3-6.新しい未来_シュナ


 ルシアーノ城へ戻り、応接室にベルマンを呼ぶ。

 てっきり婚約者の家へ行っているとばかり思っていた末娘にこんな朝から呼び出され、いったい何事かと驚いていたベルマンは、応接室の扉を開けてさらに大きく驚く羽目になった。


「な……なんだ、いったい……?」


 それはベルマンにとって、あまりにも予想外な光景だった。

 シュナの隣にいたのはレトリーではなく、ベルマンも顔だけはよく見知っている、レトリーの第一従者の方だった。レトリーは二人のだいぶ後ろに立ち、用があるのはあくまでもこの二人なのだと暗に告げている。


 ますます、意味がわからない。

 シュナとシベリウス。この二人が、わざわざレトリーを差し置いてまで、ベルマンに面会を求める理由が皆目見当もつかなかった。


「お父様。大事なお話があります」


 緊張した面持ちで、シュナがそう話を切り出した。

 大きなテーブルを挟んで、片側にベルマン、反対側にシュナとウルクが向かい合って座る。ウルクとは反対側のシュナの隣には、椅子を一つ分空けてレトリーが座った。

 ベルマンの背後にはダークスが控えていた。マルチが香茶を運んできたので、シュナはそのまま彼女を自身の背後に控えさせてから、ゆっくりと口を開いた。


「先ほど、レトリー様と話し合い、私たちの婚約を解消させていただきました。私は、やっぱり、レトリー様とは結婚できません」


 シュナはそう言って、ウルクから一枚の紙を受け取り、テーブルの上に置いた。呆気に取られて口を開けているベルマンによく見えるよう、テーブルの上を滑らせてその正面に持っていく。

 それは、レトリー=イルカードとシュナ=ルシアーノの両名が、互いに婚約解消に同意する旨が簡潔に書かれた合意書だった。

 文末に、シュナのサインと拇印、そしてレトリーのサインと拇印が捺してある。


「……は?」


 ベルマンがレトリーを見る。大仰に肩をすくめてみせながら、レトリーは「そういうことになりました」と肯定した。


「……え?」


 ベルマンが状況を理解するのには、かなりの時間が必要だった。

 しばらく無言で、ベルマンはその紙をじっと見つめる。

 やがて香茶からすっかり湯気が立たなくなった頃になって、ようやく重い口が開かれた。


「契約を保証する証人のサインと役所の認印が足りないので、この証書は正式な文書の体裁になっていない。よってこれは受け取れない」


 やっぱりだめだったか、とウルクが小さくため息をつく。

 シュナは逆に、怒ったように語気を強めた。


「じゃあお父様が保証人になって、ここにサインをしてください。その後役所に行って判を捺してもらってきます」

「なにを……馬鹿なことを言っているんだ。いったい、何なんだ。何がどうなってる。婚約解消? そんなことがお前、許されると思うのか」

「許すもなにも、もう私たちには結婚する意思はないので、解消するしかありません」


 落ち着きなさい、とシュナにそう言って、まず自分が落ち着こうとするかのように、ベルマンは冷めた香茶を手に取った。


「何を言っているんだ……わけがわからない。解消して、それでどうする?」

「この人と結婚します」


 複数の音が鳴り響いた。

 ベルマンが香茶を吹き出し、ダークスが驚いて息を呑み、マルチがトレイを床に落とし、その様子を見ていたレトリーが思いきり吹き出した音だった。


「ば……馬鹿な」

「本気です」

「却下に決まってる」

「でしたら、この家を出ます」


 きっぱりと、シュナは言い切った。

 驚いたベルマンがシュナを見て――またシュナの隣で、驚いた顔をしてウルクもシュナを見た。


「シュナ、それは……」


 言いかけたウルクを押しとどめ、シュナは言葉を続ける。

 それは昨日、ウルクと話をしてからずっと、シュナの脳裏に思い浮かんでいた新しい未来の形だった。


 レトリーと婚約を解消し、黒爵こくしゃく位を得たウルクと結婚をする。

 そうして変わろうとしている未来の中に、まだひとつ、決定的に足りないものがある。


 シュナが欲しいのは――

 シュナが、本当に、手に入れたかったのは――


「お父様。わたし、この家を継ぐことはできません。わたしの持っている財産と地位と権利、継承し得る遺産や家督――それらをすべて、レトリー様に譲ります」


 今度はレトリーが香茶を吹き出す番だった。

 しかし、濡れたテーブルを拭う手はない。

 マルチも、そしてダークスも、汚れたテーブルを拭くことも忘れてただただ呆然とシュナの声を聞いていた。

 そしてそれは、ベルマンも、ウルクもまた、同じだった。


「貴籍を、抜けさせていただきます」


 レトリーに一つだけ感謝をしていることがある。

 それは、学校に行かせてくれたこと。

 学校へ行くことでシュナの視野は大いに広がった。とにかくたくさんの本を読み、平民の暮らしに明るくなり――そして「返爵へんしゃく」という言葉を知った。


 罪を犯したり、品位に悖る行いをしたりして、国王により貴族の籍を外されることを失爵しっしゃくという。

 それとは別に、貴族が、貴族でなくなる方法がもう一つ。それが返爵という制度だった。

 例えば平民の家に嫁いだり、養子に入ったり、あるいは手に職を得て職業人になったり。様々な一身上の理由により貴族自らが貴籍を返上し、市井に下り、平民として生きること。


 十五歳のシュナが漠然と思い描いていた家出の先の拙い未来が、現実の制度として存在すること。そして、その制度を使用する権利は貴族の誰もが等しく持っていることを、シュナは独学で調べて学んでしまった。


「だ……駄目だ。何を言っている……駄目だ!」

「駄目といわれても、もう決めたことですからそうします。権利の譲渡に関する書類は、後日正式に作成してお渡しします」

「駄目だ。やめてくれ。何をいっているんだ? 絶対に駄目だ」

「どうして駄目なんですか? 家を継ぐ者がいなくて困るのでしたら、レトリーを養子に取ればいいんです。私は全部レトリーに譲ります」

「なぜそうなる? 意味がわからない。レトリーを養子に? おまえがレトリーと結婚すれば済む話ではないか」

「それができないから、こうやってお話ししてるんじゃないですか。わたしはレトリーじゃなくて、ウルクと結婚したいんです」

「ウルク?」


 またベルマンが、何を言っているのかと呆気に取られて口を開けた。

 呆然としながら、シベリウスという名だと聞いていた青年に目をやる。目が合うと、少し困ったような顔をして、シルバーグレーの髪をした青年は小さく頷いた。


「……ウルク?」

「ウルクです。その節は、大変お世話になりました、ベルマン様」

「――――……ウルク?」

「はい」


 口で説明するよりも、ウルクの場合は、その目で見てもらうのが一番早い。

 ふ、と居合わせた誰もの視界から、ふいにウルクの姿が消え失せた。

 ガタン、と、ウルクが座っていたはずの椅子が後ろに倒れる音が響く。


 最初にマルチが悲鳴を上げた。

 怯えて固まる侍女の前をすたすたと大きな獣が四つ足で歩いて過ぎる。テーブルを迂回して反対側までたどり着くと、ダークスがはっと息を呑み、ベルマンは驚いて椅子から立ち上がった。


「ウルク……!」


 ぺこりとウルクが頭を下げる。そのままベルマンの足元に、許しを請うように深々と身を伏せた。

 ベルマンは声を失い、ただ、ウルクを見つめていた。

 シュナも立ち上がるとテーブルを回り、父の前、ウルクの隣へ歩み寄った。ふわふわの背中の被毛をいとおしげにそっと撫で、目の前のベルマンに丁寧に頭を下げる。


「ウルクは、ル・ガルという獣人だそうです。ルシアーノ城を出てからは、人型になり、レトリーの従者として生活していました。わたしは……シベリウスが、ウルクだと知り……どうしても、ウルクと生きていくことを、諦めきれませんでした」


 緊張に、声が震える。

 何と言えば伝わるのだろう。

 この、強い決意と、覚悟を。


「お願いします。ウルクと、結婚させてください」


 深々と頭を下げる。隣でウルクも同じように顔を伏せた。


 沙汰を待つ。

 婚約破棄の合意書を見せたときよりもさらに長い、張り詰めたような沈黙が、部屋に満ちている。

 やがて、重い空気を割ったのは、ベルマンの大きな吐息だった。


「そうか……ウルクか……」


 ぽつりと、そう言って、ベルマンが一歩、ウルクに近付いた。


「結婚の話は……今は、置いておく。おまえが貴籍を抜けるという話も、レトリーの件も、全部だ。今日、もう戦に発つのだろう。二人が無事に戻るまでは全部保留だ」

「お父様!」


 詰るような声を上げたシュナに、ベルマンの大きなため息が答える。


「わかってくれ。いきなりこんな話を聞かされて……すぐに対処できるわけがない」

「でも……」

「それよりも」


 言い募ろうとするシュナを制し、ベルマンはウルクの目の前で、すっと腰を落として膝をついた。

 シュナは驚いて、ベルマンを見た。

 ウルクも、驚いたような瞳で見上げている。

 貴族が――それもかなりの地位を持つ紅爵が、魔獣であり、人型をもってしても一介の騎士でしかないウルクの前で、わざわざ膝をついた、その意味は。


「ウルク。もう一度会えたら……おまえにずっと、謝りたいと思っていた」


 贖罪の声色が、静かに響く。

 ベルマンは、ウルクの水宝玉アクアマリンの瞳をじっと見つめて、その後祈るように深く頭を垂れた。


「あのときは、無理やり城を追い出すような真似をしてしまってすまなかった。いろいろと思うところはあれど、おまえは確かに、シュナの恩人だったのに――もっと他にやりようがあったのではないかと、そのことをずっと、後悔していた」

「お父様……」


 感極まったように、シュナは震える唇を手で押さえた。

 昨夜、ウルクと宿に泊まったとき、このまま二人で家出をしてしまえばいいのにと、いっときシュナは本気で考えた。

 早まらなくてよかった、思いつめなくてよかったと、今は心の底から安堵している。


 ベルマンから、この言葉を引き出せてよかった。

 ベルマンのこの言葉を、ウルクに聞かせることができて、よかった。


「本当に、すまなかった」


 ベルマンがそう言って、頭を下げる。

 ウルクはひと声、くう、と鳴いて、ゆっくりと静かに首を振った。

 あの日ベルマンを唆した張本人であるレトリーだけが、きまりの悪そうな顔をして冷めた香茶を口にしている。


 開け放した窓から、初夏のさわやかな風が通り過ぎた。木漏れ日のきらめきが窓辺の床に降り注ぎ、いつの間にか空のだいぶ高い位置に太陽が昇ったことを報せている。


 出立の刻限が迫っていた。






「無事に帰ってきてね」


 ルシアーノ城の門前で、見送りに出たシュナはウルクにそう言った。


「うん。大丈夫。必ず帰ってくるから、心配しないで待っててね」

「うん……」


 手に手を取り合い、別れを惜しむ二人の横で、くたびれた顔をしたレトリーは一人早々に馬車へと乗り込んだ。


「さっさと行くぞ」


 客席に座るなり大あくびをして目を閉じたレトリーに、シュナとウルクはくすくすと笑う。


 シュナとレトリーの婚約のこと。

 シュナとウルクの今後のこと。

 すべての問題は先送りにされて未解決のままだけれど、二人の心は互いにやるべきことを見定めて、すっきりと晴れて穏やかだった。


 これから、二人の戦いが始まる。

 ウルクはレトリーとの約束を果たすため、戦場へ。

 シュナはベルマンを説得するため、城へ。


 ――新しい未来はもう、すぐ手の届くところで待っている。


「じゃあ、行ってくるね」


 ウルクが馬車に乗る。

 扉の前で、シュナは今とかつての婚約者二人に向かってほほ笑んだ。


「行ってらっしゃい。ふたりとも、頑張ってね」


 穏やかに頷くウルクの横で、目を閉じたままレトリーが片手を挙げた。




 扉が閉まり、馬車が発つ。

 上がる砂煙の向こうに消えていく客車の影と、その向こうに広がる森の木立を、いつまでもシュナは見つめ続けた。

 首から下げたネックレスに付けられた、黄金色の鍵をぎゅっと握りしめながら。


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