第7話 真樹
大丈夫、とはどういう意味だろうか。
涙に濡れた瞳の蘭の言葉の意味を問えないまま、その日を過ごした真樹だったが、答えは問わずともやって来た。
黒いスーツの男がアパートを訪れた日曜日から五日、真樹は蘭とともに変わらぬ日々を送っていた。朝起きて、ふたりで朝食を作って、学校へ仕事へ行って、帰ってきて、ふたりで夕餉をとって、銭湯で風呂に入って、そして眠る。
変わったことといえば、幼い頃のように、寝るときにに手を繋ぐようになったということくらいだった。六畳一間の狭いアパートの部屋に並べて布団を敷いて、隣り合わせになって眠る。そのときに、布団から出した手を繋ぐ。それだけだ。幼いときと同じだ。蘭の手は、幼いときと変わらず、少し冷たくて、白くて、柔らかかった。
ああ、だが、だが、その日は違ったのだ。
その日は金曜日だった。真樹はここ数日、いつもそうしているように、神野清花と一緒に下校した。まだ十五時を少し過ぎたくらいで、金曜日に蘭が仕事から帰って来るのは十七時過ぎくらいだから、それまでは宿題でもやっていようと思って卓袱台にノートと教科書を広げていた。
玄関の戸が開いたのは、十七時よりも三十分ほど前で、つまり蘭がまだ仕事をしているはずの時刻だった。なのに蘭はアパートに戻ってきていた。
「真樹………」
卓袱台の傍に座っていた真樹を見るなり、蘭は安堵の息を吐いた。
靴を脱ぐのももどかしく駆け寄り、真樹を抱き締めた蘭からは、汗の匂いがした。
「真樹、真樹、ごめんね」
窓から夕陽が差し込んでいた。
「わたし、わたし………」
蘭の言葉はそれ以上続かない。
真樹はただただ、蘭の豊かな胸に抱かれていた。
「真樹は、わたしと一緒にいたい?」
蘭が問えば、真樹は素直に頷くしかなかった。
ああ、一緒にいたい。ずっと、ずっと一緒にいたい。ずっと一緒に暮らしたい。
「わたしも、真樹と一緒にいたかった」
蘭は真樹の髪を掻き分けて、額にキスをした。
なんだ、これは。真樹は思った。これでは、まるで、まるで別れの刻のようではないか。
危機が迫っていることが、蘭の様子から理解できた。
(あいつだ………)
あいつが、ついに蘭のもとへやってきたのだ。真樹は直感的にそれを確信した。
わからなかったのは、なぜ蘭が警察だとか、そうした国民の安全を守るための機関を利用しないかということだった。いや、そもそもからして、あの黒いスーツの男、あの男が蘭や真樹を狙っているのであれば、蘭が彼の存在を予期しているのであれば、彼が悪の存在であるならば、しかるべき法的機関の庇護を受けるべきだったのではないか。いや、いまからでも遅くないのでは。
そうしなかったのは、蘭と真樹こそが虐げられるべき悪だったからなのではないか?
「真樹、お願いだから、その中に居て。押入れの中に。それで、誰が来ても開けないで、じっとしていて。目を瞑って、耳を塞いで、誰にも見付からないように」
「どうして?」
「どうしても、なんだ」
お願い、お願いだから。蘭はそう懇願して、押入れの襖を開けた。物の少ないこの家では、布団を入れてもなお押入れの空間が空いていた。
逃げろと、隠れろと、蘭はそうせがんだ。危険が迫っている。だから、と。
「ぼくが蘭を守る」
逃げも隠れもしないから。ぼくが守るから。別れたくないから。そんな言葉を口に出せたら、どんなにか良いかと思った。
真樹は結局、弱い子どもで、だから素直に頷くことしかできなかった。唯一の抵抗といえば、蘭の服の裾を掴んだことくらいだった。
「蘭も、一緒にいて」
そう懇願すれば、蘭は悲しそうな表情で真樹を見た。大きな瞳からじわりと涙が滲み、ついには溢れ出た。ごめん、ごめんね。蘭はそう言って、真樹の手を離させた。ごめん、ごめんね。そう言って声をあげて泣いた。真樹もいつの間にか泣いていた。
真樹は押入れの中に入り、蘭が襖を閉めた。
玄関の戸が閉まる音が聞こえた。鍵も掛けられた。蘭が出て行ったのだ。それだけの事実が、真樹にとっては恐ろしい槍の穂先のように思われた。永遠の別れのように感じられた。
それでも、真樹は動けなかった。怖かった。待ち受けているもの、追い続ける槍の存在が。
真樹は言われたとおりに目を瞑っていた。怖くて、耳も塞いだ。口も噤んだ。殆ど息も止めた。身動ぎひとつしなかった。ぼろぼろ涙が毀れたのは最初だけで、いつしかどこもかしこも乾いていた。
暗い押入れの中、真樹はただただ待った。蘭が襖を開け、その両手で真樹を抱き締めてくれる瞬間を。
待っていた。
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