第2話 真樹と蘭

「おまえは、馬鹿なのか」

 蘭の声だった。馬鹿だ、おまえは馬鹿だ、と蘭は何度も言った。

「え、なんだ? 実はおまえがどこぞの御曹司だとか、王子さまだとか、そういう話を期待していたのか? そんなわけないだろう。知らない人についていくなと、いつも言っているのに、なんでそれがわからないんだ。馬鹿か、おまえは」

 声が頭の上から聞こえているからには、顔には豊かな胸が押し付けられていて、艶やかな長い髪はくすぐったくて、柔らかい腕で抱かれていて、ぽたぽた涙の粒が落ちてきていて、温かくて、だから真樹には何も言葉を返しようが無かった。


「お母さん、そろそろ……ね、ほら、落ち着いてこのください。無事だったんですから」

 と取りなそうとするのが禿げかかった中年の刑事であるからには、場所は警察署である。真樹がこの九月から住んでいる白瀬市の所轄署、白瀬署の刑事課であるのだが、警察署の中に入ったことなど、初めてだった。署員は制服が多かったが、刑事課に入ると会社員のようなスーツ姿ばかりで、規則正しく並んだ机の上には雑多な書類やファイルが散らばっていて、想像していた屈強な刑事の居場所というよりは、むしろ繁忙期の会社のオフィスのように見えた。会社のオフィスにしたって、空想でしか知らないのだが。

 刑事課には真樹と蘭、刑事たちのほかに、ランドセルを抱えた少女が応接用と思しきソファに座っていて、それがクラスメイトだっただけ、蘭に抱かれているこの状況が少し恥ずかしかった。


 真樹の髪を搔き撫でてから、ようやく蘭の身体が離れた。

「すいません………」

 と蘭は涙と鼻水を拭いながら、刑事たちに謝罪をしたが、その意図は公の場での抱擁と叱責に対するものか、それともそれ以前に起きた出来事に対してか。

「それと、きみもありがとうね。えっと、何ちゃんだっけ?」

 蘭が次に声をかけたのは、ランドセルを抱く少女に向けてであった。

 うつらうつら、眠そうに櫂を漕いでいた少女がすぐさま反応して背筋を伸ばす。

「はいっ、神野清花こうのさやかと申しますっ。真樹くんのクラスメイトになりましたっ!」

 敬礼までされた。

「清花ちゃん、ほんと、ありがとね。おかげで真樹が無事だった」

 それは大袈裟な表現ではなかった。だから真樹も蘭も清花も警察署に居る。


 下校路で真樹に声をかけてきた黒い車の男は、児童誘拐犯だった。前科があり、出所後にも同じような犯罪を仕出かしていたという男だったのだという。

 つまりは、嘘だった。

 本当の家族を知っている、蘭が嘘を吐いている、などという話は真っ赤な嘘だったのだ。

「人気の無い道をひとりで歩いていたし、素直そうに見えたから騙し易いと思った、ということでした」

 と、おそらく取調室なのであろう、硝子窓付きの部屋から出てきた若い刑事が告げた。


 誘拐犯の予想はまさしく正しかったといえる。まんまと真樹は騙されて、半ば車に乗り込もうとした。そしてそれを止めたのが神野清花だった。

「だって真樹くん、お母さん以外に家族いないって言ってたし、引っ越してきたばっかりだから知り合いもいないはずだし、それに、あの人すごく悪そうな顔だったから」

 そんな理由から、清花は防犯ブザーを鳴らしたのだ。

「知ってる? これ、抜いたピン、元に戻せば止まるの。だから、もし間違いだったらすぐに戻して謝ればいいかな、って思って」

 彼女は明日、一緒に登校をしないかと提案するために、一度別れた真樹を追ってやってきたのだという。その気紛れと咄嗟の判断が、真樹を救ってくれた。

 防犯ブザーの音を聞くや否や、車の男が動揺を見せて慌てて運転席に乗り込んでエンジンをかけたため、それでようやく真樹は男の不審さに気付いた。車を飛び降りて、清花とともに逃げた。いつの間にやら人が集まってきていて、駆けつけた刑事が助けてくれた。不審な男を捕まえて、ふたりを保護してくれた。連絡を受けて蘭が駆けつけたのは、つい先ほどのことだ。


 清花の母親も遅れてやってきた。蘭に劣らず、娘のことを心配したようで、真樹も蘭も心配をかけたことを詫びた。娘の友だちが無事で良かった、とこちらを気遣ってくれるのだから、清花の母親は良い人だった。

 蘭とともに帰路に着く。既に夕餉の時間をとうに過ぎてしまっていたので、帰り際にラーメンを食べた。日頃、外食などあまりしないので、新鮮だ。外でラーメン。いかにも夜の外食らしくて、長く油で汚れたカウンターテーブルも、鼻水が出るほどに熱いスープも、客が出入りするたびに怒鳴るように声をかける店員も、真樹には楽しかった。


 夜。

「真樹」

 と隣の布団から声が聞こえてきた。

「真樹、ほんとのお母さんが欲しいの?」

「そういうわけじゃないよ」

「じゃあ、どうしてほいほい騙されたんだ」

 布団から伸びた柔らかい手が、真樹の肩を掴んで引き寄せた。小さな部屋の中、月明かりに照らされた蘭の顔は白く光って見えた。

「ただ、蘭がどうしてぼくを引き取ったのか気になったから」

 真樹の返答に、蘭は小さく笑ったようだった。

「前も言っただろ。そんな大それた理由なんて無いんだ。ただ、おまえもわたしもひとりだったから、だから親子になっただけなんだ」

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