お嬢様と犬

春野うた子

▼第1章 お嬢様と犬

1-1.白銀の仔犬


 北部一帯に緑ゆたかな森の広がる、ペティシュール国ルシアーノ紅爵こうしゃく領。

 王都に続く大街道を持つ州都シヴァインは、季節を問わず交易に行き交う多くの人々で賑わう、瀟洒な都会の街だった。


 端々まで整備の行き届いた石畳の大通りを、一台の黒塗りの馬車が往く。

 箱型の客席の扉に紅色で双剣の紋章の描かれたその馬車は、領主ベルマン=ルシアーノの乗る馬車である。

 馬車はシヴァインの街を横断するように通り過ぎ、やがて街外れに大きな門扉を構える一つの店の前でその歩みを止めた。

 店の裏には森に繋がる広大な緑の敷地があって、見渡せないほど遠くまで大きく頑丈な柵が続いている。敷地の中にも柵で区切られたいくつかの区画があって、それぞれに大きな小屋があり、何種類もの動物や家畜が飼われていた。


「ようこそおいでくださいました、紅爵。この度はわざわざご足労いただきまして、誠にありがとうございます」


 馬車から下りたベルマンを、動物商を営む小太りの店主が地に付かんばかりに頭を下げて出迎えた。

 紅爵家はこの店『ブルーパーク』の一番の得意客ではあったが、いつもは馬であれ鶏であれ何であれ、注文された品を店主のブルッグが厳選して居城まで届けに行っていた。それが今日に限っては一体どんな風の吹き回しか、紅爵自らがわざわざ出向いてくるという。


「なに、たまには城下の様子も見なくてはな。それに今日は私一人ではないのだ」

「おや、いったいどなた様が……」


 ちら、と視線を上げたブルッグの目に、馬車の扉から出てくる一人の少女の姿が映る。

 ブルッグは思わず固く緊張していた口元をゆるりと綻ばせた。

 とろけるような蜂蜜色の長い髪。澄んだ輝きを具える深紅の瞳。二つの瞳はさながらルシアーノ領特産のリーゴの果実のように丸く大きく、あどけない少女の顔を可憐に彩っている。


「これはこれは。シュナお嬢様」


 ベルマンの手を取り馬車から下りたのは、ルシアーノ紅爵家の末娘だった。

 ベルマンには三人の娘がおり、どの娘もなべて美しかったが、とりわけこの三女の美貌は別格で、噂は国境を超えて隣国の商人でさえ口にしているほどだった。

 紅爵夫妻の間に遅くに出来た子で、両親が溺愛したのは尚のこと、年の離れた二人の姉たちも愛らしい妹をたいそう可愛がった。ふんわりと柔らかい癖のある長い髪の毛先から、つやつやときらめく小さな足の爪の先端に至るまで、シュナは美しく磨かれ整えられ、『ルシアーノの紅玉ルビー』と讃えられていた。


 ――ただ、そうして持て囃されていたのも、三月ばかり前までのこと。

 今は表情を無くし、感情を欠落させ、その大きく丸い瞳に何も映さなくなったその娘に対し、人々は皆かける言葉を失って久しかった。


「ほら、シュナ。挨拶をしなさい」


 父親のベルマンがそう言って娘を窘めた。

 けれどもシュナは黙ったまま、会釈すらせずにぼうっと石畳の縁を見つめている。

 礼儀がなってなくてすまない、とベルマンが肩をすくめて謝るので、事情を知っているブルッグは大慌てで首と手を横に振った。


「とんでもない、どうかお気になさらないでください。お嬢様は、まだご心痛のさなかにあられるご様子……かような折にわざわざご足労いただいてしまい、本当に、何と言えばいいのか」

「なに、いつまでも家の中で悲嘆に暮れているわけにもいくまい。私にも、娘にも、少し気晴らしが必要だと思ったからここへ出向いたのだ。この子には、なにか慰めになりそうな小動物でも見せてやってくれ」

「畏まりました。それはもう、とっておきの可愛い子たちを揃えてございますので」


 そう言ってブルッグは、ベルマンを店内の応接間に通して寛がせ、次いで物腰柔らかな女性の店員を呼んで、真っ黒なドレスに身を包んだ少女を店の奥へと案内させた。


 ベルマンにとって最愛の妻、シュナにとってもかけがえのない母であったクシャナが、持病を悪化させて亡くなってから三ヶ月。

 夫とともに領地の発展に尽力した紅爵夫人の突然の訃報に、街も村も森の木々さえもひととき悲しみに沈み込んだ。けれどおよそ一月の喪を明けて、軒先に吊るした黒紙は褪せてやがて光を通す白紙になり、季節は移ろい春になり、街は徐々に平常通りの色彩と活気を取り戻していった。

 そんな中で、街路のサクラルが満開になっても、散って鮮やかな新緑になっても、どれほどの時が経とうとも、シュナだけは未だいつまでも、心に色を失ったままだった。


「いやはや、なんともおいたわしい。お嬢様、いくぶんか痩せてしまわれましたね……」


 店の裏手に広がる牧場で、ベルマンに何頭かの毛並みの美しい馬を見せながら、ぽつりとブルッグはそうこぼした。

 シュナは動物が大好きで、たまに馬や家畜などをブルッグが持っていくと、必ず父と共についてきてはひとしきり動物たちを撫でていった。そのときの花が咲いたような満面の笑み、つややかに紅潮した頬や、朗らかに響く高い笑い声をブルッグはよく覚えている。

 ベルマンは優美な栗毛の馬の背を撫でながら、地を穿つほど深いため息をついた。


「いくぶんかどころの話ではない。近頃は、何を食べさせてもすぐに吐いてしまうのだ」

「それは、たいそう心配でございますね」

「どうすればシュナを癒やしてやれるのか、もはや全くわからない。信じられるか、おまえ。まだ十の子どもが、母親を失ったというのに未だ一粒の涙もこぼしてはいないのだぞ」

「なんと……」

「母が死んだという事実を、認められていないのだろう。泣いていないから、一向に心が動かない。あれでは立ち直りようがない」

「それは、なんとも……」


 かける言葉の一つも浮かばずに、ブルッグは沈痛な面持ちで重い息を吐き出した。

 次いで広い店内の一角に設えた小動物の展示場を脳裏に思い出す。

 兎、猫、犬、針鼠、小鳥――果たしてその中に、シュナの気に入る動物はいるだろうか。






 シュナは干し草のベッドの上ですやすやと眠る兎の前も、生まれて間もない愛くるしい仔猫の前も無表情で通り過ぎ、付き添いの店員を大いに困惑させた。

 ついに案内するところがなくなってしまった店員に、もうついてこないで欲しいと冷たく宣告し、シュナは一人で店内をあてもなく歩く。


 動物は好きだった。

 けれどどの子を見ても、特に何とも思わない。

 三ヶ月前からずっとこの調子だ。甘い焼き菓子が好きだった。庭園の草花が好きだった。刺繍をすることが好きだった。今はそれらの一切が、心に何の感慨も与えず胸の中をするりと素通りしていく。


 あの広い大きな城の中に、大好きだった母の姿がどこにもない。

 そのことがシュナの心に、修復しようもないほどの大きな穴を開けていた。

 父は、母は死んだのだと言う。二人の姉も、離れて暮らす祖父母も、侍女も執事も家庭教師も使用人も、誰もが皆そう言った。

 だから、そういうことなのだろうとは思う。母がいない。母親は死んだのだ。そう思うのだが、なぜだか思考はいつもそこで止まってしまった。それがいったいどういうことなのか、理解ができない。できないからそれ以上を考えられない。


 ――そして、そうやって。

 今日もまた、こうして。


 昨日と同じ。一昨日と同じ。その前の、前の、前の前の日とずっと同じ、日が昇って落ちるだけの、眠って起きて息をするだけの、ただそれだけの日々を無為に過ごしていくのだろう。


「――――……」


 シュナが足を止めたのは、そのときだった。

 そこにいたのは、一匹の犬だった。


「……」


 どうしてそこで足を止めてしまったのか、自分でもわからない。

 先ほど見かけたあの兎のように、品の良い籐籠の中で丁寧に被毛を梳かれるでもなく、仔猫のようにたっぷりの玩具とミルクを与えられているわけでもない。ただ物置きのような雑然とした通路の奥で、窮屈で無骨な鉄の檻に閉じ込められているだけの、痩せてみすぼらしい風体の、まだまだほんの小さな仔犬だった。


 犬は退屈そうに地面に伏せて目を閉じていた。

 シュナが足を止めるとその目を開き、くん、と一度だけ鼻を鳴らした。

 吸い寄せられるようにシュナは檻に近付く。

 すると、その小さな体躯がちょこんと立ち上がった。


「お嬢様、どちらへおいでですか」

「シュナお嬢様ー」


 遠くで誰かが、シュナを探している。

 そんな雑音は、全くもって耳には届いていなかった。


 檻のすぐ前まで歩み寄ると、シュナはそこですとんと腰を下ろした。

 たっぷりとあしらわれた裾のフリルが土埃に汚れるのを気にもせず、シュナは膝を抱えてうずくまるようにして犬を見た。何の感情もなく、ただ、まあるい紅玉ルビーの瞳が犬の姿を映し出す。

 薄汚れてはいるけれども、シルバーグレーのつややかな毛並み。晴れた日の水面のような煌めきを宿す、澄んだ水宝玉アクアマリンの瞳。ろくに身体を洗ってもいなさそうなのに、きれいだな、という感想しか浮かばない。


「……なんで、きみだけこんなところにいるの?」


 ぽつりとそう尋ねると、犬の頭がわずかに動いた。シュナの目には、それは小さく首を傾げたような動作に見えて、やけに人間らしいその動きに小さく笑ってしまった。

 くす、と吐息を漏らした後に気がついた。

 笑ったのはいつぶりだろう。


「何か悪いことでもしたの?」


 続けて尋ねると、くう、と小さく犬が鳴いた。

 それもまた相槌のようなタイミングの良さで、なんだか会話をしている気になった。

 そっかあ、とシュナはつぶやいて、じっとその仔犬に見入った。

 犬の月齢はわからない。生まれたてというほど小さくはないが、それでもひと目見て仔犬とわかるほどにはまだ小さい。シュナはもう十歳だから、少なくともシュナより幼いことは確実だった。それなのにたった独りでこんなところで、まるで捨て置かれたように放置されている。


「……さみしいね」


 つぶやいて、手を伸ばす。

 頭の上にシュナの手が乗っても、犬は利口に身じろぎ一つせず、されるがままに撫でられた。

 やわらかい犬の被毛は手触りが良くふわふわで、手のひらを沈めるとじんわりと温かい。

 その熱に押されるように、つきん、とシュナの鼻の奥が痛んだ。


「きみも、お母さんとはなればなれになっちゃったの?」


 瞳が涙の幕に覆われて、目に映る景色がにじんでぼやけた。

 水中にたゆたうような曖昧な色彩の中で、くう、と仔犬がまた鳴いた。

 力尽きるように犬の頭から滑り落ちた小さな手のひらに、仔犬はそっと顔を近づけて、栄養不足でかさついた指先をぺろりと舐める。


「……わたしも、お母さん、いなくなっちゃったの。しんじゃったんだって」


 ぺろ、ぺろ。

 少女の双眸からこぼれ落ちるいくつもの涙の粒を不思議そうな顔をして見つめながら、仔犬はシュナの指先を舐め続ける。


「もう、会えないのかなぁ」


 それより後に続く言葉はもう、嗚咽に呑まれて声にならない。






「シュナ! そんなところで何をやってる!」


 バタバタと慌てた複数の足音が通路に響き渡った。小さな鉄の檻の前にうずくまる黒服の少女を見つけてまず最初に声を荒らげたのがベルマンで、次いでその檻に目をやり、悲鳴のような声を上げたのはブルッグだった。


「いけませんお嬢様! そ、そこから離れてください、すぐに!」


 そのブルッグの青褪めた顔に、共にシュナのもとへと駆け寄りながら、ぎょっとしたようにベルマンはブルッグを振り返った。


「な、何なのだ、あの檻は」

「あ、いえ、犬ですよ。仔犬です。しかし何といいますかその、あまりに凶暴で――」


 言いさして、ブルッグはふいに続く言葉を呑み込んだ。

 檻の前で、その目に映った光景に驚いて足が止まってしまった。隣ではベルマンも、後ろでは店員や従者たちも、誰もが倣うようにその歩みを止めて、驚いたような顔をしてそれを眺めている。


「……凶暴?」


 大いに訝しんでベルマンがそう尋ねる。

 大いに困惑しながらブルッグは答えた。


「その……何の犬種かわからないのですが、捕らえた日から全く誰にも懐かず……人と見れば誰かれ構わず暴れて噛み付くような気性でしたので……」


 背後に続く従業員たちが、一様に頷いている。皆手を焼いていたのだろう。よく見ると、中には手に包帯を巻いている者もいる。


「ベルマン様……お嬢様が」


 そうして驚いている従業員たちの間を抜けて、一人の年かさの男がベルマンに近付いた。ベルマンの従者で、ダークスという男だった。ベルマンはダークスの視線を受けて頷く。彼らもまた驚いていた。


「ああ、……泣いている」


 父が、姉が、腹心の侍女が、優しい教師が。誰もが手を尽くして慰めても、決してシュナは泣かなかった。泣くということは、泣くに足る理由があるということだが、その理由をシュナは決して心に受け入れることをしてこなかった。三ヶ月もの間、ずっと。

 そうであったのに、今は一匹の仔犬の顔に指先を寄せながら、ぽろぽろと大粒の涙を流している。

 ベルマンはその様子を見て目を細めた。噛み締めた唇に痛いほど歯が食い込んだ。憐れな娘に、かける言葉は見つからなかった。かわりに傍らのブルッグにそっと尋ねた。


「あの犬は幾らだ」


 ブルッグの顔には、激しい葛藤が目に見えるようだった。


「お代など……元々、近いうちに処分に出すつもりだったのです……いえ、そう、そうなんです。大変危険です。ですから、あれをお売りするわけには……」


 処分、という穏やかならぬ言葉を聞き留めたのか、シュナがぱっと顔を上げてベルマン達の方を振り向いた。

 泣き濡れた瞳、真っ赤に腫れた鼻と目元。ベルマンが三ヶ月前に見るはずだった顔で。


「処分ってなんですか」


 まさか、殺処分、などと言えるはずもない。


「あの、保護施設といいますか、弱った動物の面倒を見てくれる施設が王都にございまして……」


 売ってはならぬ、とブルッグの動物商としての勘が警鐘を鳴らしている。

 一見仔犬のように見えるが、おそらくあれは犬ではない。玩具にと与えた家畜の骨を一瞬にして噛み砕き、触れようとする飼育員の手のひらを肉が抉れるほどに噛みちぎった。まだほんの子どもにして、その咬合力はすでに常軌を逸している。とても愛玩用として飼える類の動物ではない。


「だめ。だめなの、連れてっちゃだめ」


 だめ、だめだ、売ってはいけない。


「この子がいい、この子じゃないとだめなの」


 この仔は、この仔だけはだめなのだ。


「お許しください……本当に、危険で……獰猛な獣の可能性が……」


 答えるブルッグの声は、弱々しかった。少女の手の下で静かに沙汰を待つその獣は、極めて従順で穏和しく、ブルッグの言葉には呆れるほどに説得力が伴っていなかったからだ。


「仮に獰猛な獣であったとして、しかし今のところシュナには懐いているように見える。シュナに危害を加えるようには見えないが」


 ベルマンが言う。その通りだとブルッグも思うのだが、同時にまた、動物は押し並べて人間の思う通りにだけ行動してくれるわけではない。攻撃する意図がなくとも、何かの弾みで牙が当たってしまうような事故も起こり得る。

 そのことを懇切丁寧にベルマンとシュナに説得したが、ブルッグが話せば話すほど、シュナは泣いて檻に手を伸ばし、宥めるようにその獣を優しく撫でた。


「わたしが面倒を見ます。しつけもちゃんとやります。もう絶対に人を噛まないように言います」


 だから、言ったところで聞くようなものではないのだと、尚も言い募るブルッグをベルマンが制した。


「私からも頼む。今のシュナには、あれが必要だ」


 それはそうだろう。ブルッグとてそう思う。

 そう思うから、こんなにも言葉が迷うのだ。


「責任は私が持つ。万一この獣が暴れるようなことがあっても、決してこの店に責を負わせるようなことはしないと誓おう。だから譲ってくれないだろうか」


 この街を治める領主にそうまで言われて頭を下げられて、ついにブルッグは降参した。

 絶対に売ってはならない。今でもそう思っている。ブルッグの胸の内を占めるのは、なぜもっと早くに、紅爵たちの来る前にこの犬を処分しておかなかったのだろうかという後悔ばかりだ。

 けれど――


「ありがとう、おじさん。ありがとうお父さま!」


 緊張に震える手でブルッグが檻を開ける。シュナ以外の誰もの心配を裏切って、犬は実に静かに檻を出て、牙の一つも見せずにシュナの手に頭を擦り付けた。

 これでもうさみしくないね。そう言って犬を抱き上げる、シュナの顔は咲きほころぶような笑顔だった。

 それはベルマンが何よりも強く望んでいた、三ヶ月前までの、明るく元気な娘の面影だった。


「感謝する、ブルッグ。後でたっぷりと報酬を支払おう」


 本当にこれでよかったのだろうか――ブルッグの胸に未だわだかまり続ける不安と疑念を、無邪気に犬とじゃれ合うシュナの明るい笑い声が塗りつぶしていく。


 処分されるはずだった仔犬の儚い命が助かり、凍った人形のようだった紅爵の娘は笑顔と感情を取り戻した。

 物語の結末としては、これ以上とない美談といえる。

 だからこれでよかったのだろう。


 たとえこの先、取り返しのつかないことになったとしても。


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