第5話 嫌な奴だねぇ
この一件で、軍医としての地位を確立した半次は、逃げ出す隙を伺い始めた。だが衛生兵さえいなくなった中隊は、怪我人や病人ばかりで、トラックから降りることさえままならない。
「いいかい。診察中は幌の中に誰も入ってこない事。君たちが持ち込んだ細菌が傷口に入り込んで、破傷風や敗血症を引き起こすかも知れない。
そうなったら、助かる命も助からなくなる」
半次は、そう言って荷台から患者以外の付き添いを追い払った。
「まさか虎の巻を広げている所を、見られるわけにはいかないからねぇ」
すっかり自分の居場所と化したトラックの荷台で、配給の緑茶を飲んでいると、幌の外が騒ついている。誰かの怒鳴り声が聞こえた。
「……次は銃創の患者の筈だったんだが」
陰気な表情の岸中隊長が、荷台に入ってきた。
「私の方が急患なのでね。順番を代わってもらった」
「割り込みかね。悪そうな所はなさそうだが」
岸は口に指を突っ込み、口内を見せた。右下の奥歯に親指が入りそうな、大穴が開いていた。
「虫歯が酷くてね。夜も眠れない」
「気の毒ではあるが、それは急ぎの治療ではないだろう。重傷者から来るように言った筈だが」
「末端の兵隊が何人か死んでも大局は変わらん。しかし部隊長の体調が悪ければ、部隊が全滅するかもしらん」
思わず振り返って岸の顔を見た。本気の顔だった。半次は肩を竦めて、簡易ベッドを指差す。
「言い分は分かった。さっさと済まそう。歯科は専門外だが、その虫歯は抜くしかなさそうだ」
「それであれば、麻酔を頼む」
「貴重な物資だ。虫歯なんかより、必要な患者が多数出るだろう」
「いいから使え。同じ事を何度もいわせるな」
岸は半次が大嫌いなタイプの軍人だった。恐らく何を言っても耳をかさないだろう。言葉が通じなければ、詐欺師の仕事は始まらない。
半次はため息をついた。適当に患部に近い歯茎に、麻酔薬の入った注射針を突き立てる。うめき声が聞こえるが無視した。
「……さてと。ここは何か感じるかね? 中隊長君!」
彼は鼾をかいて眠っていた。どうやら麻酔の量が多すぎたらしい。頬を叩くが完全に意識を失っていた。半次は、これ幸いと荷台から降り、どこからともなく工具用のペンチを調達する。何の躊躇もなく岸の奥歯を引っこ抜いた。
どこにも穴の空いていない奥歯が、ペンチに挟まれていた。
「ありゃ。間違えた。コッチかねぇ」
正常な奥歯を一本犠牲にして、何とか虫歯を引き抜くことに成功した。岸はその後、五時間ほど目を覚まさなかった。
しかしその間、中隊は正常に機能し問題なく移動を行っていた。
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