第一投 ファウル

第1話 真樹と家族

「鈴木くんのお母さんって、美人だよね」

 つつつと歩み寄ってきてそんなふうに声をかけてきたのは、未だ名前と顔が合致しないクラスの女子のひとりであった。


 小さな机に小さな椅子が並ぶ白瀬小学校の三階、南校舎の五の一の教室は生徒たちの声に満ち満ちていて、会話をするのには集中力を要する程度に騒がしかった。だというのに教務机で書き物をしている担任教師が何の注意もしないのは、ロングホームルームが終わったばかりの放課後だからだ。 

「昨日会ったんだけど、すっごく若くて、綺麗だよね。何歳なの?」

「えっと、26歳」

 と鈴木真樹すずきまきは己の知りうる限り正直に返答した。

 周囲に視線を向ければ、生徒たちは教室の端にある背の低い木製の二段棚からランドセルを取り出し、友だちと連れ立って教室を出て行こうとしているか、でなければグループで集まってお喋りに興じており、真樹と目の前の少女の会話に聞き耳を立てているような存在は無かった。


「26歳?」

 少女が首を傾げるからには、若すぎると思ったからだろう。真樹も目の前の少女も、小学五年生であるからには年齢は十か十一であり、母親の出産年齢も逆算できる。血の繋がりがあるのならば。

「すごく若くて可愛いね。うちのお母さんより、えっと、八歳下だなぁ」

「ほんとのお母さんじゃないから」

 と指折りしながら数える少女に訊かれてもいないことまで答えてしまったのは、急に話しかけられて慌てていたからだったが、相手の表情を見て、すぐに迂闊な言動を後悔した。

「ごめんね、急に訊いちゃって」

 今まで明るい顔をしていた少女の顔が僅かに曇った。血の繋がりのある親がいないということを言わせてしまった、とばつの悪さを感じたのだろう。


 もしこうした失言をしてしまったのが真樹だったら、それを申し訳なく思いつつも、口が回らず、勇気も度胸も無いし、そもそも相手が勝手に言ったのだから、自分は悪くないのだ、と思いつつも、苦しく、悲しくて、何も言えなくなって固まってしまっていただろう。目の前の少女は、偉い。分別があるとでも表現すれば良いのだろうか、と同い年ながら真樹は感心した。

 厭な気持ちにならなかったのは、ひとつには目の前の少女が優しい子だったからだったが、それ以上に大きかったのは、真樹にとっては現在の母が血縁者ではないことなど、何の苦でもなかったからだ。


 らんという女性と暮らすようになっておよそ六年。

「真樹、今日のご飯は何がいい?」

 白瀬小学校に面した道路を南下して、小さな商店や問屋を眺めながら十分。晴れていると飛行機の離発着によって規則正しい時刻に耳をつんざくような轟音が巻き起こる自衛隊基地が見えるところにある、二階建ての木造アパートの二階、一号室に入ると、蘭が玄関まで真樹を出迎えてそんな言葉を投げかけてくるだろう。蘭の名は鈴木蘭子すずきらんこというのだが、真樹は幼い頃から彼女を蘭と呼んでいた。蘭もそれを嫌がらなかったし、むしろ彼女のほうから奨励していたような気もする。物心が着くか着かないかの頃のことなので、よく覚えていない。

「なんでもいいよ」

「なんでもいいは駄目っていつも言ってるだろうが。毎日献立考えるのは面倒なんだぞ」

 という会話ができるようになったのは、この九月に白瀬市に引っ越してきてからだ。それまでの蘭は夜の仕事が多く、真樹が学校から帰って来る頃に起き、逆に真樹が目覚める頃に蘭が眠るということもしばしばだった。そうした過去があったゆえ、真樹は昨今の日常が嬉しく、今日もそんなやりとりがあるに違いないと思えば、登下校の道程も楽しみだった。


 途中まで一緒に帰ろうと言ってきたクラスメイトの少女と別れ、アパートへの道を歩む。その端に、黒い車が止まっていた。左右に古い家屋やシャッターの降りた小さな問屋のある、そう広くはない道で、だからその止まっている車を避けるように回り込もうとしたとき、運転席のドアが開いた。

「きみ」

 真樹ははじめ、その声が己に向けて投げかけられたものだとは思わなかった。


「きみの本当の家族のことが知りたくないかい?」


 そんな言葉を投げかけながら車から降りてきたのは、三十代くらいの男だった。黒いズボンに、鼠色のパーカーを着ていて、全体的に暗い印象がある。

「え?」

 立ち塞がった男を前にして、真樹は頭が回らなかった。

 家族。

 本当の家族と言ったか。

 真樹の家族といえば、蘭だけだ。もし血が繋がっている家族のことを本当の家族のだというのなら、蘭はそれに該当しないだろう。だがそのことに真樹はなんの不満も無い。真樹は蘭が好きだから。

「きみのお母さんは、嘘を吐いているんだよ。本当の家族に会いたくないかい?」

 だが真樹は、男のその言葉を前にして立ち尽くしてしまった。

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