第3話 真樹と携帯電話

「真樹、携帯買おうか」

 納豆をかき混ぜながら蘭がそんなことを言ってきたのは、誘拐騒ぎから一夜が過ぎた朝である。


 昨日の出来事を考えれば、またあのような誘拐事件が起こるやも、と考えているであろうことは間違いない。つまりは、真樹のことを心配しているのだろう。

「心配するのは当たり前だ。誘拐されそうになったばかりなんだぞ。一度あることは二度ある、二度あることは三度あるというだろうに。昨日は清花ちゃんがいたから良かったものの、毎度毎度あの子が助けてくれるということもないだろう?」と蘭が言葉を連ねた結論で言うところには、「真樹は可愛いから、いつも心配なんだぞ」ということらしい。

 納豆の器を卓袱台に置いて、焼き鮭の匂いを立てるフライパンへと蘭は戻っていく。キッチンに繋がった六畳一間の狭いアパートであれば、真樹は炊飯器から米をよそいながら、その背を見つめることができた。蘭のエプロンの下の恰好はジーンズパンツに無地のブラウスと飾り気が無いが、可愛らしいという表現は、男の真樹よりも彼女のほうが似合うはずだ。


 そうだ、蘭は可愛らし若い女性だ。


 その感覚が家族であるがゆえの贔屓目ではないことは、昨夜の神野清花や刑事の反応を見ればわかる。

(なんで蘭はぼくを引き取ったんだろう………)

 真樹は昨夜の蘭の返答を、彼女が心の裡を曝け出したとは思っていなかった。

 たとえば親戚だというのなら、わかる。血の繋がりがあるならば、それがどんなにか薄い繋がりであったにせよ、理由があるのだということで納得できる。ほかのどんな理由でも。だが真樹と蘭との間には、繋がるだけの理由がなくて、しかし蘭は優しい。過保護過ぎるきらいはないでもないが、真樹は蘭のことが好きだ。

 だから、なぜ彼女が己の人生を犠牲にして、真樹を育ててくれるのかがわからない。わからないから、不安になる。いつか、自分の目の前から消えてしまうのではないのかと。


「ぼくが携帯買うとなると、蘭も買うからだいぶお金がかからない?」と真樹は返答した。

 蘭は現在、携帯電話を持っていない。以前は契約していたのだから、携帯電話が苦手だというわけではないのだろう。たぶん、単なる節約だ。

「わたしはいいよ」

「だって、そしたら何かのときは誰に電話するの?」

「警察とか?」

「それなら清花ちゃんが持ってたような防犯ブザーで十分だよ。ていうか、それだったら学校で貰ったのを持ってるし。だいたい、昨日みたいな状況だったら、携帯電話持っててもしょうがないと思う」

 むぅ、と蘭が唸る。説得を諦めてくれたのだろうか。


 携帯電話が欲しくない、というのは本心ではなかった。欲しいか欲しくないか、でいえば、欲しい。とても。掌大なのに様々な機能がある道具というのは、それだけで楽しそうだ。

 それでも、いらないと、欲しくないと、そう言ったのは、費用対効果を考えれば、わざわざ買うほどでもないと思ったためだ。なにせ、懐に余裕がない。


 六畳一間のこの部屋を見れば、金が無いことは誰からしても明らかであろう。トイレと風呂はユニットバスがあるものの、部屋は六畳ひとつきりで、台所とも分かれていない。中央に卓袱台があるだけで、電化製品は炊飯器の他は、前の住人が置いていったとという古い冷蔵庫だけ。押し入れの収納があるばかりの小さな家は、小さいほうが蘭が身近に感じられるから良いとは思うが、小学生の真樹にだって、この部屋が親子が生活する平均的な物件よりは、いくぶんランクが落ちることはわかっている。

 金が無いのは、蘭がひとりで働いているからというのもあるが、収入よりもむしろ支出のほうに理由がある。


 引っ越しが多い。

 それが単純なる支出の理由である。

 真樹は物心ついて以来、それはつまり、ほぼ蘭に引き取られて以来、ということだが、何度引越ししたか覚えていない。早いときは、ひと月もひとところにいなかったことさえある。長くて、せいぜい一年を少し越えたくらい。敷金礼金がなるたけ必要ない物件を選んでおり、業者に頼むような荷物は少ないとはいえ、引越しには金がかかるものだ。


 引越しは厭だ。新しい土地には簡単に馴染めず、友だちもなかなかできない。ようやく根を下ろせそうになったところで、またすぐに引っ越すことになってしまうのだ。

 貧しいこと、節約しなければならないこと、家が狭いこと、物が無いこと、それらは構わない。材料が粗末でも、ふたりで丁寧に料理をすれば食卓は鮮やかに彩れるからだ。部屋が狭くとも、気の置けないふたり暮らしだからだ。服が擦り切れても、蘭が丁寧に縫い直してくれるからだ。何より、蘭の存在が身近に感じられるからだ。

 だから、引越しが多い、というのが、蘭との生活の中での唯一の不満点であった。たとえば昨日の神野清花のような、初対面から親しげに話しかけてくれる存在は貴重で、嬉しい。それでもすぐに別れることになるということが判っていれば、楽しい時間も、悲しい。

 なぜ、蘭がこんなに何度も引越しをするのか、真樹はその理由を知らない。


 普通の家庭なら、引っ越す理由は仕事の都合で、でなければ、ほかの並々ならぬ事情があって、といったところだろう。だが蘭の仕事はスーパーのレジ打ちやレストランのウェイトレスのようなアルバイトであり、それ以外であれば、こちらのほうが多かったのだが、夜の仕事だった。どれにしても、転勤が必要なものではないはずだ。そのほかの引越しが必要な事情を考えてみても、土地を追われるようなことを仕出かしたような覚えはないし、虐めを受けるほどその土地に浸透したことはない。だから、理由がわからない。


 真樹は素直に、その理由について直に訊いてみたことがある。

「それは………」

 いつもは明るく快活な蘭が、珍しく口篭ってしまったのを覚えている。変化した表情の先は悲しげで、だからそれ以上追及できなかった。だから未だに、こんなに引越しをする理由がわからない。わからないまま北海道へ行ったこともあるし、関西に住んでいたこともある。いまは東北だ。

 彼女のことが信頼しきれないこの状況が、苦しい。蘭がなぜ、真樹と一緒に暮らしているのか。なぜ、引越しを繰り返すのか。普通の親子なら、こんなことないのだろうか? 隠し事など、何も無いのだろうか? あるいは何か隠し事があったとしても、無条件に信頼できるものなのだろうか?


 朝食を終えてから、真樹は身支度を整えてランドセルを背負う。もう登校しなければならない時刻になっていた。

「真樹、ひとりで大丈夫?」

「ひとりじゃないよ。清花ちゃんが一緒だから」

 昨日、神野清花とは一緒に登校をする約束をしたのだ。待ち合わせは昨日誘拐騒ぎがあった場所の近くで、真樹の足でもすぐそこだ。

 それなのに、待ち合わせの場所まで一緒についていこうか、などと蘭は言うのだから、蘭は過保護に違いないのだ。

「だって心配じゃないか。昨日の今日なんだぞ」

 そんなふうに追い縋る蘭を振りきって、真樹はアパートを出た。


 真樹は蘭以外の母親なんて知らない。他人に訊こうにも、立ち入った話ができるほど仲良くなるまえに転校してしまうのが常だ。友人の家に遊びに行ったこともない。だから他の家庭の知識といえばドラマがせいぜいで、それと比較すると、やっぱり蘭は過保護だ、と思う。

「うちのお父さんも、そんなかんじだよ」

 どこか出かけようとすると、いつ帰って来るんだ、暗くなるまえに戻って来るんだぞ、とか言うんだもん。登校するための待ち合わせ場所で合流した神野清花はそんなふうに言った。清花とは昨日の一件があったことで、なぜだか話しやすくなっていて、だから相談もできたのが嬉しかった。


 小学校の校門に立っている教師は、昨日はひとりだけだったはずだが、今日はふたりが立って生徒たちに挨拶をしていた。昨日の事件が関係しているのかもしれない。

(あれ………?)

 開かれた校門の敷居を跨いだとき、正確には校門を跨いで右手側にある下駄箱へと向かおうとしたとき、真樹はふとした違和感を感じて立ち止まった。

「どうしたの?」

「なんでもない」

 と清花に返してすぐに歩き始めたものの、真樹の中には疑心が渦巻いていた。

 白瀬小学校の校門は二車線の道路に面している。小学校に面しているからには、道路には鮮やかな緑色の歩道橋が架けられており、交通ルールの書かれた垂れ幕が下げられている。

 その歩道橋の上に、人が見えた。背格好から、たぶん、男だ。

 歩道橋なのだから、人が行き交うのは当然だ。だがその男は、校門をじっと見つめていたように感じられたのだ。

 とはいっても、一瞬のことで、真樹は視界の端でそれを確認しただけだ。実際、振り返ってみれば男は既に背を向けて歩道橋を降りようとしていたし、長時間怪しげな視線を向けていれば、校門で見張りをしていた教師たちが気づくはずなのだ。

 だから、なんでもない、と清花には言った。きっと自分の神経が過敏になっているのだ、と思いつつ。


 その後は特に何事も無く、午後になった。ホームルームが終わってから、真樹はランドセルを机の上に立てて机の中身を詰めていた。転校生ということで空き席だった場所に割り当てられた教室のいちばん左隅の席から、神野清花の様子を伺う。彼女は教室の中央で机に座り、他のクラスメイトと喋っていた。会話の内容は他愛の無いもので、だからこそ終わりが見えなかった。

 少女らの背に分け入って彼女を呼ぶこともできず、さてどうしたものかと溜め息を吐いて窓の外を見たところで、真樹はすぐさまランドセルを背負って教室を飛び出した。五年生の教室は三階建ての校舎の三階西側にある。下校中の学生が多い階段を駆け下りる。

 転びそうになりながらも下駄箱に辿りついて、靴を履くのももどかしく、殆どつっかけで校庭を走る。黄土色の砂埃の舞い上がる校庭では、タッチラインもゴールラインも無い中でサッカーが行われている。薄汚れたバレーボールを蹴り合うだけのサッカーの只中を突っ切ってボールを蹴飛ばす。ランドセルを投げ出した少年たちがボールを追いかけていくのを尻目に、真樹は校門へと辿り着いた。

「蘭!」

 息を切らせて声を張り上げれば、名を呼ばれた当の人物はびくりと震えた。

 

 小学校の向かいにあるマンションの柵に腰を預けていたのは、三階の教室から遠目で見たのと違わず蘭だった。真樹が蘭のことは見間違えようもないのだ。

「真樹……おかえり」

 まだ家じゃないけど、と片手を挙げる蘭はジーンズを履いたいつもの簡素な格好で、人が人なら不審者と思われるだろうが、たぶん蘭なら父兄と問題無く認識されるだろう。

「蘭、どうしたの? 今日、お仕事は?」

「うん……いや」蘭は柵から身体を離して立ち上がる。「今日は今から仕事で、だから通りがかりに寄ったんだ」

 駆け寄って蘭の手を取る。冷たかった。昼とはいえ、秋口、冷たい風が通り抜ける中でじっと待っていれば、しぜんと冷えるものだ。蘭が仕事のついでに通りがかったのではなく、ここで待っていたことは明らかだった。


「ごめん、迷惑だったか? 友だちと帰るところだった?」

 蘭がしゅんとした表情になったため、「そんなことないよ」と真樹は慌てて否定した。

 どうせ友だちもいないから、などとまでは言わなかった。蘭が心配する。それはわかっている。

 だが、言わなくても、何も告げなくても、蘭だって推測できているはずだ。転校してばかりの真樹に、そう簡単に友だちなどできないことに。蘭は馬鹿ではない。

 それなのに、引越ししてばかり。まるで真樹のことなど考えていないかのように、その理由など何も告げずに、点々、動いていく。飛んでいく。

(でも、蘭はぼくを愛してくれている)

 いつもじぶんのことは気にかけず、真樹に尽くし、昨日のように真樹の身体に何かあれば、涙を流して泣いて、声を上げて怒る。今日もこうして身体が冷たくなってまで、真樹のことを心配して待ってくれていた。だから真樹は蘭のことが好きで、たぶん蘭も真樹のことを愛してくれている。少なくとも……少なくとも真樹はそう信じている。


「真樹くん」

 声に振り返れば、神野清花が駆けていた。

「と、えっと、蘭さん」

 えっと、どこかへお出かけですか、何も無いなら、真樹くんと一緒に帰ろうと思ったのですが、と言葉を紡いだ。

 清花が真樹を追いかけてきたのは、真樹と一緒に帰りたかったというよりも、単に昨日誘拐事件に巻き込まれそうになった真樹を心配したからかもしれない。だが心配してくれるなら、その間柄は十分に友だちと呼べるもののような気がして、嬉しかった。

 清花がやって来たことで、真樹は改めて引越しを続ける理由を蘭に尋ねる機会を失った。

 どうせいつでも訊けると思った。だが同時に真樹には、次に尋ねられる勇気が出てこないことはわかっていた。これまで幾度となく機会があったのに、深くは追及できなかったのだから。

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