第6話 真樹とポスト

 幽霊の正体見たり、枯れ尾花という言葉があって、つまり心が見たいと思っていたり、強く意識したりしている事柄があると、どんなものでもそれと関連付けてしまうという意味だということは知っている。

 でなくても、何の変哲も無い黒いスーツである。標準的なビジネスマンの格好で、ブレザータイプの学生服も似ているし、冠婚葬祭に赴く人々だって着ている。だから見つけようと思えば、そんな恰好の人間は佃煮にするほど見つかる。

「何か面白いものでもあるのか?」

 ずっと真樹が窓の外を見ていたからだろう、対面の席の蘭が問いかけてきた。


 真樹が言葉を発するまえに、注文をしていた料理が運ばれてきたので、真樹は返答を見送った。

「美味しそうだね。真樹、こっちのも食べたい? わたしのと、ちょっと交換しようか?」

 と真樹の前に置かれた鉄板の上のハンバーグを見て、蘭が笑顔になる。

 日曜日、真樹と蘭は市内の総合スーパーに来ていた。目的は買い物であるが、アパートの近くのスーパーで事足りる食料品の買出しではなく、携帯電話を見に来た。


「なぁ、見てみるだけでも良いんじゃないか? 見ているうちに、欲しくなるかもしれないし」

 未だ誘拐未遂事件のことを引き摺っているらしい蘭がそんなことを言い出したのは、日曜の朝のことだった。蘭は弁当屋やスーパーでパートタイムのアルバイトをしていて、その仕事時間は不規則だが、真樹のためにいつも日曜日は空けてくれている。晴れていれば散歩に出かけたり、ピクニックに行き、天気が悪ければ家の中で遊ぶ。買い物に行くこともあって、蘭と出かけられるのは、ただそれだけで嬉しい。だから、携帯電話を見に行くという話も、手を繋いで、ただの買い物だと思えば悪くは無かった。結局、携帯電話は買わなかったが。

 今は総合スーパーの一階にあるファミリーレストランで昼食を取っているところだ。あまり豊かとはいえない暮らしだが、休日に出かけたときくらいは外食をしたっていい。


「真樹、やっぱり携帯、欲しかったんじゃないか?」と、己の皿の上の料理を切り分けながら、蘭が首を傾げる。「難しい顔になってるぞ」

 そうではない。そうではないのだ。真樹にとっては、もはや携帯などどうでも良かった。真樹が悩むことがあるとすれば、ただひとつのことについて、蘭に関してしかありえないのだ。

「蘭、何か隠してることってない?」

 真樹は率直に言葉を吐き出していた。

「ないよ」

「でもこの前の、黒いスーツの人がノックしてきたって話したら、知ってるみたいなかんじだったでしょ?」

「そう見えた?」

「見えた」


 真樹が真っ直ぐに蘭を見据えれば、蘭は視線を鉄板に向けて肉をフォークで突き刺した。脂の乗った肉を口まで運び、白い歯で咀嚼しながら、蘭は小さく唸った。

「それは、昨今変な人が多いからな。この前も、誘拐騒ぎがあったし……、またそういう手合いかな、と思ったんだよ。べつに知ってる人じゃあない」

 と蘭は肉を呑み込んでから言った。

「だいたいな、真樹、おまえは黒いスーツ着た人としか言ってなかっただろ? でもそんな人、ぜんぜん珍しくない。知り合いかどうかなんて、それだけじゃわからないよ」

 蘭の言葉は、いちいち理に適っていた。だがそれだけに、不信感が増した。


(蘭が恐れているのは、特定の人じゃあない、自分を訪ねてくる不特定の誰かなんじゃないか?)

 真樹にはそんなふうに思えたのだ。黒いスーツというのはあくまで引き金で、記号としての意味合いしかないのかもしれない。蘭にとっては、見知らぬ誰かが訪ねてきたということが重要なのかもしれない。

 蘭が何を隠し、何に怯え、そして何を守ろうとしているのか。 


 食事をして、蘭が笑っているうちに真樹の疑念は消えた。蘭が笑ってくれているなら、それだけで良いと思った。店内を彷徨き、服を見て、食器を見た。お茶を試飲して、ベンチで座って飲んだ。夕飯の買い物をして、ふたりで手を繋いで歩いて帰った。

 平和だった。秋。秋分を過ぎて日がだんだんと短くなりつつあるとはいえ、十五時過ぎである以上は、まだ陽は高かった。空は明るく、雲が端切れのように浮いているばかりで、だから視界が悪いわけがなかった。


 真樹は見た。じぶんたちのアパートから出てくるサングラスをかけた黒いスーツの男の姿を。


「蘭……、蘭!」

 真樹が蘭の袖を引いたときには、既に男はアパートの傍らに停めてあった自動車に乗り込んでいた。すぐにエンジンがかけられて、車が走り去る。

 咄嗟のことで、ナンバープレートを確かめておく、という発想が出なかった。車種だって、真樹にはよくわからない。ただ、男のスーツの色と同じ、黒い小型車だったということしか。


「蘭、ねぇ、いまの人………」

 真樹の言葉に、蘭は殆ど反応しなかった。見ていなかった? いや、少なくとも同じ方向を向いて歩いていたのだから、男の姿に気づかないはずがないのだ。昼に黒いスーツの男の話をしていたのだから、視界に入ればしぜんと注目するはずなのだ。驚いて然るべきなのだ。

 それでいて反応が無いならば、それは隠しているのだ。反応を。そして何かの事実を。

「誰かいた? 気付かなかったな」

 遅れて、蘭はそんなことを言った。平静を思わせる口調で、しかし幼い日から一緒にいる真樹には、その繕いは穴が空いて見える。


 僅かに早足になって、木造アパート一階の角部屋に戻れば、木造の汚れたドアから何かが突き出ている。郵便受けから端が僅かに見えているそれは、何の変哲も無い茶封筒に見える。このアパートには個々の部屋の戸以外には入口なんてものはないので、何か郵便物や届け物があるなら、直接手渡すか、このドアの郵便受けに差し込まれることになる。

 しかしここに越してきて以来、こんな郵便物は初めてだ。見たところ役所や水道局の印が押されておらず、またダイレクトメールの類でもないようだ。宛名はなく、どころか切手も貼っていない。郵便局を介したものではないのだ、と真樹は気付いた。たぶん、さっきの男が差し込んだものだ。

 真樹はそれを郵便受けから取った。あの男はいったい何を送りつけてきたのか。何を示そうとしているのか。何を教えたがっているのか。


 だがそれを知るまえに、蘭の白い右手が茶封筒を抜き取った。左手で鍵を開け、玄関を開く。

「なんだろうね、これ」

 と半ば笑いながら、蘭は封筒の口を千切って開いた。中から折り畳まれたA4サイズの紙が見えた。背面から透けて見えたそこにはワープロ書きらしい文章と、なんらかの写真のようなものが見え、一見して手紙だった。だが見えたのはそこまでで、蘭は大人の中では小柄なほうだが、発育途上の真樹よりはずっと大きい。だから、彼女が広げた封筒の中の手紙や写真の内容は見えなかった。

 だが代わりに、蘭の顔が目に入ってきた。手紙と写真に目が釘付けになっている蘭の表情が。驚いたように見開かれた瞳が。その表面で濡れる涙が。

「くだらない、ダイレクトメールだよ。広告だ」

 と、蘭は靴を脱いで家の中に入ってから、それをびりびりに引き裂いた。そして台所の小さなゴミ箱の中へと入れてしまった。


 真樹はドアが閉まったことも確かめずに、殆ど投げ出すように靴を脱いでゴミ箱に近づいた。

 だが真樹がゴミ箱に到達する直前、蘭がゴミ箱を掴んで、手の届かないところまで持ち上げてしまった。

「どうして?」

「これは……、駄目だ」

 と答えた蘭の表情から驚愕と悲哀は消え去っていたが、まるで皮膚を抓られているかのような痛みが垣間見えた。

 彼女はゴミ箱から、四つに千切った手紙を抜くと、己の胸元へと入れた。

「どうして? ただの広告なんでしょ?」

「見ちゃ駄目なやつだ」

「どうして? 見ちゃ駄目な広告って、どういうの?」

「だから、それは………」蘭は言い淀んだのち、「えっちなやつなんだ」と言った。

 何を言われたのか、真樹には当初理解できなかった。


 たとえばテレビドラマでキスシーンがあったりすると、蘭はその画面を見ないようにする。そして熊に出くわして後退りをするかのように、可能な限り自然態を装ってチャンネルを変えようとするのだ。

 それくらい、蘭と真樹の生活には、えっちだとか、いやらしいだとか、そういった卑猥な単語は遠ざけられていた。

 だがいまや、どうだろう。

「子どもが見ちゃ駄目な、そういうえっちなやつだ。いやらしい写真も載ってる。だから、見せられない」

 言い慣れないことを言うためか、蘭の顔は羞恥で赤く染まっていた。


「でも、えっちな広告だとして、あんな封筒に入ってたのはどうして?」と、こちらも恥ずかしさを堪えながら、真樹はあくまで問い詰めようとした。

「子どもが変に見ないように、ああいう封筒に入ってるんだよ」

「配達されたものじゃないし……」

「ああいうえっちなダイレクトメールは、直接投函するバイトの人とかがいるんだよ。おまえが見たっていう男も、たぶんそういうアルバイトの人だ」

 ああ言えばこう言う。真樹と蘭の遣り取りはまさしくそれで、蘭は大人であるぶん、言い訳の逃げ道を知っていた。真樹は蘭の言うことが嘘だと確信していながら、それ以上彼女を問い詰めることができず、ただただ睨みつけることしかできなくなってしまった。


「わたしのことが、信用できない?」

「できない」

「どうして?」

「だって、なんか隠してるもん」

「駄目か?」

 ふっと蘭の表情が変わった。羞恥でも怒りでもない。最初に封筒の中の手紙と写真に目を通したときと同じように、瞳が涙で薄く濡れていた。

 真樹は何も答えられなくなってしまった

「大丈夫」と、蘭が抱きついてきた。「大丈夫だからな」

 きゅうと抱き締めた蘭の肩は、震えていた。今なら彼女の胸元から容易に手紙が奪えると理解していながら、真樹は動けずにされるがままでいた。

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