エピローグ

最終話.シュナとウルク


 昨日の大雪で、街は新雪に包まれている。

 シヴァインの街外れにある動物屋『ブルーパーク』でも、古びた木製の柵の上にこんもりと積もった白銀の冠雪が、力強い朝の陽光をきらきらりと反射していた。


 ブルーパークでは多くの従業員を雇い、動物たちの世話に充てている。小屋の掃除に餌の準備にと店は毎日早朝から大忙しで、今日のように年に一度の祭りの日でも休日とするわけにはいかなかった。


 従業員の一人、トーイは牛舎への道のりを足早に駆けていた。今日は牛舎の餌やり担当が休みなので、自分が代わりに請け負うと言ったことをすっかり忘れていたのだった。そそっかしいのはいつものことだが、餌やりだけは忘れてはならない。みんなおなかをすかせているだろうな、と思うと申し訳なくて、トーイは寝癖の跳ねる短い髪をぴょこぴょこと振りながら、どたばたと牛舎に駆け込んだ。


「おはよう、トーイ」


 牛舎に明かりがついているのが見えたのでまさかと思ったが、予想通り誰かがトーイのかわりに牛たちに餌をあげてくれていた。

 ただ、その人物があまりに予想外だった。

 トーイは悲鳴にも似た大声を上げて、大慌てでその人に駆け寄った。呑気に朝の挨拶をしている朗らかなその人の手から、重い飼料を乗せた台車の取っ手をひったくる。


「おはようございます、シュナ様! えっどうしてここにいるんですか!?」


 顎のラインに沿うような、まるみのある長めのショートカットに細かい飼い葉をいくつもつけて、汚れた作業着に身を包んだ『元・ルシアーノの紅玉ルビー』は素朴な顔をして微笑んだ。


「昨日、チャチャが怪我をしたでしょ? 心配で、ちょっと様子を見にきちゃったの。問題なさそうでよかった。ついでに餌もあげておいたよ」

「ありがとうございます……いえ、しかしですね、シュナ様!」

「もう、『様』ってつけなくていいって、いつも言ってるでしょ。もう私も貴族じゃないんだから。もっと普通に仲良くしようよ」

「大変ありがたき光栄なお言葉で恐縮なんですが、ちょっとまってください。えっ結婚式、今日でしたよね?」

「そうなの」


 幸せそうにふにゃふにゃと表情を崩すシュナにあてられて、同じようにへにゃへにゃと表情をゆるませながら、トーイは残りの作業を代わる。


「時間は大丈夫なんですか? 準備は? てか、ほんとなんでこんなとこにいるんです? 旦那さんは?」

「まだ朝も早いから、ちょっとくらい大丈夫よ。それに旦那さんは――」


 自分で言いながら、『旦那さん』という言葉にまたふにゃりとシュナの表情が溶けた。当然それはトーイにも移り、特に笑いたくもないのにトーイもへにゃりと笑ってしまう。


「旦那さんって、ふふふ。すてきな響きね」

「はぁそうですね。それで、その旦那さんがどうしました?」

「そうそう、その旦那さんがね、まだ王都から戻ってなくて。結婚式もお昼からの予定だったんだけど、たぶん夕方くらいになるんじゃないかな」

「ええー! なんすか、それ! 結婚式当日に違う街にいるとか、なんなんすかそれ!」

「いいのいいの。お父様がね、せっかくだから爵位の授与も今日やるんだってきかなくて、無理やり王都に留まらせていて――」

「爵位の授与!? えっ旦那さん貴族様なんすか!? えっ? じゃあなんでシュナ様、今平民やってるんです?」

「ちょっとね、いろいろあって」


 心底驚いているというようなトーイの表情がおかしくて、飼い葉の後片付けを手伝いながら、くすくすとシュナは笑ってしまった。


 無事にノーラの大将が討たれ、戦が終わったと報せがあったのは、今から一月ほど前のこと。敵大将を討つという第一武勲を手に入れたのはレトリーだという。

 けれどその偉業がレトリー本人の力で成し遂げられたものではないことをベルマンは知っていた。そして、本当の第一武勲を称えるかわりに、ベルマン自らがウルクに黒爵こくしゃく位を与えることになったのだった。


 長らくシュナの返爵もウルクとの結婚も渋っていたベルマンだったが、シュナの決意はとても固く、またウルクに対する負い目がベルマンの中に確かに存在していたこともあり、最終的にはウルクの武功が決め手となってベルマンが折れた。


 それからは、慌ただしい日々が続いた。


 大星祭だいせいさいに予定していたレトリーとの結婚式は、そのままウルクとの結婚式に変更となった。一般的には決して外聞のいいことではないので、式は公にせず内々で行うのみだが、それでもシュナには破格の幸せだった。


「でも、夕方からっていっても、花嫁さんなんだからいろいろ準備とかあるんじゃないんですか?」

「そうかなぁ」


 片付けを終え、二人で牛舎を出る。

 すると、ちょうど道の向こうから血相を変えて走ってくる一人の女の姿が見えた。


「シュナ様ー!」

「あ、マルチ。おはよう」

「おはようじゃありません!」

 かつてルシアーノ城で侍女をしていたマルチは、今はシュナと共に城を出て、シヴァインの街でシュナの家の家政婦として働いている。ちなみに住み込みではなく、いつの間にそういう関係になっていたのか、夜にはセッターの家に帰っていく。


「ああもう、家にいらっしゃらないからこんなことだろうと思ってましたが、よりにもよって牛舎ですか! ああにおいが……ああぁこんなに葉っぱのごみが」

「ごめんね。もう着替えるの?」

「お着替えだけではなくてその前にもたんまりとやることがあるのです。さあ帰りますよ」


 マルチはシュナの手を取り、足早にブルーパークの丘を下りていく。

 トーイは羊小屋の手前で残していた仕事を思い出して立ち止まり、かつての侍女であり、今は身分を等しくする大切な友人と笑いながら歩くシュナの後ろ姿に手を降った。


「行ってらっしゃい。お幸せに!」

「ありがとう! チャチャの怪我、ちゃんと見てあげてね」

「はい! おまかせください」


 ブルーパークの店内に入ると、そこでも何人もの従業員が忙しなく立ち働いている。マルチに連れられたシュナの姿を見つけると、誰もが手を休めて笑顔になった。


「お休みだと思っていたのに、本当にいらっしゃっていたのですか」

「今日結婚式なんですよね?」

「たいへんだ、早くお戻りください」


 かつては貴族令嬢だったシュナがここで働きたいと願い出てきたとき、従業員たちは皆驚き、戸惑った。けれど誰より動物が好きで、その美しい顔や手を泥土や糞尿で汚すことを全く厭わずに真面目に働くシュナのことを、いつしか誰もがあたたかく迎え入れるようになっていた。


 そしてそれは、ブルーパークの店のみならず、シヴァインの街全体にも起きている変化だった。


「あっ、シュナ様! おはようございます」

「ご結婚おめでとうございます」

「今日が結婚式なんですよね? おめでとうございます」


 この街に、シュナのことを知らない者はほとんどいない。

 麗しい美貌の領主の娘としてもともと有名だったのに、そんな彼女が一人で街で暮らし始めて、当初は誰もが仰天した。

 けれど誰もの心配を他所に、シュナは日々仕事に打ち込みながら慎ましく暮らし、たまに既知の仲である宝石商の娘と遊び、なんとも穏やかに街の暮らしに馴染んでいった。


 通りを歩けば、顔なじみの誰もがシュナに声をかけ、祝いの言葉をかけていく。シュナは笑いながら、ひとりひとりに礼の言葉を返していた。


 まだ朝も早い時間だが、大通りには人影が多い。

 誰もがその手に紺色の袋を持っていて、この日のために街中にいくつも造られた、大小様々な星の形を模した雪像に――その上に新たに降り積もった冠雪に、砕いた石の欠片を振り撒いていた。


 大星祭が、始まろうとしている。

 年に一度の特別な祭り。


 そして――

 シュナとウルクの、一生に一度の、特別な日。






 バルコニーから見下ろす眼下に、星空のレプリカが瞬いている。


 いつもは州城の窓から、庭園に撒かれた小さな銀河を眺めているだけだったシュナは、シヴァインの街全体を使った大規模な宇宙のアートに、そのあまりの荘厳な美しさに息を呑んだ。


「綺麗だね。夢みたいな景色だ」


 シュナの隣に立ったウルクはそう言って、新しい家の白いバルコニーの柵に手を置いた。

 シヴァインの中心地から少し外れた住宅街の一角にある、古くて小さな、明るい色の煉瓦で建てられた家。元々王都の貴族の別荘だったというその家を、シュナとウルクの結婚祝いにと買い取ってプレゼントしてくれたのはレトリーだった。


 レトリーは、出世の功で自らの紅爵位を賜る予定だったがそれを断り、シュナの後を継いでルシアーノ紅爵家に養子に入っている。

 結婚式にこそ出席しなかったが、後日改めてお祝いに来るというから、ウルクとシュナは楽しみにそれを待っていた。


「本当に。いいお天気になってよかったね」


 シュナが言うと、ウルクも頷いた。


「よく晴れてるね。本物の星空も、同じくらい綺麗だ」

「知ってる? 大星祭の日はほとんど晴れなんだよ。雪とか曇りの年は滅多にないの」

「そうなんだ。知らなかった」

「奇蹟みたいだよね。だからこの国の人はみんな、本当にヌイエ様が地上に下りてきてるんだって信じてるんだ」


 シュナは鼻の頭を赤くしながらそう話した。

 吐く息は白い。

 銀重石は零下の空気に触れると光る。砕かれた鉱石がキラキラと輝く夜は幻想的で美しいが、冴えた夜風はそのぶん身に染みるほど寒かった。


「シュナもそう信じてる?」


 厳かな結婚式を終えて、二人とも簡素な夜着パシマに着替えていた。シュナは厚手の外套コードを羽織っているが足元は無防備にも素足と室内履きスリパスで、先ほどから何度もくしゃみをしている。

 ウルクは尋ねながら、冷えたシュナの身体を後ろから抱きしめて、自身の纏う外套の中に引き込んだ。あたたかい体温に包まれて、ほっとシュナが息をつく。足の先まで密着した身体にドキドキと鼓動を高鳴らせながら、シュナは肩越しにウルクを振り仰いだ。


「本当のこと言うと、昔はあんまり信じてなかったの。でも、今は信じてる。ウルクとの結婚を祝福してもらえるみたいで、嬉しい」


 シュナがそう言うと、ウルクは、にっこりと穏やかに微笑んだ。


「そうだね」

「ウルクは? そういうの、信じてるの?」


 問われて、ウルクは脳裏に、結婚式で訪れた教会の様子を思い浮かべた。


 ウルクが教会という場所に足を踏み入れたのは、今日が人生で初めてのことだった。今まで信じる神を持たず、信仰という言葉にもあまり馴染みがなかったウルクは、こんな自分が教会で結婚式など挙げていいものかとずっと不安に思っていた。


 けれど、実際に教会の扉を開けて驚いた。


 真っ白な壁に、真っ白な円柱。真っ白な半球型の高い天井は上にいくほど狭まり、その途中で壁沿いをぐるりと一周する大きな窓になっていた。窓には青のグラデーションを基調とした色硝子がモザイク状に嵌め込まれている。大祭壇の後方の壁には星の女神のレリーフが、まるで夜空を戴くように両手を大きく広げた形で彫り込まれていた。


 教会の中は、美しく、厳かで、入った瞬間に心が洗われるようだった。そうして心を白く塗り替えた者であれば、たとえそれが無神論者であっても魔物であっても関係なく、ただの夜空の下に立つ一つの存在として、誰でも等しく迎えてくれるような気がした。

 たったのそれだけでウルクは、なんだか自分の存在が許されたような気になったのだった。


「僕も、そうだったらいいなって、思うよ」


 ウルクの記憶は、ただの狼の子として生まれ、ただの狼の子にはなりえなかった自分を自覚したところから始まっている。


 獣のにおいが薄く、ふいに人型に変身を繰り返す奇妙な子どもを、両親はうまく愛せなかった。群れから置いてけぼりになりがちだった小さな子どもは、ある日本当に置いていかれてしまった。

 盗賊に拾われ、無理やり首輪を付けさせられ、麻袋に乱暴に突っ込まれて動物商に売られる頃になり、ウルクはだんだんと自分の置かれた境遇を悟るようになっていた。


 動物とは違う自分。人間とは違う自分。どこにも属さず、受け入れてもらえない。どうしてここにいるんだろう。どうして、この世界に、生まれてきてしまったんだろう。

 毎日毎日、そんな自問を繰り返して時間をつぶした。


 反応といえば唸るか吠えるか噛み付くか、それ以外のときは愛想の一つもない痩せた仔犬はいくつかの動物商の間を転々とし、『ブルーパーク』に拾われたときにはすっかり心を閉ざしてしまっていた。


 ――そして、そこで、シュナに出会った。


 磨かれて飾られた仔犬ではなく、痩せて汚れてみすぼらしい、愛想のない仔犬の前でシュナは足を止めた。そして、ウルクと同じ、さみしいにおいを纏いながら、そっとウルクの頭を撫でた。


 ウルクにとって、それは。

 まさに、生まれて初めて差し伸べられた、救いの手だった。


「だいぶ冷えてきたね。もう中に入ろうか?」


 ふる、と小さく肩を震わせたシュナの身体をぎゅうっと抱きしめて、ウルクはそう言った。

 シュナはひとつ頷いて、外套のポケットから小さな紺色の袋を取り出した。


「この石、教会からお土産にもらったの。最後に撒いていかない?」

「うん」

「あのね、『祈日いのりび』に石を撒くときは祈りとか願いを込めるの。石にこめた想いを、明日の『祝日いわいび』に女神様が拾い集めて叶えてくださるんだって」


 そう言ってシュナは、自分の手のひらの上に細かく砕かれた銀色の粒を出していく。ウルクの大きな手のひらの上にも砂のような粒をさらさらと出して、二人でバルコニーの端に身を寄せた。


 二人同時に、ばっ、と腕を伸ばす。

 振り撒かれた銀色の粒が夜空に瞬き、はらはらと落ちる。小さな庭にいくつも造られた星型の雪像が、新しい星の欠片を受けて、ふわんと淡く輝いた。


 ぱんっ、と固い拍手の音が鳴る。シュナが顔の前で両手を合わせ、目を閉じて頭を下げていた。

 ウルクも、それに倣う。

 ぱんっ、と両手を打ち合わせ、目を閉じた。


 ウルクの願いは、今も昔も、変わらない。

 おそらくはこの先も、一生涯、ただ一つだけ。


「ねえねえ。ウルクは何をお願いしたの?」


 上目遣いにそう尋ねてくるシュナに、微笑んで、ウルクはその身体を正面からぎゅうっと抱きしめ直した。


「シュナは?」

「えー。恥ずかしい」

「えっ、恥ずかしいお願いなの? 何?」

「違う違う、言うのが恥ずかしいってこと!」


 ばか、と言ってくすくす笑いながら、シュナもウルクの広い胸にぎゅうっと顔を押し付けた。

 ウルクはシュナの後頭部に手のひらを回すと、知らない間にこんなに短くなっていた髪に指を絡ませ、慈しむように撫でながら、その頭に甘えるように頬をすり寄せた。


「僕はね」


 脳裏に、遠い昔に聞いた、シュナの言葉が甦る。


 ――ウルクは、どこにも行かないでね。ずっと一緒にいてね。


 幼い頃に交わしたシュナとの約束。その、たった一つの約束が、今でもウルクの心をとらえて縛っている。


 他に望むことは何もない。

 いつまでも、これからも――


「僕は、『ずっとシュナと一緒にいられますように』って、祈ったよ」


 新しいせかいの、新しい神さまへ。

 願わくば、これから先は、永遠に。

 あのとき交わした約束を、守り続けていけますように。





 ― Fin. ―






ここまでお読みいただきありがとうございました!

応援や★などとても嬉しかったです!


感想などもお待ちしてます!

またいつか次の作品も読んでいただけたら嬉しいです(・v・)ノ


--- 春野うた子




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お嬢様と犬 春野うた子 @harunoutautai

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