第16話 真樹と景

 部長が鼻歌を歌いながら、持ち込んだ電子キーボードの鍵盤を叩いている。

 軽やかな音楽が流れ、子どもたちがそちらに集中している隙に、真樹は神野清花とともに人形劇の片づけをすることにした。


 場所はF県の県立病院の小児病棟である。病棟の遊戯室に大型教室の程度の広さがあれば、人数に対しては十分過ぎるほどであった。

 集まっている子どもたちは幼稚園生くらいの子から、小学校高学年くらいの子までいた。人形劇を大人しく鑑賞してくれるだろうか、という不安はないではなかったが、静かに聞いていてくれた。もっとも、幼い子どもたちの多くは、人形劇そのものよりも、部長が演奏するキーボードに興味があったのだろう。いまも注目しており、中には彼女の膝に乗って鍵盤に指を乗せる子どもも居た。部長は慣れたもので、苦笑して鍵盤の叩き方を教えてやっていた。

 人形劇の舞台は移動しやすいように、セットひとつがトランクに入るようになっているので、片付けるといっても食み出た布地などを畳み、人形を入れるだけで、簡単だ。あとは次のレクリエーションのために遊具を準備する必要がある。いまのところ、部長が子どもたちが退屈しないように気を惹いていてくれているので、真樹と清花だけで遊び道具を取りにいったほうが良さそうだ。その辺りのことは、視線を交わして通じる。


 生まれたときから重い病気を抱えていたり、幼くして病に冒され、ろくろく学校に行ったり、外に出ることすら叶わないような子どもたちが入院している。この病棟こそが家であり、学校のようなもので、だから通路にも子どもたちが描いた絵が貼られていたり、飾りつけが為されていたりと、華やかなものだ。

 平時なら、そうした絵を見て、これが面白い、あれが楽しそう、などと清花が感想を述べるものだ。だが、今日は彼女の表情は沈み、淀んでいた。朝からそうだった。常なら彼女のほうから話しかけてくるだけ、隣の部屋に移動するだけでも、間が持たない。


「真樹くんは、まだ……、蘭さんのことを探すの?」

 遊戯室に戻るとき、清花が唐突に口を開いた。耳を澄まさなければ内容を聞き取れない、不明瞭な言葉だった。彼女の曇った表情の理由は、その問いかけなのだろう。昨夜の電話と同じ、いや、似て非なる質問だ。真樹は蘭のことを捜したい。何に代えても逢いたい。だが。

 長く、白く、華やかな通路で真樹は彼女に向き合う。

「もう、やめようか」

 真樹は言った。

 それは正直な気持ちだった。

 真樹はこの五年間、ずっと蘭を探し続けてきた。あらゆる行動はその目的のためにあった。清花と一緒に出かけたり、部活に入ったのもそうだった。アルバイトをしていたのも、県外へ蘭を探しに行ったり、探偵に依頼をするためだった。探偵に依頼を考えたこともあり、実際に依頼を取り付けにもいった。

 だが最終的に、真樹は躊躇した。

 いまさら蘭を見つけたとて、いったいどうなるのだろう。そもそも彼女を見つけられるのだろうか。生きているのだろうか。何をしているのだろうか。

 そんなことを考えるのに疲れたし、悩むのに疲れた。蘭に向かって一目散に進むことが難しくなっていたのだ。


「そう………」

 清花の反応は小さかった。真樹の言葉を、信じていないのかもしれない。

 しかし遊戯室に戻ったときには、いつもの彼女の明るい色が少し戻っているように見えた。子どもたちに笑顔を向けている彼女を見れば、これで良かったのだと、そう思わずにはいられない。彼女が真樹を好いていてくれるのは、ずっと知っていたから。

 子どもたちはおおよそ三つのグループに分かれた。ひとつは部長の周りに集まった。キーボードに合わせて歌ったり、演奏を教えてもらったりしているグループ。ひとつは清花の周りで、本を読んでもらっているらしい。このグループはわりかし年少の子どもたちが多い。そして最後のグループは真樹のところに集まってきた子どもたちで、これは少年ばかりだった。


「オセロがいいな」

 真樹たちは多人数でできるゲームも用意してきたのだが、少年たちがやりたがったのはもともと遊戯室にあった一対一のゲームだった。

「人生ゲームとか、カタンとかもあるよ」

「どういうゲーム?」

「麦と羊を交換したりだとか」

「なにそれ、意味わかんない」それより、と少年たちは早くもオセロを台に置く。「それより、オセロやろうよ。二個あるから、四人でトーナメントでやろうよ」

 やりたいというのなら、用意してきた道具が無駄になっても、それは大したことではない。阿弥陀籤をってトーナメント表を作る準備をしようとすると、少年たちが積極的に手伝おうとした。というより、ペンと紙を奪われてさっさと籤を作ってしまった。


「おにいちゃん先攻ね。黒だよ。知ってる? 先攻でも、どこ打ってもあんまり変わらないから、白のほうがほんとは先攻みたいなもんなんだよ」

 対戦相手になった相手は、少年特有の高い声でよく喋った。おそらく、いつも同じ友人たちとしか指していないから、知らないプレイヤーである真樹と指せるのが嬉しいのだろう。

 真樹が打って返すと、少年は秒も考えずに手を伸ばした。袖口が捲れ、注射針の跡だらけの白い腕が見えた。

「角っこを取ればいいんだよね」

 勝つためには相手に返されない石を置くべきで、わかりやすいのは角だ。だから少年が言うことは概ね正しい。だが同じように角を取ろうとしているのは、真樹も同じだ。子どもはこちらの表情をよく見ているので、手加減はできない。手加減をすれば、機嫌を損ねさせてしまう。だから、真樹は相手と同じような心持ちで石を打った。

 白、黒、白、黒。

 相手がどう打とうとしてくるかわかるのは、自分も同じようなことを考えているからだ。

 自分は黒で、相手は白だ。だから黒は味方で、白は敵。

 だが相手から見れば、白が味方で黒が敵になる。

 当たり前のことだ。見方が変われば、味方も変わる。

 そして真樹は負けた。


「おにいちゃん、本気だった?」

 盤面の駒を片付けながら、無邪気な顔で少年が問いかけてくる。

「本気だったよ」

「ほんとに?」

「本当に。強かった」

 ああ、本当だ。真樹は本気でやって、負けた。真樹が弱いのか、少年が強いのかはわからないが、比較すれば真樹よりも少年のほうが強いのは確かだった。

 隣の卓は、未だ戦いが続いていた。途中で長考を挟んだのだろうか、もう少しかかりそうだ。

「おにいちゃん、オセロ以外もできる?」と少年が話しかけてくる。

「将棋ならできるよ」

「ぼくもできるよ。将棋とね、囲碁とね、チェスとね……」

「そこまではできない」と真樹は笑ってみせた。「いろいろできるんだね。いつもこういうゲームやってるの?」

「そうだよ。トーナメントでね。いろいろやるよ。そうじゃないと暇だもん」

「三人だとトーナメントにならないんじゃないの?」

「いつもはもうひとりいるよ。けいちゃん」

 真樹は遊戯室を一望した。子どもの数は十五人ほど。現在小児病棟に入院している患者のうち、全員がここにいるはずだ。ということは、けいちゃんなる人物は入院患者ではないか、でなければ通常病棟の患者なのだろう。


「けいちゃんって、どういう子?」

「ゲームいつもやってる。ゲームは、なんでもけいちゃんのほうが強い。年上だから強いのかと思ったけど、そんなことないね」少年はオセロの盤の上で駒を立て、指で弾いて回転させた。白と黒の面が交互に入れ替わる。「おにいちゃん、けいちゃんと同い年くらいだけど、おれより弱いし」

「そりゃ悪かったね。今は何処に居るの?」

「今日は検査だって言ってた。でももう終わると思うよ。気になる? 可愛いから?」

「いや、ぼくは会ったことないんだけど………、なに、可愛いの? 女の子?」

「女の子。わりと可愛い」

「けいちゃんのお母さんが、美人だよね」

 と隣の卓で対戦をしていた子どものひとりが、局に向かったままで呟くように言った。

「そうなの?」

「うん。みんなそうやって言うよ。顔は似てるけど、けいちゃんと違って怒らないし。けいちゃんと違っておっぱいがでかいし」

 少年のよく通る声に、離れたところにいた清花がこちらに視線を向けた。

「女の子が近くにいるときにそういう話はやめとこうね」

 と真樹は念を押しておいた。


 隣の卓の対戦が終わったあと、決勝戦と三位決定戦が行われた。真樹はそこでも負けて、四位だった。真樹が最初に勝負をした少年は一位だった。

「やった」と名誉だけが送られる一位に、少年は大袈裟に喜んでいて、その理由は「だって、けいちゃんがいると勝てないし、優勝できないんだもん」ということらしかった。

「じゃあもう勝てないね」

 声は遊戯室の入り口から駆けてきた。声の主は髪の短い少女だった。色がやけに白くて、痩せてはいるが、目だけがいきいきとしていて、活力に溢れているように見えた。彼女は真樹のほうを向き、「遊びに来てくれた人たちだよね? こんにちは。この子たちとよく遊んでる、鈴木けいっていいます。小児病棟じゃなくて一般病棟の患者なんだけど、わたしも参加していいかな?」

 そう言った顔は、忘れもしない、ずっと真樹が探していた人物、蘭の顔によく似ていた。

 景が加わり、ほかのゲームで遊んだ。真樹は幾つかのゲームで勝ち、幾つかのゲームで負けた。だがどのゲームでも、景にだけは勝てなかった。

 遊びの時間は瞬く間に過ぎて、別れの時間になった。子どもたちが別れを惜しんでくれたのが、真樹には嬉しかった。

 病院の外に出たところで、真樹は蘭に出会った。

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