第22話 ここから仕事だねぇ③
翌日、浅草七軒町署は蜂の巣を突いた様な大騒ぎになっていた。盗まれていた鞄が戻ったので連絡すると、風の様に現れた代議士が中身を確認した。
「書類の一部が無い!」
更に初めに入っていなかった、紙切れを掴み出した。
『統帥権干犯』
とだけ書かれた紙を握りしめ、代議士は叫び声を上げた。その後、代議士が起こした風は大嵐となって、署内を荒らし回った。
その暴風は、本意では無いが初動調査に関わった白ヒルを直撃した。
「いいかね。これは世界規模の機密なんだ。世間に露呈したら、君どころか総理の首さえ危ない。何とか取り返したまえ!」
『そんなに大事な物なら、ガキに置き引きなんかされるなよ』
白ヒルは口に出せないセリフを呑み込むと、治が収監されている独居房に足を運んだ。すぐに捕まったガキに、盗品が捌けないことは分かっている。
治を代議士の前に引っ立てると、彼は電話で何やら深刻そうな話をしていた。恐らく彼のボスである海軍大臣とでも話しているのであろう。白ヒルと治を見ると、目配せをして部屋を出た。
「確かに盗んだのは、この子だ。申し訳ないのだが、彼の身柄と鞄を海軍省へ移すことはできないだろうか」
「急にどうしました?」
「今、電話で関係者と打ち合わせしたところだ。君の尋問で、この子は何も話さなかったのだろう?」
白ヒルは眉を顰めた。治の頭を掴むと、無理やり自分と目線を合わせる。
「こんなチビに私たちの尋問を受けさせたら、一時間も持たずに死んじまいますよ。おい坊主。今、話さないと此処より怖い場所に連れていかれちまうぞ……」
しかし少年は震えながら、口を引き結ぶ。白ヒルは舌打ちをしながら、近くにいた巡査に治を預け、署長室に向かった。
「お待たせしました。署長の許可が下りました」
白ヒルは代議士に声をかけた。逮捕した容疑者の身柄を他の省庁へ動かすのはルール違反だが、相手は大物海軍族議員様である。署長ですら反対しなかった。
「手間をかけて申し訳ない。迷惑ついでに海軍省まで、この子の警護を頼めないだろうか? 下に車を待たせているから、それほど時間はかからない」
「……分かりました。空きの人員がおりませんので、私だけで失礼します」
三人は浅草七軒町署を後にした。
半次と美子は、海軍省近くの日比谷公園に佇んでいた。美子は化粧を済ませ、戦闘態勢を取っている。
「この封筒を白ヒルの懐に入ればいいのね」
「良いですかぁ。指定した場所とタイミングで入れて貰わないと、上手くないんです」
「誰に物を言ってるのよ!」
「こいつは失礼しました」
半次は肩を竦めた。
彼女の持つ封筒の中身は、件の鞄に入っていた海軍独自の、更なる軍縮に関する建議書であった。先日行った軍縮合意で内閣が大揺れしたというのに、これが野党政友会にでも渡れば、統帥権干犯どころではない。陸軍を主体としたクーデターに進展する恐れすらあった。
そこに首を傾げた白ヒルが海軍省正門から現れた。建物に入った途端、お役御免となった。警察署から海軍省まで車で移動したのだから、ガキの護送どころか、ほとんど何の役にも立っていない。厄介払いはできたものの、全く無駄足を踏まされたものだ。
半次の目配せで、美子は歩き出した。
「あら、あの時のお巡りさんじゃないですか?」
「……女給か。こんなところで何をしている」
「お家の御用で、
白ヒルは胡散臭げに美子を見つめる。それから鼻を鳴らした。
「何だ。
「あら、肩に何か付いていますよ?」
スルリと美子は白ヒルの懐に入り込む。右手で白ヒルの肩に付いた、樟の葉を摘まみ取った。あまりの屈託のなさにギョッとする白ヒル。
「ネクタイも曲がっています。唯でさえ怖いのに、身だしなみが崩れると、もっと怖く見られてしまいますよ」
「余計なお世話だ」
ネクタイを直された白ヒルは、自分の脂下がった表情に気づき狼狽えた。しばらく嫌な目付きで美子を眺める。
「おい時間があるなら、どこかで酒でもどうだ?」
絶妙なタイミングで白ヒルから身体を離した彼女は、ニコリと微笑んだ。
「これで失礼いたします。ごきげんよう」
美子は軽やかに会釈をして、帝国ホテル方向へ歩み去る。白ヒルは茫然と美少女の背中を見送り、舌打ちをして市電のホームに向かって歩き出した。
白ヒルの視線から外れた所で、半次がフラリと現れた。
「アタシには、全然分からなかったんですが、封筒は入れたんですかぁ?」
「言われたように、背広の内ポケットに入れたわよ」
「流石の神業ですねぇ」
ピィーイ!
突然半次が指笛を鳴らした。すると海軍省の入り口から、ワラワラと警備兵が現れ、白ヒルを取り囲んだのである。
「何だ、お前ら!」
「軍機密漏洩の疑いがある。大人しくしてほしい」
「何言っているんだ。俺は警視庁の警部だ。公務執行妨害にするぞ。触るんじゃない」
「内務省と海軍省では職能の管轄が異なる。捜査に協力してもらおう」
白ヒルは警備兵の胸を押した。途端に周りの兵隊たちがザワツキ始め、揉み合いになる。
パサッ
白ヒルの懐から、海軍省の捺印がある封筒が落ちた。
「これは何か?」
「そんなもの俺は知らん!」
警備兵は白ヒルの抗議を聞き流し、封筒の中身を見た。表情が引き締まる。
「密告の通りだ。奪われた書類に間違いない。さて、本省にお戻り願おう」
ガッチリと関節を極められ、身動きが取れない白ヒル。警備兵の話を聞き叫んだ。
「密告? これは罠だ! 俺がこんなものを持っていて、何の得になるってんだ!」
「それはこれからジックリ伺いますよ。警部さん」
警備兵は正門の方向に首を振った。白ヒルは赤煉瓦作りの建物へと吸い込まれて行った。
白ヒルが捕まってから数時間後、海軍省の建物裏口から、子犬の様な少年が押し出された。裏門で待ち構えていた美子に抱きしめられる。
「治! 大丈夫?」
「ミコネー。僕、頑張ったよ。何も話さなかった」
泣きながら抱き合う二人を葉桜が優しく見下ろしていた。
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