第3章 人間の価値

第16話 花の精

 人の世がどんなに不景気であろうが、いつの世も桜は美しい。上野恩賜公園のソメイヨシノが咲き乱れ、花は風に揺られている。突風で桜吹雪が舞う中、一人の好青年が現れた。


 山高帽を小粋に被り、ロイド眼鏡に仕立ての良い背広を纏った、二十代の男性である。

 モダンボーイの見本のような立ち姿に、花見の酔客やモダンガール達が見惚れる。そんな彼を二度見した上、何とか話しかけようとして躓き、派手に転んでしまう淑女が現れた。


 転んだ淑女からすれば、この世に舞い降りた花の精である彼こそ、大詐欺師 高見半次その人である。半次は転んだ淑女に帽子を上げて会釈すると、進行方向に視線を向けた。良かった。見失っていない。


 半次の視線の先には、異性の花の精のような美少女が歩いていた。流行のワンピースアッパッパに薄いカーディガンを羽織り、色の薄い黒髪を風に靡かせている。物憂げなまなざしで桜の大木を見上げた時、脂ぎった中年男と正面衝突した。


「おい! どこ見て歩いてるんだ! ……っと。これは美しいお嬢さん。危ないですぞ」

 中年は猫なで声を出しながら、少女を上から下まで舐めるように見つめた。びっくりした表情を浮かべた少女は、頭を下げる。

「すいません! 桜があんまり綺麗で、周りが見えていませんでした」

「いやいや。物騒な世の中ですから、女性の一人歩きは感心しませんな。どうです? そこらのカフェーでお茶でも」

 中年は何とか少女に取り入ろうと、愛想笑いを浮かべる。少女も微笑む。

「大丈夫です。もうすぐ自宅ですから。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 そういうと元気よく歩き始めた。中年は名残惜しそうに少女の背中を見つめていたが、やがて諦めたように逆方向に歩き始めた。


「またやりやがったぁ!」

 半次は舌打ちする。美少女は、ゆっくり歩いているように見えるが、恐ろしいスピードで人ごみに紛れた。必死に彼女を目線で追いながら、見失わない速度で人ごみを掻き分ける。


「あっ、やられた! 財布が無い!」

 遥か後方で中年の叫び声が聞こえる。少女は、あっという間の早業で中年の懐中から、お宝を掏り取ったのである。

「まだ若いのに大した技だねぇ。」

 半次は肩を竦めて、美少女を追った。


 少女は紙幣だけを抜き取り、札入れを人通りのない道端にソッと置いた。上野寛永寺の墓地を通り過ぎ、下谷地区に進んだ。

 途中で墓地を挟んだのは、尾行されていないかどうかの確認だったのだろう。仕事の大胆さと、その後の用心深さに半次は舌を巻いた。

 震災で火災が起きた後、勝手に立てた無数のバラックの一つで少女は立ち止まる。立てかけてある扉代わりのベニヤ板を数回ノックすると、小さな子供たちが中から飛び出してきた。


「ネーチャンお帰り!」

「腹減ったよ。今日の晩御飯は何?」

 美少女の周りに、ボロを来た子供たちが群がる。少女は苦笑した後、手を叩いた。

「さぁ、晩御飯の前に部屋を片付けて。皆帰って来ている?」

「皆いるよ」

「あらそう。じゃ、良子。買い物を手伝って」


 5人の子供たちは、統率の取れた子犬の群れの様に動き始めた。部屋の片付けをする男の子。買い物かごを持つ女の子は、ボロから清潔な衣服に着替えている。いくら金を持っていても、薄汚れた身なりでは足元を見られる。

 だから買い物の際には、身なりに気を使っているのであろう。そこらの大人よりも世間を分かっている、大した子供たちだった。

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