1-2.ふたりはいつも一緒(1)


 ウルクと名付けられたシルバーグレーの小さな仔犬は、その日からシュナと共に紅爵こうしゃく城にて暮らすことになった。


 ベルマンは、何もブルッグの忠告を忘れたわけではない。今はウルクはただの従順な仔犬にしか見えないが、仔犬らしからぬ獰猛な一面が確かに存在していたという事実は肝に銘じておく必要がある。

 だからせめてウルクの寝食する小屋は城外に置き、厳重に鎖で繋いでおきたかったのだが、これにシュナが猛反対した。

 ウルクは自分の部屋で飼うのだというのがシュナの強い希望で、とにかく腕に抱いたまま片時も離さない。しまいには外に連れていくなら自分も庭で寝ると言い張り、頑なに城の中に入らないので、これにはベルマンも折れるしかなかった。

 結果、城内にいるときは必ず首輪を付けて鎖を手放さないことを条件に、ウルクはシュナの部屋の一角に新しい居場所を得たのだった。


「良かったですね、お嬢様」


 その日の夜。

 湯上がりのシュナのつややかに濡れた髪を丁寧に拭きながら、そう言ったのは侍女のマルチだった。ダークスの娘である彼女はまだ二十歳と年若いが、幼い頃からシュナに侍り、人一倍心を砕いて献身的に仕えてきた、いわばシュナのもう一人の姉のような存在だった。

 三ヶ月ぶりに表情を取り戻したシュナの様子に、マルチも涙を流して喜んだ。いや、マルチだけではない。執事も使用人も護衛も含め、城中の誰も彼もがシュナの変化に泣いて喜び、そしてまた、シュナに笑顔をもたらしたシルバーグレーの仔犬にこれ以上のない感謝と恩を感じていた。

 ウルクは手厚くもてなされた。

 それがどの程度かというと、例えば貴族身分の者だけが使用できる城内の大浴場にシュナと一緒に入るという、前代未聞の出来事さえも容易く許されるほどだった。


「見て、マルチ。洗ったらこんなに綺麗になったの」


 マルチに髪を拭われながら、シュナ自身はウルクの被毛を拭っている。王家も御用達の花石鹸で泡まみれになりすみずみまで洗われて、ウルク自身も気持ちが良かったのか、すっかり血色の良くなった顔で上機嫌にワンと鳴いた。


「まあまあ、お可愛らしいこと!」

「でも、不思議な毛色よね……白でもないし灰色でもない。青みがかってきらきらして……おひさまの下で見る初雪みたい。こんなに綺麗な色、見たことないわ」

「ええ、本当に。北樺山ほくかさんのオオカミの絵画を見たことがあるのですが、それに似ている気がいたします」

「そう! わたしもそう思ったの! それで『ウルク』という名前にしたのよ。オオカミっぽくって、かっこいいでしょ」

「ああ、名前の由来はそれだったのですね。でも、実際どうなんですか? 旦那様も初めはお外に繋ごうとしてらっしゃいましたけど……」

「うーん……」


 マルチが浴布タオルを置いたので、シュナもウルクを包んでいた浴布を取った。シュナが両手を広げると、すぐさまそこにウルクが飛び込んでくる。シュナはマルチに丁寧に髪を梳かれながら、まだわずかに湿り気の残る被毛に顔をうずめて、さわやかな石鹸の香りの中に残る消えない獣のにおいを嗅いだ。


「それがね、よくわからないんですって。動物商のおじさんでも見たことがない種類みたい。オオカミかもしれないけど、でもオオカミなら子どもを群れから離して人里に近付けるようなことは絶対にしないし、何より人には懐かないって」

「なるほど。じゃあやっぱり、犬ですね」

「そうなのかなぁ」


 シュナもウルクのやわらかな被毛に丁寧に櫛を通していきながら、ブルッグの怯えたような顔を脳裏に思い出していた。

 すると、独り言のようにマルチがぽつりとつぶやいた。


「まさか、魔物だったりして……」

「魔物?」

「人間に擬態もできる、魔力を持った悍ましい獣がいるらしいですよ。習性は違えど、獣型のときの見た目は普通の動物と一見あまり変わらないとか。――なあんて、冗談ですよ。そんなはずありませんからね。怖い話をしてしまってすみません」


 ウルクはこんなに可愛らしいのだから、と。そう言ってマルチは、シュナの腕の中で気持ちよさそうにブラッシングされているウルクを覗き込み、にこやかに微笑んだ。

 魔物、という不穏な単語にはどきりとしたが、すぐにシュナも気持ちを切り替えた。自分の選んだ仔犬を、そうしてみんなが手放しに褒めて可愛がってくれるのが嬉しかった。心がぽかぽかと温かくなって、シュナはすっかり毛並みの整ったウルクをますますぎゅうっと抱きしめた。


 そんなふたりの様子を見て、マルチは心の内でとても安心していた。

 マルチは、家主であるベルマンから、くれぐれもウルクから目を離さず、もし万が一のことがあれば身を呈してシュナを守るようにときつく言い渡されている。その使命を決して忘れているわけではないが、マルチはウルクが牙を向くどころか、吠えたり、唸ったりするところですら見たことがない。こんなに穏和しくて利口な仔犬が、いったい何をどうすれば、シュナを傷つけるというのだろう。






 シュナとウルクはベルマンに夜の挨拶をした後、揃ってシュナの自室へと引き上げた。長湯をしている間にシュナの子ども部屋はすっかり整えられ、ふかふかの寝床を備えた真っ白な犬用のケージが据えられていた。

 寝る間際、マルチはシュナにケージの鍵を手渡した。それは、黄金色に輝く小さな鍵だった。


「お休みになる際はケージに入れて、しっかり鍵をかけておくようにとのことです。よろしいですか?」

「はーい」

「本当におわかりですか? くれぐれも、シュナ様のベッドで一緒に眠ったりなんかしてはいけませんよ。寝ている間に蹴られたり、寝ぼけて噛み付いたりなんてことがあったら大変ですからね」

「わかった、わかった。大丈夫だから心配しないで。じゃあね、おやすみ」


 はやる気持ちがシュナを急かした。早口でそう言うと、シュナはぐいぐいとマルチの背を押し、あっという間に部屋から追い出してしまった。

 扉が閉まるとまず、シュナは飾り棚に置いてある小箱の中にケージの鍵をしまい込んだ。そして月明かりの射し込む窓辺にカーテンを引き、小さなランプの心もとない灯りひとつとなった部屋の中で、自分のベッドに飛び乗った。


「おいで、ウルク。一緒に寝よう」


 わう、と弾んだ声で一鳴きし、ウルクもシュナのベッドに飛び乗った。


「本当は、一緒に寝ちゃいけないんだって。だからこれは、ふたりだけの秘密よ。わかった?」


 ウルクの小さな身体を布団の中に引き入れて、頭まですっぽりと布団を被ってしまったその中で、声を潜めてシュナはそう言った。

 くう、と短くウルクが返事をする。はい、と頷いているようだ。コミュニケーションを取れることが嬉しくて、シュナはウルクを抱きしめた。


「おりこうさんだね。お父さまは、ウルクが悪いことをしたらもう飼えないなんて言ってたけど、大丈夫だよね。だってこんなに賢いんだもん」


 わう、わう。そうだよ、大丈夫だよ、と言っているように聞こえる。本当に会話をしているようだった。そう思うと俄然離れがたくなり、シュナはますますウルクに縋り付いた。


「だいすきだよ、ウルク。ウルクは、どこにも行かないでね。ずっと一緒にいてね」


 答えるかわりにウルクはシュナに鼻先を近付けて、ほろりとこぼれ落ちた涙を舐め取った。


 伸ばした舌のその奥には、決して折れることのない鋭い牙が確かにある。

 けれどウルクはシュナの前では決してその牙を顕わにすることはなく、かわりにあたたかく柔らかなその舌で、毎晩のようにこぼれ落ちるシュナの涙を優しく拭い、深い悲しみに包まれたシュナの心を傍らでそっと慰撫し続けた。


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