3-5.新しい未来_ウルク
「まさか、一睡もしていないんですか? 出陣前ですよ」
翌朝。
ウルクは衛兵の目をかいくぐって裏口からイルカード家の館へ入り込むと、大胆にも直接レトリーの居室に忍び込んだ。
レトリーを見るなり呆れた顔をしてそう言ったウルクを、濃い隈を携えた生気のないレトリーの瞳がじろりと睨む。
「……お前ら……よくのこのこ俺の前に顔を出せたな……」
テーブルの上には水差しとグラスと何本もの空き瓶が転がっており、部屋の中は呼吸をするだけで酔いそうなほど酒の臭気が濃い。
テーブルの横のソファにだらしなく腰を掛け、レトリーは青白くやつれた顔で、手に持っていた小瓶をぐいっとそのまま煽った。
ウルクは窓辺に近付くと、天鵞絨のカーテンを開け放ち、ゆるやかに明るみはじめた早朝の光を取り込んだ。ついでに朝露に濡れる窓も開け、こもった空気を入れ換える。
「レトリー。ごめんなさい」
その横でシュナはレトリーの元へと近付き、目が合うなりその頭を深く下げた。
「……おはよう、シュナ。今さら何しに来たんだ? ああ、約束をすっぽかされた愚かな婚約者の間抜け面でも笑いに来たのか。それとも俺のおかげでシベリウスと情熱的で濃密な夜を過ごせた礼でも言いにきたのか?」
嫌味たっぷりにそう言うレトリーの手から、ウルクは酒瓶を取り上げてため息をついた。
「まだ何もしていませんよ。それより、顔でも洗ってきたらどうです?」
「うるさい。何もしてないって、なんだよ」
「そのままの意味ですよ」
ウルクは水差しの水を勝手にトレイに注いでその辺にあった
ため息をつきながらそれを受け取り、レトリーが大人しく顔を拭く。
その様子を見ていて、なんだかシュナは呆気に取られてしまった。
レトリーとウルクが話しているところを、今までは、主人と従者という立場上のものしか見たことがなかった。そこではウルクは影のように黙ってレトリーに従い、最低限のことしか話さない。そんな二人しか見たことがなかったから、てっきり、そんな関係なのだと思っていた。
けれど任務外の時間にプライベートな空間で話す二人は、もっと気安くて、打ち解けていて――なんだか、主従関係にはあるものの、まるで心を許した友人のようにも見えた。
「えっ何もしてないって何。えっ意味わからないんだけど。え、じゃあ何、どこで何やってたわけ?」
「まあ連れ込み宿には行きましたけど」
「行ったんじゃねえか」
「他に泊まれそうなところがなかったんですよ。でもまずはレトリー様と、しっかり話してからと思いまして」
ウルクはそう言うと、レトリーの前で膝を付き、そのまま両手と額まで床につき、深々と全身全霊で頭を下げてこう言った。
「レトリー様。この度のこと、大変申し訳ございませんでした」
「まったくだよ」
対するレトリーは、容赦がない。長い足で、ウルクの頭を蹴りつけた。
シュナがとっさに止めようとするが、男同士の会話は続いている。蹴られながら、ウルクは少しだけ顔を上げた。なおも上げた顔に蹴りが入る。けれど少しも効いているようには見えないので、おそらくは蹴っているふりで、きちんと手加減はされているのだろう。
「ウルクであることを黙っているという、レトリー様との約束も、破ってしまいました」
「わかってるよこのバカ犬。おまえがシュナを送っていった日から、どうせいつかこうなるだろうと思ってたよ。けど、もう、いい。どうだっていいよ」
レトリーはひとしきり暴れると、最後に顔を拭った手巾をウルクの頭に投げつけて、どっかりとソファの背もたれに身を投げるように座り直した。手巾がウルクの髪を濡らし、びちゃりと音を立てて床に落ちる。
「どうせこのあと戦争で死ぬんだ。死んだら結婚もできないし
相当に酔ってもいるのか、世を捨てたような悲嘆が止まらない。ぐちぐちと文句を言い続けるレトリーに、そっとウルクが割って入った。
「じゃ、取り引きしましょう、レトリー様」
「は?」
渾身の謝罪はもう終わったのか、すくっとウルクは立ち上がった。そのまま部屋の中を勝手知ったるようにすたすたと移動して、本棚のそばに置かれた小棚からペンとインクを手に取り戻ってくる。それらを空き瓶やらグラスやらで雑然と汚れたテーブルの片隅に置いて、最後に懐から一枚の紙を取り出した。
「これにサインしてください。あなたとシュナの、婚約解消についての合意書です」
「ハァ?」
いきなり何言ってんだバカ犬、とレトリーの顔に書いてある。あまりにあっさりと放たれたその言葉に、咄嗟に理解が追い付いていないようだった。シュナも同じようにぽかんとしてしまった。いきなり何を言っているのだろう。
けれど二人のそんな視線を受けて、ウルクは逆ににっこりと笑ってみせた。
「サインしてくれれば、次の戦であなたを助けます。前回あなたが負けて取り逃がしたノーラの大将を、私が必ず仕留めてみせます」
ウルクが言う。
ぴく、とレトリーの眉が跳ね、目つきが据わった。
「バカを言うな。お前は俺の従者だろ。取引きなんかしなくても、相応の働きをして俺を助けろ」
「嫌です。応じてくれないのなら、普通の従者として普通の働きをするまでです」
「おい!」
「レトリー様。酔っぱらっているところ恐縮ですがよく考えてください。まず普通に前線に送られたらあなたは弱いので確実に死にます。そしてあなたが死ねばシュナはあなたとの結婚から解放されるわけですから、これは私にとっても大きなメリットになります」
何の感情もこもっていないような冷淡な声が、逆にウルクの静かなる怒りを表しているように、シュナには聞こえた。レトリーもそれを感じ取ったのか、すっかり口を噤んで黙り込んでしまった。
二年前の、あの冬の日。
シュナとウルクのささやかで幸せなルシアーノ城での日常を、一瞬にして奪い取ってしまったのがレトリーだった。
レトリーがシュナをルシアーノ城へ送り届けていくのを、ウルクは冬の森の中、じっと佇んで眺めていた。あたたかい場所から、独りきりで寒空の下へ投げ出され、挙句大切な人まで奪われて――それでもウルクは、自らに具わった牙を決して誰にも向けなかった。
利口で、穏和しい、聡明な獣は、自分が牙を剥くということがどういうことなのかを、ちゃんと理解していた。
怒っていなかったわけではない。怒れなかったのだ。シュナの立場を害するようなことはできなかった。それにより被る不利益をウルクはすべてわかっていて、だから怒りを表せなかったのだ。
今日このときまで、ずっと。
「レトリー様。シュナを、返してください」
それは、もともと、ウルクと共に在ったものなのだ、と。
そんな言い方を、ウルクはした。
レトリーのものではない。レトリーは奪っていっただけ。だからこれは正当な主張なのだと、ウルクはそう言っている。
レトリーは、目を閉じ、長くため息をついた。
あと少しで、すべてが、うまくいくはずだったのに。
――それとも最初から、いつかは、こうなる運命だったのだろうか。
「……一つ聞く。俺がここにサインすれば、お前は本当にノーラの大将を倒してくれるんだな?」
ぱ、とシュナは顔を上げた。ウルクも同様に顔を上げてレトリーを見た。
「はい。地の果てまでも追いかけて、確実に討ち取るまで帰りません」
「ただお前が討つだけでは駄目だ。まずお前は俺の従者として、俺を守ることを第一優先にしろ。その上で大将を討つ。あと、大将を討ち取った手柄は俺がもらう。俺が大将を倒したと周知できる形で討つんだ」
「注文が多いですね」
ウルクは苦笑して、レトリーにペンを手渡した。
「わかりました。必ず、第一武勲をあなたの手に」
レトリーが、ペンを受け取る。
ウルクに示されるまま、一枚の紙に、さらさらとペンを滑らせる。
信じられない、夢でも見ているような心地で、シュナは黙ってその様子を目に入れていた。
「第一武勲か、悪くないな。そのくらいあれば一気に将校までいって、紅爵位だってもらえる。くそ――それで手を打ってやるか」
「そうそう、よくわかってるじゃないですか。紅爵になったら、私にも黒爵位をくださいね」
「はっ、やだね! 犬が貴族になんかなれるわけねーだろバーカ。死ぬまで俺の従者として平民のままコキ使ってやる」
「そのときは遠慮なく、大将を討ったのは私だと暴露させてもらいますね」
ウルクとレトリーはそう言い合って、剣呑な視線を交換し合い――そして、げらげらと二人で笑い出した。
――なんだ、仲が良かったのか。
そう思うと、ふいに身体が軽くなった気がした。
レトリーに対して長く抱いてきた憎しみや嫌悪感が、皮肉なことに婚約が解消されたこの瞬間に、はじめて心から消え去った。
レトリーが、ただの心の弱い一人の青年として目に映る。
そんな人が、ウルクを――人々から、悍ましい魔物と忌避されてきた巨大な獣を、その存在を当たり前のように受け入れ、差別なく友人として接している。
そのことが、シュナには何より、嬉しかった。
「じゃあ、私たちはこれからルシアーノ城へ向かいます。出立は午後になりますから、レトリー様はそれまで少しでもお休みください」
レトリーのサインと拇印の捺された証書をしまい込むと、すっかり従者の顔に戻り、ウルクはそう言って立ち上がった。
すると、レトリーも同じように立ち上がった。
「まあ、待てよ。ルシアーノ家に行くなら一緒に行く。俺とシュナの婚約破棄の話なんだから、俺も行った方がいいだろ」
「私とシュナの結婚の話ですけど」
「俺とシュナの婚約の話だよ」
また仲良く言い合いの喧嘩をしながら、レトリーはそのままシュナの方へとやってきた。
「……レトリー。ありがとう」
「礼なんて言われても、嫌味にしか聞こえないけどな。まあ、今までそこそこ楽しかったよ。やっぱり犬なんか嫌だって思ったら、いつでも俺のところに戻っておいで」
相変わらず飄々とした軽薄な笑みで――ほんの少しだけその裏に、寂しそうで、くたびれた感情を乗せて、レトリーは最後に右手を差し出した。
今まで、一度も自ら取ることのなかったその大きな手に。
シュナは、最初で最後の手のひらを重ね、はじめて心からレトリーに対してほほ笑んだ。
「わたしも、この一カ月、そこそこ楽しかったです」
「そこそこかよ」
「そこそこです」
軽い掛け合いに、二人で笑い合う。
背後では、今さら仲良くなってどうするんですか、と呆れた顔でウルクも笑っていた。
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