第3話 話が違うねぇ



「真面目に行商するのも、いいかもしれないねぇ。何しろ、元手は只だし」


 半次が鼻歌交じりに呟いた瞬間、フロントガラスが砕け散った。熱い銃弾が左頬を掠める。何発か車体にも銃弾が喰い込んだようだ。

「おいおい。どこが敵性地区じゃないってぇ? 敵軍が、こんなにいるじゃないか!」


 バラバラと現れた八路軍が、道路の前後を固め始めた。ここで車を停めるのは論外だ。枯れた水田にトラックを突っ込み、逃げ切りにかかる。

 前方に回り込んで拳銃を構えた中国人を何人か弾き飛ばしたが、半次はスピードを緩めなかった。捕まれば轢かれた彼らより、酷い目に遭うことは確実だ。


 道無き道を死に物狂いで走り抜けた結果、現在位置を見失いながらも、何とか包囲網から抜け出すことに成功した。

 農民に道を聞こうかとも考えたが、偽装しているゲリラだったら、目も当てられない。そのうち車体に嫌な振動が来た。どうやら先ほどの銃撃で、ラジエターに穴でも開いたらしい。

「参ったねぇ。オーバーヒート寸前だよ。ん?」

 気がつくと目の前を日本兵が行軍している。どうやらツキは落ちていないらしい。髭面の軍曹が手を振って近づいて来た。日本軍のトラックに背広姿の半次を見て、訝しげな表情を浮かべる。


「停まれ! 貴様はどこの所属か」

「所属は分からない」

「何? どういう事か。中国共産党の諜者じゃないだろうな!」


 ガチャガチャ!


 急速に悪くなる雰囲気。近くの兵隊も三八式歩兵銃を構え直す。苦笑いした半次は、両手を上げて運転席から降りた。その風貌に気を呑まれたのか、軍曹は咳払いをして問いかけた。


 半次は船を降りてから此処に至るまでの行程を、比較的正直に話した。無論、あの哀れな伍長と上等兵は、敵兵に殺された事にしたが。運が良ければ、八路軍に見つからずに生き延びるに違いない。


「なるほど。それで命からがら逃げ出して来たという訳ですな。先生は運が良かった。後方で我々の補給路を寸断しようとしている、八路軍や国民党軍に捕まれば、どうなるか判りませんからな」

 穏やかな雰囲気に戻った隊列の中で、訳知り顔の軍曹は頷くと、敬礼した。

「第9師団中島部隊所属の山本陸軍曹であります。今から中隊長に面会していただきます」


 岸中隊長は猫背で陰気な顔をした男だった。猜疑心に満ちた丸眼鏡の奥の瞳は、無遠慮に半次を眺めていた。

「大体のお話は分かりました。高見半次医師で宜しいですね。早速本部に連絡を行い、先生の所属を明確にさせていただきます。

 それまでは我が中隊に随行していただきますが、宜しいでしょうか?」

 旅券や身分証明書は奪われた事とし、申告した名前は敢えて本名にした。林田を名乗っていても、バレる時はバレるし、不意に呼ばれた時に、すぐ返答ができなければ、その方が不味い。

「身元の照会には、どの位かかりますか?」

 岸は陰気な顔を更に辛気臭くする。

九四式無線機の具合が悪く、直ちにという訳にはいかんのです。何、ここ新豊シンフォンと上海本部を兵卒が往復するだけですから、三日もあれば事が足りるでしょう」

 それだけの時間があれば、逃げ出すことも可能だろう。半次は一人頷いた。と、その時、


 シュルルル…… ドグン!


 背筋の寒くなるような砲撃の音が、至近距離で響いた。手榴弾が炸裂し、熱い金属の破片が飛散する。

「敵襲! 遮蔽物の影に隠れろ!」

 大声を上げた開戦少尉しんまいしかんが、八路軍の銃弾に打ち倒された。舌打ちした山本軍曹が飛び付き、彼を引きずりながら後退する。

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