第8話 一杯喰わされたねぇ


「後で聞いたんだが岸の部隊ってのは、上海で評判が悪くてねぇ。略奪やら何やらで軍法会議一歩手前だったそうだよ。それなら、下剤なんて半端なものを仕込むんじゃなかったねぇ」


 半次は笑い声を上げた。後を追うように嫌な咳が出る。空咳が中々止まらない。青年医師が背中を摩った。半次は、その手を振り払う。

労咳結核なんだ。あんまり俺に近づきなさんな。感染うつっちまうよ」

「結核に有効な抗生剤ペニシリンが販売され始めました。貴方の病気は治ります」

「いいんだよぉ。そんな有難い薬を使ってくれなくても。死ぬ時くらいは、人様に迷惑をかけたくないんでねぇ」

 青年は微笑むと、白衣を脱いでシャツの肩口を広げた。そこには引き攣れた傷跡が残っていた。


「お前さん。そいつぁ……」

 ポカンと口を開ける半次。青年は屈んで半次と目線を合わせた。

「貴方にも未来があります。今はしんどくても、生きてさえいれば、きっと良いことがありますよ」

 青年は半次の手を握り締めた。残念ながら母親は亡くなったが、事あることにあの夜の話をしてくれたこと。拾った命なのだから、人のためになる人間になれと言われ続けたこと。だから本物・・の医者になったことを話し始める。

 あの夜、必死に息子を抱えていた母親の面影が重なる。彼女も微笑んだら、こんな顔になったのかもしれない。


 しばらく呆然としていた半次は、ニヤニヤしている亀井警部を睨みつけた。

「ドロ亀。お前さん、知ってたねぇ?」

「何のことかな?」

 警部は肩をすくめて、ベッドを離れて行った。

「この大詐欺師、高見半次様を担ぐたぁ、呆れた警官だよ」


 半次は、そう言って苦笑する。明かり取りの小窓にさえ鍵のかかる警察病院の病室に、あの大陸の風が吹き抜けたような気がした。 

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