第2話 マーライオンのマー

 男達は詰め寄って来るや否や……いきなり直樹の胸ぐらを掴み上げると顔をグッと近付けた。その表情には鬼気迫る物があり、そのあまりの気迫に直視する事すら叶わずに視線を横へと反らす事で精一杯の抵抗をしている直樹。


「おい、オヤジ。今、ここに女が逃げ込んできただろ?どっちに行った?」

「……………」


「テメェ何を知らばっくれてんだよ。はよ教えろや」


 明かに住む世界ジャンルの違う人間。その眼差しは鋭利なナイフの様に心をえぐり、直樹の額からは雨なのか汗なのかわからないほどの水滴が滴り落ちていた。

 

 先程の警察官の話だと最近この付近で通り魔事件があったらしい。もしかしたらこの男達も関わりがあるかも知れないと思うと恐怖に身震いした。


 暴挙暴行、拉致監禁、脅迫殺人……考えれば考える程に思い浮かぶ最悪なシナリオの数々。


「…………」


 出来る事ならこんな奴らとは関わりたくない……今すぐにでも逃げ出したい。そんな状況だったのにも関わらず彼が留まったのは追われてる女性の事を思っての事だった。


 その場でただ呆然と立ち尽くしていた直樹は一握りの勇気を振り絞り、震える指を抑えながら女性のいない方の道を差した。


「本当だろうな?もし嘘だったらテメェぶっ殺すからな」


 もはや閃光と言っても過言では無い程に尖ってゆく眼光。入り混じる重圧力プレッシャー……直樹の精神はついに限界点へと達した。



『恐怖感の麻痺』


 人は許容を超える恐怖に触れると防衛本能から感覚が鈍くなる習性があるらしい。先程まで震え上がっていた直樹だが、今は何故か震えも止まっていた。


 冷静になってみれば20代も前半のチンピラ達……こんな年下共に睨みつけられ、胸ぐらを掴まれ、そして脅されている。現状理解した直樹は腹の底から込み上げて来るものがあった。そう、込み上げて来るものが……


 そして込み上げて来たものが絶頂ピークへと達した時、それは一気に爆発するのだった。



泥酔後の悲劇マーライオンのマー



「おえぇぇ……うえぇぇ……おえぇ……」


 泥酔による吐き気に加え頸部圧迫けいぶあっぱく、男達の強い精神攻撃ストレス重圧力プレッシャーが合間って直樹は嘔吐した。


 その見るも無残なグロテスクは胃酸とアルコールが入り混じり、何とも言えない悪臭を放っている。目の前に広がる悲惨な光景に……目を背けたくなる様な悪魔の臭いに……男達は焦っていた。


「うわっマジかよ、コイツ。いきなり吐きやがって。うえっ……くせっーな」

「このゲロオヤジがマジ死ねよ。おいさっさと行こうぜ。ここいたらゲロ臭が移っちまうよ」


 逃げるようにその場から立ち去る男達。その様子を見て安心した直樹はただ力なく、クタクタと崩れ落ちるのであった。すると先程の女性が出てきて心配そうな面持ちで直樹を覗き込んで来るのだったが……



「あのぅ……大丈夫ですか?」

「はぁ……はぁ……だっ大丈夫です。お見苦しい所を見せて、すみませ……えっ?」


 目と目が合った瞬間……直樹の世界は時を止めた。整った紺色のブレザーに黒いチェック柄のミニスカート、深紅のネクタイ……



 ――そこにいたのは『一人の女子高生』だった。



 肩の丈程まである黒いサラサラのセミロングヘヤーは薄暗い外灯の中で雨露あまつゆに濡れて優しく輝きを放ち、その白く透き通ったきめ肌は絹の様な繊細さと美しさを見せる。

 その吸い込まれそうな程に大きな瞳に見つめられると直樹の胸はかつて無い程に高鳴るのであった。



 ドックン……ドックン……



 胸を打つ度に加速してゆく鼓動……訪れた落雷にも似た衝撃に息をするのも忘れる程に直樹は夢中になっていた。



 まさか『一目惚れ?』


 灼熱と化した想いは一気に燃え上がり、直樹の心までも支配してゆく。抑え切れない想いに勇気を振り絞り声を掛けようとした瞬間だった。



 ――ポツリ。



「うわっ冷たっ」


 外灯の笠から落ちた雨粒が直樹の顔面へと直撃した。慌てて顔に掛かった水を振り払う直樹だったが、女子高生は優しく微笑むとポケットからスッと真っ白なハンカチを出した。


「あの良かったら使って下さい」

「あっ……ありがとう」


 手渡されたハンカチで濡れた顔を拭き取ると直樹は徐々にではあるが冷静さを取り戻していた。


 確かに可愛い……いや今まで出会って来たどの女性と比べても断トツに可愛いのだろう。


 ……とは言え相手は天下の女子高生。


 ここで手を出せば事件にも成り兼ねないこのご時世じせいにおいて、あまりにもリスキーな恋愛である。それに良く考えてみればこんなオッサンなど、きっと相手にもされないだろうとスッカリ諦めムードの直樹。


 この高鳴る気持ちもきっとお酒のせいだったのだと自分自身に言い聞かせ心を落ち着かせてゆくのだったが……


「あっ、そうだ」


 そう言うと女子高生は何やらカバンの中をゴソゴソ漁り出した。10秒程の間があっただろうか……お目当ての物を見けたのか満面の笑みで直樹の方へと向かってくる。


「ふふふっ……はい。良かったら、これもどうぞ」

「あっ……ありがとう」


 手渡されたのはペットボトル入りのお水。嘔吐して気持ち悪かった事もあり、有り難く受け取ると直樹はペットボトルの口を咥えながら勢い良く飲み込んでいった。



 ごくごくごく……



 その様子を物珍しそうに横から見つめる女子高生。そのキラキラとした眼差しに見つめられていると、胸がドキドキとトキメいた気がする。


 だが良く考えると何かがおかしい。


 なぜこんなにも面白くもない直樹の顔をジーっと見詰めてくるのだろうか?気になって仕方が無かった直樹は半分程、飲んだ所で思い切って聞いてみる事にした。


「あの?僕の顔に何かついてますか?」

「いえ何も……」


 どうやら顔にゴミが付着している訳では無さそうだ。もしかして気があるのでは?っと淡い期待を胸に残りの水も飲み込んでゆく直樹だったが……女子高生は目を細めてにこやかに笑うと全く予想だにしていなかった事を口にするのだった。


「ふふふ……これって『』ですよね?」



 ――間接キス?


 間接キスとは……実際にキス行為をしている訳ではないが、何かを中継してキスのように感じる行為を指し。主に、唇が触れた物を別の人がその箇所に唇を重ねる事である。


 つまり、このペットボトルには目の前の女子高生も……このプルっと潤った柔らかそうな唇を……。想像した瞬間、息が詰まった。


「ゴホッゴホッ……ゴホッ……」


 まさかの言葉に驚いた直樹は激しくせてしまった。鼻からは逆流した水が垂れはたから見ても、実にみっともない姿である。

 そんな直樹を心配して女子高生は慌てて近付いてくるのだが……近い……距離が近すぎる。


「だっ大丈夫ですか?私、そんなに驚くと思ってなくて……。でもよく考えたら私、コップで飲んでたから全然間接キスじゃ無かったですね。ふふふ……」


 笑って誤魔化す女子高生。別に悪気があった訳では無さそうだが、このままでは心臓がいくつあっても足りない。これ以上関わるのは危険だと判断した直樹は女子高生を突き放す様に注意を促すのだが……


「あのさ……こんな遅い時間に女の子が一人で出歩くなんて危ないと思うんだよね。さっきもなんか追われてたみたいだし。最近、この辺では通り魔も出たらしいから、すぐ帰った方が……」

「…………」


 直樹の発言に女子高生の目には涙が浮かびあがっていた。今にも泣き出しそうなその表情に罪悪感を感じ、後悔の念に襲われる直樹。

 何か深い事情があるのだろうか?兎に角、理由わけだけでも聞いてみようと女子高生へと直樹は声を掛けるだったが……


「あの……理由も聞かず、いきなりこんな事を言っちゃってごめ……」


「畜生行き止まりじゃねぇか」


 直樹が謝ろうとした瞬間だった。遠方から怒りに満ちた叫び声が聞こえる……どうやら先程の男達の様だ。


「あのゲロオヤジ騙しやがったな。探し出して八つ裂きにしてやる」


 背中に凍る様な冷たさを感じ、額からは大量の汗が流れた。



 逃げなければ……確実に殺られる。



 最早、一刻の猶予ゆうよも許されないこの状況。今すぐ逃げ出したい直樹だったが、涙を流しながら震える女子高生を見て気持ちがブレる。


 余程の事情があるのだろう……事態を重く受け止めた直樹は女子高生の手をギュッと握ると優しい口調で声を掛けるのだった。


「君、追われてるんだろ?良かったらアイツらがいなくなるまでウチにおいでよ」


「えっ?あれっこれって?……まさか」

「えっ……あっ……ごめっ……こここれは……」


 瞼を見開き目を丸くした女子高生を見て我へと返った直樹は慌てて手を離した。不可抗力とは言え女子高生と手を繋いでしまったのだ。こんな事は許される訳が無いと眉間にシワを寄せ困惑の表情をしていると当の女子高生は……


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて貰っても良いですか?」

「えっ……あっああ」


 満面の笑みで軽くお辞儀をすると手を差し出してくる女子高生。二人は再び手を繋ぐと暗い路地へと消えていった。



 しかし、この時の直樹は知らなかった。


 女子高生が驚いた本当の理由わけを……。そしてこれが二人の運命を変える大きな出会いであった事を……

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