第2話 さて。始めよう


 国際都市上海。アジアの各民族は元より、白人・黒人様々な人種が、この街の混沌に呑み込まれ、忙しそうに歩き回っていた。しばらく前までは。


 編笠を被った老人が、寒風に背を丸めて、波止場の鉄杭に座っていた。ボンヤリと海を眺めていた彼の表情が、にわかに曇り始める。

 宝山バオシャンの港に、また日本からの船が到着したからだ。

 この街に冴えない日本軍の軍服が、増えるのと同じスピードで、老上海ラオシャンハイの友人たちは海外に移住を始めた。段々、街が色褪せて行く様だ。

 生まれた時から、ここに住んでいる老上海は、何よりもこの街の自由な空気を誇りにして来た。しかし忌々しい他国の軍人たちが、それを粉々に打ち砕いた。


 到着したばかりの戦時徴用船から、大量の日本兵が吐き出された。その中に、上等なコートと背広を着た、痩身の男が混じっていた。貴族的な風貌と綺麗になでつけた髪。秀でた額の下には、思慮深く落ち着いた瞳が輝いていた。

 ここが軍港に使用されていなかったら、映画俳優と間違えてしまうような立ち姿に兵隊達も振り返って彼を覗き込む。手に持った大きな黒い鞄から、彼が俳優ではなく、医者か高級官僚であることが見て取れた。

 港で働く数少ない女性達は彼を見てため息をついた。何か理由を付けて、彼に声をかけようとした勇敢な女性が現れる。

「あの!」

 その時、二人の日本兵が飛び出して来た。


「林田邦夫軍医でありますか?」


 彼は女性に上品な会釈をしてから、兵隊達の方に歩き出す。会釈を受けた勇敢な女性はうっとりとした表情を、いつまでも浮かべて彼を見送った。


 この見目麗しい好漢こそ、大詐欺師 高見半次 その人であった。偶然船内で知り合いになった、本物の林田医師は、パンツ一枚の姿で縛り上げられ、船底の布団部屋で気絶している。

 日本でやり辛くなって来た大きな仕事も、この大陸でなら可能だろう。入れ替えに成功した半次は、ほくそ笑んだ。

「華中派遣軍、高木伍長であります。これから先生を無錫ウーシーまで、お送りいたします」

「ああそう。このトラック?」

「軍港から届いた、補給物資を乗せております。生憎と人手不足ですので、こんな車両しか用意できずに申し訳ございません」

「別に構わんよ」

「代わりと言っては何ですが、税関手続きはこちらで全て、完了させておきました。先生は、すぐに出立可能です」

「それは助かるなぁ」


 半次は心底から微笑んだ。軍属だから税関業務はおざなりだろうが、旅券パスポートを精査されると少し厄介だった。鼻歌を歌いながら半次が乗り込むと、トラックは西に向かって走り出した。上海中心部を抜けると、枯れた水田がどこまでも続く農村地帯に入った。

「すまないが、車を止めてもらえないだろうか? 船の中が大分冷えたものだから」

「そういえば自分も、小用を足したくなって来た時分であります」

 運転手の上等兵は、微笑んでブレーキを踏んだ。半次はいち早く車から降りると、盛大に湯気を上げ始めた。二人も後に続く。


 逸物をズボンに収め終えた半次は、二人の後ろに回り込んで煙草に火を点けた。

「思っていたより冷え込むなぁ。この辺りは敵性地区なんだろうか?」

「とんでもない! そんな所で立ち小便などしていたら、命が幾つあっても足りません」

「それもそうだ。じゃあ、風邪を引かんようにせんといかんなぁ」

「…は?」

 その瞬間、伍長は後頭部に衝撃を受けて、昏倒した。

「何をする!」

 振り返った上等兵の側頭部に、半次の掌底が激突する。呆気なく彼も倒れた。

「おーイテテ。石頭共め」

 半次は右手を振ると、大げさに顔を顰めた。

「しかし車を頂戴するだけのつもりだったのに、補給物資が満載とは幸先がいい」


 口笛を吹きながら運転席に乗り込むと、彼はハンドルを東に向けた。




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る