「来る?」

「ま……待ってください……そんな……そんなこと」

「別に、よくある話だよ。いまどき結婚するまで清い関係とかないから。騎士なんか特に、遠征に行ったらいつ死ぬかわかんないんだから、こんなことみんなやってる」

「うそ……」

「嘘じゃない。きっとベルマン様も黙認されると思うよ。ま、あんまり言ってほしくはないけどね」


 取られた手が、重なった手のひらが、熱い。

 引こうとしても、強い力を込められて、離れない。


 突然の話の展開に、動揺し、頭が真っ白になってしまった。

 言われている意味は、わかる。結婚したら夫と夜を共にすること、そこで子どもを作るのだということを、ちゃんと教えられて理解している。

 だからこそ余計に、混乱した。

 結婚前にそのような関係になることは、一般的にはふしだらとされてあまり良い顔はされない。けれど実際は誰に咎められることでもないし、何かの罰があるわけでもない。ましてや自分とレトリーは、すでに正式に結婚の決まった仲であり、しかも戦に行ってもう会えなくなるかもしれないという、それなりに正当な理由まである。


「どうする、来る?」


 熱い手のひらが、シュナの答えを催促する。

 言葉に詰まり、答えきれないシュナの耳に、冷酷な悪魔の囁きが響く。


「ウルクに会えるのは、もうこれで最後になるかもしれないよ」


 まるで、二年前のあの冬の日をなぞっているようだ、とシュナは思った。

 あの日も、まったく同じことを思った。


 ――もうこれで、ウルクに会えなくなるかもしれない、と。


 あの日も、今も。シュナにそう思わせているのがレトリーだ、というところも同じだ。

 レトリーはよく知っているのだ。

 ただ一言、それを言いさえすれば、たちまちシュナが自分の思い通りになることを。


「……行き、ます」


 あの日も、今も。

 二年前から、何も変わっていない。


 いつまで経っても、シュナは、レトリーから逃げられない。


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