3-3.二つの気持ち


 ウルクはシヴァインの街へ入った。

 もう夜も遅い時間で、雨足もかなり強まっている。けぶる街並みを歩く人影は少なかった。

 暗い裏通りの小道を選んでするすると街の深部まで到達したウルクは、とある小道にうず高く積まれた空き箱の山を見つけ、その隣でようやく足を止めた。

 身を伏せて、シュナを下ろす。

 シュナは雨よけの外套コードを着ているにも関わらず、すっかりずぶ濡れになった身体で地面に下り立ち、もの珍しそうにきょろきょろと辺りを見渡した。


「ここは……」

「どこかの店の裏でしょうね」


 独り言のつもりだったのだが、人の声で返答があった。

 シベリウスの姿に戻ったのか、と安心してシュナは振り向き――


「きゃー!?」

「しーっ、お静かに」


 その目にいきなり引き締まった全裸の男の身体が飛び込んできて、思わず悲鳴を上げてしまった。

 すっ裸のウルクは慌ててシュナの唇に人差し指を立てると、シュナの肩をつかみ、そのままくるりと身体を反転させた。無造作に蔦の葉の這う暗いレンガの壁だけを見つめさせられながら、手に持っていた着替えの一式がごっそりと大きな手に持っていかれる。


「ふ、服を持ってきてっていうのは、こういうことだったのね……」

「お見苦しいところを……申し訳ありません」


 ごそごそと、焦った衣擦れの音がする。あのすました端正な顔で、慌てて服を着込んでいるのだろうかと想像するとなんだかおかしくなってしまい、くすくすとシュナは笑ってしまった。


「そうよね。犬のときは、服なんて着ないもの」

「これが、なかなか不便なんですよねえ。ちなみに犬ではないですよ」

「ずっと聞きたかったの。犬じゃなくて、結局、何なの?」

「ル・ガルという種族で、狼の獣人なんです。まあ、その中でもだいぶ異端なんですが」


 お待たせしました、という声に振り向くと、いたるところに泥汚れを付け、濡れてぐちゃぐちゃになった騎士服を身に纏うウルクが立っていた。

 もう少し丁寧に畳んで持っていけばよかったと思いながら、そう言われて、シュナは改めてその姿を見た。

 人間の姿になったウルクは、髪と目の色、そして全体的な雰囲気以外にウルクの面影を感じさせるところは何もない。変身する瞬間をこの目で見なければ、今のこの青年がウルクだと、心から信じきることはできなかったかもしれない。そのくらい普通の、ただの人間にしか見えなかった。


「そっか。やっぱり、狼だったんだ」


 シュナが言うと、ウルクは苦笑した。

 暗い裏通りを雨に濡れて歩きながら、ぽつぽつと話し出す。


「狼とも少し違うんですよ。特に私は、獣のときは獣の特性がより強く出てしまうし、人のときは人の特性がより強く出る。狼とも、人とも、他のル・ガルとも違うんです」

「そうなんだ」


 あっさりとシュナが頷くと、ウルクはそんなシュナを振り向いて、少し驚いたような顔をした。


「……怖くはないんですか?」

「え?」

「不気味ではありませんか。その……自分でいうのもなんですが……魔物ですよ」

「魔物なの?」

「分類上は。魔力を持った獣、魔獣というらしいです」

「そうなんだ。じゃあわたし、魔物というのを誤解してたわ。魔物ってみんなもっと凶暴で悪いイメージがあったけど、そうじゃなかったんだね。怖くはないし、不気味だなんて思わないよ」

「――――……」


 シュナがそう言うと、ピタリ、とウルクは歩みを止めてしまった。

 訝しみながら、一歩後ろで同じように立ち止まったシュナの身体を、ふわりと、大きな腕が包み込み、そのままぎゅうっと抱きしめる。


「う、ウルク?」

「シュナ。あなたの、そういうところが……とても……」


 耳もとに、かすかな熱いつぶやきが落ちる。

 ウルクはシュナの小さな背中と後頭部に手を回し、ぎゅう、と強く力をこめた。

 硬い身体と冷たい服に全身が密着して、シュナはドキドキと鼓動を早めた。その身体の硬さから、脳裏に先ほど垣間見た白い素肌と筋肉の美しい裸体が思い浮かんで消えなくなって、かあっと頬が熱くなった。


 ウルクだけれど。

 ウルク、ではない。


 感覚としては、シュナは、初めて恋したシベリウスという男の人に抱きしめられている気しかしない。それがウルクなのだと頭ではわかっていても、実際にこうして男の人と抱き合った経験が初めてなのだから、ドキドキしてしまうのもしょうがない。

 そう思いながら、シュナは、自分の思考に疑問を感じていた。


 シベリウスに恋をした。あのときは、シベリウスがウルクだと知らなかった。

 あのときの気持ちは、今は、いったいどこでどうなってしまっているのだろう。


 ウルクのことは好きだ。けれどそれは、少なくとも今までは、決して恋愛感情ではなかった。

 ”シベリウス”はもう、いないのだろうか。

 それとも、シベリウスに対して抱いていた感情をそのまま、ウルクに引き継いでしまっても、いいのだろうか――


「う、う、ウルク……だめだめ、離れて」


 考えれば考えるほど、いてもたってもいられないほど恥ずかしくなり、シュナは腕をぐいぐい伸ばして強引にウルクから身体を離した。


「えー。だめなんですか?」


 ウルクの声は、子どもみたいに拗ねている。そこがまたなんとも、幼い頃から共に過ごしてきたウルクらしくてなつかしいのだが、そう言っているのがシベリウスだと思うと錯覚にも似た違和感が胸をすくって、なんとも言えずにただただドキドキしてしまう。


「だ、だめでしょ。こんなところで、そんなことしちゃ」


 シベリウスがどうとか、ウルクがどうとか。それ以前に、そもそもここは街の往来の真ん中で、人目は少ないとはいえ全くないわけでもないし、さらには雨が降っていてふたりともずぶ濡れの状態である。そんなことを言い訳みたいにまくし立てると、ウルクは、前髪から雨粒を滴らせながらにっこりと笑った。


「では、こんなところでなければ、いいんですか?」

「そ、それは……」

「なんて、すみません。シュナとこうして話せるのが嬉しくて、少し舞い上がっているんです。でも確かに、こんなことしている場合ではないですね。早く宿を取らないと」

「宿?」

「もうすぐなんです。この道の先です」


 ウルクはそう言うと、ごくごく自然にシュナの手を取って歩き出した。

 こんな雨の中だというのに足取りも軽く、本人の言う通り、舞い上がっているのだろう。

 見た目は確かに寡黙で無表情だと思っていたシベリウスのものなのに、蓋を開けてみればやっぱりウルクは、シュナの知っている素直で感情表現がゆたかなウルクでもあって――


 この複雑な気持ちにどう折り合いを付けたらいいのかまったくわからず、シュナは戸惑いながら熱い手のひらのぬくもりを追いかけた。






 一見しただけでは、そこが宿だとわからなかった。


 看板も表札も何もなく、一階には窓すらない。中の様子が一切窺えない無骨な煉瓦造りの建物はさながら役所か何かのようだった。簡素な木製の扉には、そんな建物の風情にはまるで似つかわしくない赤いリボンがちょこんと飾ってある。その扉をウルクは開いた。

 入ってすぐのカウンターに受付けがあった。ウルクはシュナを待ち合いの椅子に座らせて、一人でそこに向かっていく。カウンターには店主と客それぞれの顔を隠すように黒い布が天井から吊り下げられていて、とにかく徹底的にウルクは人目を忍んでいるのだ、ということだけはよくわかった。


 その様子を見ていて、シュナの心も急速に冷えた。

 ウルクだけではない。シュナだってだいぶ浮かれていた。

 自分たちはあくまでも、結婚前の貴族令嬢と、婚約者の従者という立場でしかない。それは世間的には、二人で一緒に宿に入るなどということは決して有り得ない組み合わせなのだ。


「シュナ。こちらへ」


 受付けで支払いを終えたウルクが、手に一つの鍵を持ち、反対側の手をシュナに差し出した。

 急に漠然とした不安が胸に押し寄せた。

 どうしてこんな宿を、ウルクは知っているのだろう。支払いを済ませる仕草はスマートで何の躊躇もないように見えた。それは、こういうところに来るのが慣れている――ということ、だろうか。

 それは、シュナのまったく知らない、新しいウルクの一面だった。つまり、今の”ウルク”は”シベリウス”に見える。


 ”ウルク”とは一緒にいたい。

 けれど”シベリウス”とは、シュナは一緒にいてはいけないのだ。


「……ウルク」


 手を取って、導かれるまま歩く。不安にかられて呼びかけると、振り向いたウルクは微笑んで、大丈夫、というように手を強く握った。

 階段を上がり、暗い廊下を歩き、突き当りの部屋の扉に鍵を差し込む。

 扉を開き、中に入って扉を閉め、かちゃり、とウルクは鍵をかけた。


 もう、後戻りはできない。






 殺風景な部屋だった。シュナの主室の一間より狭い。

 そこに、シュナのベッドよりは小さいが、大人二人ならばゆうに横になれそうなサイズのベッドが置いてあった。それ以外の家具はサイドテーブル一つくらいしかない。ただ寝るためだけの部屋。それが一般的に何を意味するのか、わからないほどシュナはもう子どもではない。


「シュナ。そろそろこちらへ来ませんか」


 ベッドサイドのランプの明かりを小さく絞った、薄暗い部屋の中。

 穏やかなウルクの声が、困ったようにシュナを促す。

 けれど、シュナだって、もっと困っている。


「ちょ、ちょっと……まって」


 とにかく、二人とも、全身が水をかぶったようにずぶ濡れだった。服を脱いで干しておこうとウルクが言うので、シュナもそれに従った。そうするより他になかった。そこまではしょうがないと思うのだけれど。

 下着トゥロスに大判の浴布タオルを一枚巻いただけの心もとない格好で、シュナはベッドサイドから一歩も動けずに固まって久しい。

 ベッドの上では何にも気にしていないような呑気な顔で、腰に浴布を巻いただけの――つまりはほとんど裸も同然のウルクがのほほんと寛いでいる。

 無駄のない、引き締まった筋肉に飾られた身体。目のやり場に困ってしまって俯くと、そんなシュナを見て、ウルクは安心させるように微笑んだ。


「大丈夫。なにもしません」


 なにもしません。――「なに」とは、いったいなにか。安心するどころか、かえって頬は赤くなる。

 婚約者を裏切って、二人で逃げてきた。逃げ込んだ先は、ベッドが一つしかない小さな部屋。シュナは、シベリウスに恋をしていて、ウルクだってシュナのことを悪しからず思っていると思う。そんなふたりが、ほとんど裸に近いような状態で、一つのベッドで横になる。――こんなにも条件が揃っているのに、「なにも」起こらないなんてことが逆にあるのだろうか。


「……しないの?」

「え。してもいいのですか?」

「いや……えっと……」

「大丈夫。今日はしません、誓って。ね、だからこちらへ来ませんか」


 すると言われてもそれはそれで大いに戸惑っただろうけれども、こうもきっぱりと「しない」と言い切られてしまうと、それはそれで、なんとも言えない気持ちになる。


「……行きたいけど、恥ずかしいんだもん。じゃあ、向こうを向いていてくれる?」

「いいですよ」


 素直に従って、ベッドの上、ごろんとウルクが背を向けて横になる。

 大きな肩。広い背中。まっすぐな背すじ。色白な肌、ところどころ隆起したしなやかな筋肉の陰影――まだ見ていられない。


「ふ、布団の中に入って」

「はい」


 くすくすと笑いながら、ウルクは言われた通りにする。

 それでもなお、顔を赤くして躊躇っているシュナに、ウルクもくすくすと笑い続ける。


「何も恥ずかしいことないじゃないですか。昔は、一緒にお風呂に入っていたでしょう」


 目を背けていた現実を突きつけられて、シュナが固まる。


「……お風呂に……一緒に……」


 真っ青になるシュナとは対照的に、ウルクは実に楽しそうに、にこにこと笑いながら傷を抉ってくる。


「はい。毎回」

「ああ……」


 犬だと思っていたからだ。

 まさか、人にもなれるなんて、思ってもいなかった。


「それから、毎日一緒に寝ていました」

「ああぁ……」


 だって、犬だと――いや犬ではないかもしれないけれども、動物だと信じて疑ってもいなかったからだ。


「ね、だから、今さら恥ずかしがることないんですよ。気にするだけ無駄ってものです」

「どうして、もっと早くに言ってくれなかったの。人の姿になれるって」


 シュナが言うと、ウルクは、はたと笑うのをやめた。答えないウルクにかわり、シュナは言葉を募らせる。言いたいことはたくさんあるのだ。


「わたし、ウルクに会ってから毎日、ウルクと話せたらどんなにいいだろうって思ってた。夢が叶って、今、とっても嬉しいけど……でも、もっと早く言ってくれればよかったのに」

「そうですね……すみません」


 心なしか元気のない、ウルクの声。しっかり壁の方を向いているので、その表情はシュナにはわからない。


「居場所を失うのが、怖かったんです。人間が魔物をどう思っているのかを知って、自分がその魔物だと気付いたとき――そのことがバレたら、もうシュナとは一緒にいられなくなるんだろうと思いました」

「……そうだったんだ」


 そのときのことを、シュナはなんとなく覚えている気がする。

 ウルクが家に来てすぐのこと。マルチと、ウルクのことについて話した記憶がある。魔物について無知だったシュナに、マルチが教えてくれた。あのとき、何て言っていただろうか。

 ――悍ましい。怖い。

 そんなネガティブな言葉を使ってはいなかっただろうか。

 それをウルクが、ずっと気にしていたのだとしたら――


「まあ結局は、そんなことしなくてもこうして城を追われてしまったわけですが――おっと」


 穏やかに言葉を重ねている、ウルクの背中にシュナはそろりそろりと近付いた。今、どんな表情をしているのだろう。見えないけれど、そのかわりに、するりと同じ布団に入り込み、広い背中にぎゅうっと抱きついた。


「……い、意外と、大胆なところありますよね」


 まさかあんなに恥じらっていたシュナがいきなり抱きついてくるとは思わなかったのか、触れるウルクの身体が驚いたように緊張した。

 いつも余裕があって泰然としているように見えたウルクにそんな反応をとらせたことが嬉しくて、シュナは広い背中に頬を寄せながら、幼い頃いつもそうしていたように、大きなウルクにぎゅうっと抱きついた。


「もっと早く言ってほしいなんて……簡単に言ってごめんね。わたしが悪かったのに」

「シュナは悪くないですよ」

「ううん。魔物に対して、偏見があったの。だからウルクは言い出せなかったんでしょ。知らない間にきっと傷つけちゃったと思う……本当にごめんなさい」

「シュナ」


 広い背中から、ウルクの胸の前にまわされたシュナの細い手を、ウルクの大きな手のひらがそっと取って包み込む。

 ウルクはそっとその手を引き寄せて、祈るように、大切なシュナの左手に唇を落とした。


「ありがとう。……ありがとう、シュナ。でも、違うんです。私に勇気がなかっただけなんですよ。もっと早く話してあげられなくて……ごめんなさい」


 静かな声が、シュナの耳に降り積もる。

 もっと早くに教えてほしかった――自分でそう言ったばかりなのに、そんなことが一気にどうでもよくなってしまった。

 今、こうして。

 昔と同じように、また、同じベッドで一緒に横になっている。大きな身体にぎゅうっと抱きついて、ウルクはシュナの指を舐める。

 少し――だいぶ、前より恥ずかしいけれど、それでも何も変わらない。


 ”ウルク”と、”シベリウス”は、同じだ。


 シュナの中でまだわずかに残っていた違和感は、布団の中のあたたかい熱に包み込まれていつしか溶けてなくなろうとしていた。


 ウルクが好きだ。

 シベリウスが好きだった。


 元は別々のものだったはずの二つの気持ちが、溶け合って、混じり合い、ゆっくりと一つの想いにその形を変えていく。

 気付いてしまえば、その気持ちは、ずっと前から当たり前のようにシュナの中にあったように、心の中にしっくりと馴染んだ。


 ――シュナは。

 ウルクを、愛している。


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