第4話 真樹と黒服

「誰が来ても、ドアを開けちゃ駄目だぞ」

 午後に仕事があって家を空けるとき、蘭は仔山羊の親のように、いつもそんなふうに言い残す。その言葉は今日も一言一句に至るまで同じだった。


 仕事に行く途中だから、と言って小学校の前まで迎えに来た蘭だったが、「まだ時間に余裕があるから」と言って、真樹と清花と一緒に、一度家まで戻った。こうなれば、もはや仕事の行きがかりというのは言い訳にもならない。

「真樹くん、蘭さんが帰って来るまでひとりなんだったら、うちに来る?」

 清花がそんなふうに誘ってくれたが、蘭が仕事を終えて帰って来るのが二十時を過ぎることを考えれば、遅くなるまで彼女の家にそこまで邪魔をするのは申し訳なく。何より、真樹は仕事帰りの蘭を待ち、出迎えてやりたかった。だから真樹は清花の申し出を断った。


(清花ちゃんは優しいな)

 これまで両の指では足りぬほど転校を経験し、たくさんの同年代の子どもたちに会ってきた真樹だったが、清花ほど優しく、心遣いのできる少女に出会ったのは始めてだった。ふたりきりでいても沈黙が訪れぬほど雄弁なのは、状況によっては欠点にもなりえるのかもしれないが、どちらかといえば寡黙な部類に属する真樹にとっては、彼女のお喋りはありがたかったのだ。

(やっぱり、一緒にいてもらえば良かったかな)

 キッチン付きの六畳のワンルームで、真樹は壁に背を預けて膝を抱えていた。陽が傾いてから降り始めた雨が気温を下げていたため、毛布を被って。


 電灯も点けずにこうしていると、蘭の言葉も手伝って七匹の子山羊を思い出す。もっとも、真樹はひとりきりなのだから、七匹の仔山羊ほど賑やかにはできるわけでもないし、身体を隠せるほどの家具があるわけでもない。狼が来ても、震えていることしかできない。

 一緒にいたいと言えば、ひとりきりにはならなかっただろう。言えなかった本当の理由は、蘭の前で弱さを見せたくなかったからだ。心配をかけたくはないというのとは、少し違った。蘭に、弱い男だと思われたくなかった。

 義理とはいえ親子で、ひとつ屋根の下で寝起きをしている間柄である。いまさら弱みを見せないなどということは不可能なことではあるが、それでも真樹は強がりたかった。


 真樹は子どもで、だから強くは無い。金を稼げない。ひとりでは生きていけない。蘭に頼らなくてはいけない。蘭に助けさせなければいけない。真樹は、弱い。ああ弱い。だが強がることはできる。

 こんなふうに考え始めるようになったのは、最近だ。蘭に良く思われたくなった。いつまでも子供だと思っていたけれど、ああ、こんなにも逞しくなったのだな、頼り甲斐が出てきたなと、そんなふうに思われたくなったのだ。

 もっとも、こんなふうに強がったところで、蘭は大人の女性だ。真樹の考えなんて見越しているだろう。強がっていることなどわかるだろう。馬鹿だと思うかもしれない。それでも、それでも。


 ノックの音が響いた。六畳ワンルームの狭い家だ。ドアは玄関にしかないのだから、来客に違いない。

「訪問販売なんて受けてやる理由はないし、うちに用件がある人だったら先に連絡があるはずなんだから。訪ねてくる人がいても、無視していいんだぞ。真樹は可愛いからな」

 これも蘭が出かけるときに毎回言い残す台詞のひとつだ。

 陽が落ちても電灯を点けないでいたため、来客はすぐに留守だと考えるだろう。どうせ新聞の勧誘だろう。真樹はそう思って座ったまま動かなかったが、二度目のノックがされた。宗教の勧誘だろうか。三度目。NTTの集金かも。


 転居を繰り返してきてきた真樹にとって、こんなにしつこい来客は初めてのことだった。興味と不安を抱え、足音を殺して玄関に近づいてみる。

 このアパートには、インターホンなんて近代的な設備は無いが、ドアに覗き窓くらいはある。キッチンの上棚から出し入れするために置いている台を引き寄せて、小さな覗き窓から覗く。既に訪問者は戸から離れてしまい、側面を向いていて、狭い視界も相まって顔はよく見えない。だが、相応の年齢の男であるということと、黒いスーツを着ていること、黒いサングラスをかけていること、それにサングラスで見え難かったが、左目の上に斜め走った切り傷のような痕があるということがわかった。


 外では秋雨が降り始めていた。


 二十時を半ばまで頃に、蘭は帰ってきた。

「真樹、遅くなってごめんね。お惣菜貰ってきたよ」

 走ってきたのであろう、パート先の弁当屋の袋をキッチンに置いて蘭が抱きつけば、服が少し濡れていた。蘭が着替えているうちに、真樹は背を向けて、作っておいた味噌汁を温め、ご飯を盛った。弁当屋のパートが終わったあとは、いつも余った惣菜を貰えるため、こうして準備をすることになっている。


「さっきね、人が訪ねてきたよ。さっきっていうか、五時くらいだけど」

 と真樹は蘭に背を向けたまま話しかけた。

「人? 誰?」

「わかんない。黒いスーツの男の人。黒いサングラスをしてたから、訪問販売には見えなかったけど」

「え?」

 明らかな驚きと狼狽とを示すその声に、真樹は思わず振り返りそうになった。まだ下着姿かもしれない、と思えば、自制したのだが、あるいは蘭の声に驚いたふりをして、振り向けば良かったかもしれない。


 結局は踏みとどまったのだが、それでも蘭の、小さな小さな呟きが聞こえた。

「まさか………」

 まさか、と聞こえた。まさか、とだけ聞こえた。

「真樹、何か言われたの?」

「いや、えっと、どうしようかと思ってる間にいなくなっちゃったから……、覗き穴から見ただけ。喋ってないよ」

 と真樹が正直に答えれば、「そう、良かった」と安堵の表情が返ってきた。黒スーツにサングラスなんて不審な格好、明らかに誘拐犯っぽい格好だもんね、危ないから、そういうのは開けなくて良いよ、ほんとに、真樹は可愛いから、攫われたら大変だもん。そんなふうに誤魔化したところで、蘭が黒スーツの男に反応したという事実は消えない。

 もうひとつ、気になることがあった。

 どこにでもあるようなスーツ姿だというのに、今日訪ねてきた男が、真樹は今朝の歩道橋の上にいた男と同一人物に感じられたのだ。

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