3-2.ウルクの首輪(2)
つかまれた手を引き抜こうとがむしゃらに動かすと、手の位置が変わり、腕に固い何かが当たった。
それは、絶対にシュナの手を離すまいと追いかけてきた、シベリウスの手首に巻かれた腕輪だった。
手首よりわずかに大きなサイズで、引き締まった筋肉の厚い前腕の端に、引っかかるように巻き付いている。腕輪なんて、していただろうか。違和感に思わず意識が逸れて、頼りないランプの明かりの中で目を凝らす。
そんなシュナの耳に、固いシベリウスの声が届いた。
「早まってはいけません。そんなことで、大事な身体を傷つけてはいけない。あなたは、騙されているんですよ――また、あのときと、同じように」
「――――」
その、ひとことに。
息を呑んで、シュナは、顔を上げてシベリウスの顔を凝視した。
なんのことを言っているのだろう。
いや――そんなの、一つしかない。
では、なぜ。
シベリウスが、そのことを知っているのだろう。
「……どうして」
「ウルクは死なない。戻ってきます、必ず。だから、どうか早まらないでください」
昨日の夜、庭園でレトリーと話したとき、シベリウスもそこにいた。声など聞こえないほど遠くに控えていたと思ったが、しっかり聞いていたのだろう。シュナの不安を正確に読み当てて、シベリウスはそう言った。
けれど、そんな言葉一つで、何が変わるというのだろう。そんな耳触りの良い言葉だけ並べられても、今のシュナには気休めにしか聞こえなかった。
首を振る。
手を引き抜こうと動かす。
――腕輪がこすれる。
「前線に行くって聞きました。わたしにはよく、戦のことはわからないけれど……それがとても危険なことだっていうのはわかります。別に、わたしは、レトリーに騙されて部屋に行くわけじゃないんです。全部わかっているつもりです。その上で、ウルクを連れていかないでほしいって、お願いをしに行こうと思ってたんです」
「……え?」
シュナが言うと、その言葉は予想外だったのか、シベリウスの手からわずかに力が抜けた。
どういうことですか、と問うてくる低い声に。触れている手に。そして何よりも、そもそもの、この会話の意味自体に。ドキドキ、鼓動を早めながら、シュナは言葉を重ねていく。
「帰ってこないかもしれないって、そう思うだけでも耐えられないんです。だからもう、ウルクを、返してもらいたい。そのためなら何だってするつもりでここへ来ました」
シュナの言葉を聞いて。
シベリウスから、深いため息が滑り落ちる。
「……だめです。あの男が、そんなこと聞くわけない」
主人に対して、こんな言い草をするとは思わなかった。思わずぱちりとまばたきをするシュナの手に、再び、ぎゅっと力がこめられた。
顔を上げる。目と目が合う。
澄んだ水のような、晴れた日の空のような、くもりのない水色の瞳。いつの間にか、その表情までくっきりとよくわかるくらい、目が暗闇に慣れてきている。
シベリウスが、やわらかく微笑む。
繋がれた手と手の間で、「黒い」腕輪がむき出しの素肌に触れた。
視線を下げる。
よく鞣した、なめらかな――革の腕輪。
「これ……」
驚愕の色もあらわに、シュナはその腕輪に触れ、じっと見つめる。そんなシュナに、手を上げ、よく見えるように腕輪を示しながら、シベリウスは穏やかな口調で言った。
「……でも、そう思っていてくださったんですね。それは、嬉しいです。もう、私のことを、諦めてしまわれたのかと思っていました」
「これ……うそ……どうして……」
何を言っているのだろう。
何のことを言っているのだろう。
私のこと――ウルクのこと――いったい、誰の話をしているのだろう。
「覚えていますか、この首輪」
シベリウスが尋ねる。
それが、腕輪ではなく、かつてこんなにも小さな仔犬の「首輪」だったことを――シベリウスも、知っている。
「う……ウルク……?」
「はい」
半信半疑の呼びかけに、力強い声が返事をする。
「……ほんとうに、ウルク?」
「はい」
信じられない。
信じられなくて何度も問うのに、そのたびに同じ、強い肯定が返ってくる。
もう一度、尋ねようとシュナが口を開いた――そのとき。
「……もう、時間がありません」
ふいに、そうシベリウスがつぶやいて、ランタンの明かりを消してしまった。
突然、視界が真っ暗な闇に覆われる。
繋いでいた手を引かれ、――身体が、あたたかい腕に、ぎゅうっと抱きしめられた。
「――シュナ」
シベリウスが――ウルクが、名前を呼ぶ。
ああやっぱり、その声を、昔どこかで聞いた気がする。優しく穏やかなその声で、シュナ、と呼んでもらったことを確かに覚えている。
「ウルク……」
シュナは思わず、大きな身体に自らも腕を回して、きつく抱きしめた。
あたたかい身体がぶつかりあう。ぎゅう、とお互いきつく力をこめる。
確かな感触。かたい身体。雨の香りの中にまじる、冬の樹々のような、凛とした大地のにおい。
白銀の髪。水色の瞳。その奥に宿る、あたたかい、慈愛に満ちた優しいまなざし。
どうして、今まで気付かなかったのだろう。
わかってしまえば、シベリウスは、あきれるくらいにウルクそのものだった。
「シュナ。話したいことがたくさんあります。今日はこのまま、私についてきてくれませんか」
耳元に落ちる、低い声。
シュナは束の間、返事に迷う。
「……わたしだって、話したいことも聞きたいこともたくさん、あるけど……」
「外がだんだん騒がしくなってきています。シュナを探しているのかも」
「うそ」
シュナの耳には、まだ何も聞こえない。けれどウルクが言うならきっとそうなのだろう。
不安げに顔を上げると、ウルクもわずかに身体を離し、正面からシュナの顔を覗き込んだ。暗闇の中、ほのかに捉えた輪郭が思いのほか間近にあって、ドキンとひとつ鼓動が跳ねる。
「ここを出ましょう」
「でも……待って、わたし、レトリーになんて言えば」
「もう行く必要ないでしょう」
「でも、でも、ウルク……行かないと、わたし……」
「行かなくていい。行かなくていいんです」
きっぱりと、そうウルクは言い切った。
シュナはまだ少し混乱している。あまりにも当初の予定と異なる事態に、何をどうすればいいのか全くわからなくなってしまった。
レトリーのところへ行かなければ、ウルクに会えないはずだった。思わぬかたちで、こうしてウルクには会えてしまったわけだけれど、レトリーのところへ行く目的はもう一つあったはずだ。ウルクを返してもらって、戦場に行かせないこと。けれどそれも、そもそもウルクがシベリウスだというのであれば、返す返さないの話でもないわけで――。
黙り込んでしまったシュナの耳に、かすかに、人の話し声が聞こえてきたのはそのときだった。
「やっぱり、まだ来てないんじゃないか?」
「しかしメイドがルシアーノ家の馬車を見たと」
「確かに、遅いなとは思っていたけど――」
セッターと、誰か別の男の話し声だった。
さっと緊張して固くなったシュナの身体が、次の瞬間、ひょいとたくましい腕に持ち抱えられた。
「きゃっ」
「すみません、失礼します。つかまっていてください」
背中を横に倒され、バランスが大きく崩れる。とっさに腕を伸ばした先は、ウルクの肩と首だった。膝の裏にもうひとつ、硬い腕の感触が差し込まれる。真っ赤になって慌てるシュナを横抱きにかかえ、ウルクは全く重さなど感じていないように軽やかに小屋を出た。
そのまま壁伝いに小屋の裏手へと移動し、庭木の影に身を寄せる。
すると、すぐに厩の方からいくつかの人影が現れて、ウルクの小屋へ入っていった。
「ここにはいないな」
「いや、待て、傘がある」
聞こえてきた声に、びく、とシュナが肩を震わせる。ウルクはぎゅっと抱きしめる腕に力を込めて、大丈夫、というようにシュナの背中をさすった。
「本当だ、濡れてる。ということは、やっぱり一度ここへ来たのか」
「シベリウスはどこ行ったんだ? 一緒に探させよう」
「俺が詰め所を見てくる。おまえはレトリー様に知らせるんだ」
「了解」
そう短く会話をして、セッターと男が分かれていく。
シュナは不安でいっぱいになった顔でウルクを見上げた。
「どうしよう……」
「逃げましょう」
まるで最初からそう決めていたかのように、ウルクの声には迷いがない。
「でも……どこから……どうやって」
「シュナ。こんなことを頼んでしまって申し訳ないのですが、服を全部持っていただけますか」
「服?」
何を言っているんだろう、と、疑問に思うシュナの身体が、ふわりと地面に下ろされる。
暗闇の中、よく見えないけれど――突然、ウルクの姿が消えた。
「えっ!?」
驚いて目線を下げると、そこに――今までウルクが立っていた場所に、大きな大きな獣が立っていた。
「ウルク!」
小声で叫び、その身体にしがみつく。
何がどうなっているのか、さっぱりわからないけれど、やはりシベリウスはウルクだった。
わう、と小さな声で、ウルクが鳴いた。獣の姿のときは、人の言葉は喋れないのだろう。けれどシュナには相変わらず、ウルクの言っていることが手に取るようにはっきりとわかる。
濡れた地面に落ちてしまった騎士服を慌ててすべてかき集め、シュナは伏せたウルクの背中に飛び乗った。
「――あの日と同じだね」
くすりと笑いながらシュナがそう言うと、ウルクも同じことを思っていたのか、ひと声鳴いて、ぴこぴこと耳を動かした。
何もかもが、本当に、二年前のあの日と同じだった。
くすぶる天気。寒い夜。ウルクの前脚に巻かれた、窮屈な黒い首輪。シュナは黄金色の鍵を取り出して、ぎゅっと握った。
あの日は、うまくいかなかった。
――あれから二年。
ウルクが地を蹴り、音もなく庭木の間をすり抜けて走る。シュナは身を伏せ、ウルクの背中にしがみついた。
前回の失敗をよくふまえ、何の痕跡も残さず、誰にも会わず、どんなに身体が冷たくなっても決して立ち止まることもなく、ふたりは密やかに夜の森を駆け抜けた。
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