第5話 蘭と黒服

 最近、真樹が笑顔だ。

 真樹は心根が優しい子だから、蘭と一緒にいるときに笑顔でいてくれるのは以前からのことだった。だが蘭が離れれば、その表情が寂しげな、悲しそうな、こちらまで手を握り締めなければならないものに変わってしまうということは知っていた。その表情こそが彼の心の内を表しているのだということも、知っていた。


 それが、変わった。真樹を学校に送り出し、アパートの二階の階段からその表情を伺ってみても、真樹の口元は持ち上がったままだ。下校時にふと姿を見つけることがあっても、瞳の色は濁っていない。

 大きいのは、神野清花の影響だろう。小学校の同じクラスの少女は、真樹と仲良くしてくれている。良い子だ。あのくらいの年頃では、友だちの存在が大事なのは当たり前だ。今までは転校ばかりで、真樹にはなかなか友だちができず、また作る方法を知らないのだろう。だから積極的な近所の少女の存在は、きっと真樹に良い影響を与えてくれているのだろう。


 真樹が笑顔でいてくれることが、蘭の幸せだ。しぜんに笑顔になることができて、接客も楽だ。

 こちらが笑顔になれば、相手も笑顔になった。弁当屋の店頭で相手をしていたのは、まだ二十代と思しき若いサラリーマンである。弁当を渡して、金銭を受け取って、それで幸せになるのだから、楽しい。


 もう少し己を過大評価してみれば、真樹の笑顔の理由は、蘭の仕事が変わったせいもあるかもしれない。

 もともと仕事を日々の糧を得るためと割り切っている身なれば、職に貴賎を求めたりはしない。それでも幼い子どもにとって、親の職に相応しいものとそうではないものがあるというのは、理解している。

 白瀬市に引っ越してくるまで、蘭は殆どの場所で夜の仕事をしていた。朝、登校する真樹を送り出してから眠り、真樹が帰って来てから起きる。夕方、早めに夕食を食べてから化粧をして、服装を整えてから出勤し、明け方に戻ってくる。朝になったら食事を作ってから真樹を起こし、一緒に食事を摂り、それから眠る。そんな生活だった。

 その時期は、金銭的には比較的余裕があったが、そのぶんだけ時間を失っていた。真樹と過ごせる時間が短かった。土日でも休日ではなかったため、真樹に時間を合わせることはできなかった。


 いまは違う。休日出勤もあるが、少なくとも土日のどちらかは休むようにしているし、平日は夕餉を共にできる時間帯に帰ることができるようになった。

 最近仕事に行くときに、真樹が快く送り出してくれるようになったのは、あるいは彼が水商売の意味を知り始めたからかもしれない。未だ上背は蘭より小さく、華奢ではあるものの、歳が十を越えてからは徐々に男になりつつある。男になれば、女との差も知る。蘭の仕事がどういうものだったのか、ということも予想できるようになる。

 いまはそうした仕事ではない。だから、安心して送り出してくれるのだろう。


 白瀬市で弁当屋やスーパーのレジ打ちといった昼のパートタイムの仕事を選んだのは、単にいま暮らしている地域が繁華街とは程遠い住宅街で、近場に色町の類が無かったからだ。時給が安いので不安だったが、結果的には心の平穏を取り戻し、生活は安定した。

 正午をだいぶん回って客が途切れたところで、店を経営する五十代の恰幅の良い女店長から、休憩に入ってよいと告げられた。狭い店内にも休憩室として使えるスペースは無いではなかったが、蘭は弁当を持って店の裏手に回った。


 白瀬市は坂の多い街だ。

 店の裏手には古惚けた薄緑色のベンチがあり、腰掛けて街の様子を見下ろすことができる。ここなら忙しくなったときには店からすぐに呼んでもらえるので、景色を眺めながら落ち着いて昼食を摂ることができる。蘭は箸を割り、余った惣菜を適当に詰め込んだだけの弁当を突きながら白瀬の街を見下ろした。

(暖かいなぁ………)

 秋口であれば、風は冷たいときもある。それでも陽が射しているのであれば、感じるのは羽織りを脱ぎたくなる程度の暖かさだ。眠たくなる。

(もう、こんなことは止めたほうがいいのかも………)

 ひと所に落ち着くことなく、全国各地を点々とする。落ち着く時間は一度としてなく、急き立てられるように棲み家を変えてきた。だからこんなふうにベンチに腰掛けて街並みを眺めるなどということは、そうそう無かった。

(もう、見つかるわけがないんだ)

 これまでは転居を繰り返してきたが、そうする必要も、もはやないのかもしれない。


 見下ろす街並みは背丈が低かった。遠く、市街地のほうはぽつりぽつりと高い建築物が並ぶものの、坂に並ぶ家屋はどれも小さく見えた。平日の午後であれば、ときおり車通りがある以外は静かなものだ。静かな午後はこれからの人生を象徴しているように感じられる。

(もう、真樹のことだけを考えて生きればいいんだ)

 蘭にとっての真樹は、はじめは単なる憐れみの対象だった。小さく、弱く、不安定な地面の上で泣いていた。蘭はそんな彼に手を差し伸ばした。

 それがだんだんと真樹の存在が大きくなっていた。いまはもう、蘭のほうが真樹に縋っているようなものだ。いや、もともとそうだったのかもしれない。なぜなら不安定な地面の上に立っていたのは蘭も同じだったから。


 真樹との日々は、まるで夢のようだった。

 蘭は忘れていた。夢はいつか醒めるものだということを。


 店の中から女店長に呼ばれ、客が来たのだろうと思いながら店内に戻った蘭が出くわしたのは喪服のような黒スーツを着た男だった。

「探しましたよ」

 彼は己のその格好が、探偵という職業にしては威圧感を与えすぎるものだと自覚しているのだろうか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る