第12話 清花と石田

 煙草を挟む二本の指は、ごつごつしていて硬そうだ。咥える口の周りには無精髭が生えている。腕も脚も首も太くて、自分とは勿論、同性にしても高校の同級生や真樹とはまるきり別物の生物のようにも見えた。

「おれは石田という」

 と、今や脱いで椅子にかけているものの、黒い外套の男は名乗った。そして、「きみは?」とも問いかけてきた。


 清花は迷った。迷いに迷った。

 というのも、対面の男は立派な体格の男性である。子どもの頃は自分の二倍も三倍もある大人も平気だったというのに 、目つきは険しく、眉の下の傷も相まって恐怖を感じる。でなくても、大人の大柄の男というだけで、本能的な恐ろしさを催さずにはいられない。

「あなたは……探偵さんですか?」

 だから、名乗り返さずにそんなことを訊いてしまった。


 想定どおりの返答が戻ってこなかったからだろう、石田は一瞬、吃驚したような顔になってから、僅かに目を細め、清花の目から、清花がまだ手をつけていない豆乳ラテのカップへ視線を移し、そして最後に清花の目へと視線を動かした。

「そうだね。小説とかで見るようなやつじゃないけど」

 と言って、石田は薄い紙片を取り出した。その存在は知ってはいるものの、学生には滅多に触れる機会が無いもの、名刺である。石田鉄という名と、東京の地名、春川探偵事務所という名が書かれている。事務所に石田の姓が入っていないということは、本人の弁の通り、小説でよくあるような探偵と助手だけでやっていっている零細事務所というわけではないらしい。仕事内容は殺人事件の解決などではなく、人捜しや身辺調査を行う、いわゆる興信所というものの類だろう。


 石田は悪い人間ではなさそうだ、と貰った名刺を財布に入れながら、清花はそんなことを思った。たぶん、優しいのだろう。清花の感じている恐怖を理解して、清花が名乗らずとも許してくれているのだから。

 でなければ、清花を踏み台にしてでも、何か得たい情報があるのか。 

 彼は若く見積もっても清花よりもひと回りは年上だろう。それだけ長く生きていれば、老獪にもなる。探り合いが得意になる。腹の底など見せはすまい。そもそも、彼の目的が知れないのだ。となれば、どんなにか言い訳をしても警戒しないわけにはいかない。


「きみは、秋月真樹くんの友だちなんだろう?」

 と石田は質問を変えて尋ねてきた。

「わたしは……」

 言葉を発しかけて、清花はまた迷った。

(この人、真樹くんのいまの苗字を知ってるんだ………)

 五年前、蘭が失踪した直後、真樹は隣県の孤児院に引き取られた。その背景事情を清花は知らなかったが、いまならある程度は想像できる。単純に定員だとかの理由があったのかもしれないが、母親だった女性が蒸発したという背景も理由のひとつだったのだろう。子どもは繊細で、無神経だ。周囲に事情を知るものがいて、親きょうだいもいないのであれば、元の所に置いておくのは環境として良くない、と孤児院を決めたであろう役所の人間はそう思ったのかもしれない。少なくとも真樹の取り扱いに無神経ではなかったわけで、であれば彼の情報の取り扱いには慎重になってくれただろう。


 そういった背景を考えれば、五年前の蘭の失踪後の真樹の足取りを辿ることは、そう簡単ではないのではないかと推測できる。孤児院を突き止められたとしても、個人の、特に子どもの情報の取り扱いに関しては厳重だろう。その後の足取りはなかなか辿れないはずだ。

 ならば石田は、なぜいまの真樹の苗字を知っているのだろうか。

 彼は真樹のことを調べたのだろうか。

 やはり真樹の足取りを突き止めるためにここに来たのではないか。

「どうしてそんなことを訊くんですか?」

 清花はそんなふうに訊かずにはいられなかった。


 質問を無視した返答が二度続けば、石田は怒るというより戸惑ったらしかった。視線を灰皿へ、己のカップへと彷徨わせる。

 なぜかその仕草を見ていると、大きい石田が小さく見えて、不思議に可哀想な気がして、清花は慌てて先のふたつの質問への返答をせずにはいられなくなった。

「あの、わたしは神野清花と申します。真樹くんとは小学校のときからの友だちで……蘭さんのことも知っています」

 そう言ってやると、石田は喜ぶというより、安堵の表情になった。コミュニケーションが取れたことに安心したのかもしれない。自分は人の話を聞かない身勝手な、どころか阿呆の若者と思われていたのだろう。


「きみは、鈴木真樹くんからおれのことを聞いたと思うんだけど、合ってる?」

「真樹くんは、蘭さんがいなくなったときにあなたがいたって言ってました。黒いスーツにサングラスで、あと左目の上に傷があったって。それで、なんとなく似ていた気がしたので、声をかけました。だから……えっと、真樹くんは蘭さんのことをずっと探しています。あなたは蘭さんの行方を知っているのではないですか?」

 表面的な事情を打ち明けたうえでそう問えば、石田は目を瞑った。歳を経るたびに身とともに表情も固くなるのだろうか、彼の心の内は読み取れなかったが、喫茶店の薄クリームの壁から浮き出たような黒い石田の姿からは、どこか諦めのような、達観したような色が感じられた。


 瞼を開いたときに、指の間に挟んだ煙草から灰が落ちた。「彼は、まだ彼女を探しているんだね?」

「そうです」

「どうして?」

「それは……」清花は認めたくないことを言わなければいけなかった。「好きだからでしょう」

 ああ、そうだ。そうなのだ。

 真樹が好きなのはほかでもない、鈴木蘭子という人だった。


 清花のことを嫌っているとは思わない。むしろ人見知りの気のある真樹のこと、単純に子どもの頃から知っている間柄であり、近くに住んでいる清花のことは、好いていてくれただろう。いまも、好いていてくれているのだろう。だからお付き合いの関係になった。

 だが真樹の視線は、ずっと蘭だけを向いていた。

 だからだ。だから追っている。

 だからだ。それ以外に理由などない。


 清花は己の中がすぅと冷めていくのを感じた。喫茶店のBGMはいつもよりずっと耳障りで、目の前に行きずりの男が居たのでなければ、テーブルに拳を叩きつけていたかもしれない。そうしていたとしても、テーブルがそうは簡単にひっくり返ったりはしないということを、同系列の店舗で働いて知っている。木製の天板から伸びる黒の支柱は皿を裏側にしたような形の台座によって支えられているのだ。足元は重く、そう簡単に崩れたりはしないのだ。だがカップは揺れるだろう。中の液体は溢れるだろう。何も起こらないはずがない。そうだ、ただ突っ立って何もしないでいるよりも、何かをしたほうがマシだ。清花はこれまで、そう思いながら真樹のことを助けてきたのだ。


 清花は目の前の男に視線を送る。店内に入ってからは外套とともにサングラスを外していたため、その視線の先がよくわかる。石田はコーヒーカップを持っていたが、視線は揺れていないテーブルの木目に向いていた。

「いつもサングラスを掛けているのですか?」

 機を先んずることができるタイミングだった。石田の注意は、間違いなくこちらに向いていなかった。問えば、その解答の片鱗でも示してくれるだろう好機だった。だというのに、清花の口から出てきたのは蘭を探すための言葉ではなく、石田に関する、殆ど興味だけで構成された疑問だった。

「いつもではないけど」

「その恰好、目立ちませんか?」

 黒いスーツはともかく、傷を隠すつもりなのかもしれないが、サングラスはないだろうに。

「そう?」と石田は己の恰好を見下ろした。「まぁ、人捜ししてるときとか目立っちゃいけないときは、もっと目立たない恰好をしているよ。いまは別にそうでもないから」

 そうは言うが、五年前に真樹に見られたときも似たような恰好だったのだから、彼の自己判断に対してはあまり信頼できない。


 喋っている間にだいぶん心が落ち着いた。胸の上下を隠して深呼吸をし、おしぼりで目元を拭えば、呼吸も頭ももう元通りだ。清花は本題に戻ることにした。

「それで、蘭さんの居場所を教えていただきたいのですが……、教えていただけますよね?」

 石田は悪い人物ではない。単なる探偵で、ならば素直にそう問えば、きっと蘭の居場所を教えてくれる。そう思っての問いである。

「それは、きみには言えない。真樹くんにしか」

 だが、石田から帰ってきたのは拒絶の一言だった。

「どうしてですか?」

「きみは……、きみたちは彼女の行方が知れさえすれば、それで万事が解決、何もかもが上手くいくと思っているかもしれない。でも、そうじゃないんだ」

 知らないというのは罪ではない。だが無知が招く結果は、何が起きるかわからない。事実、五年前、何も知らずに依頼をこなしていただけの石田に対し、鈴木蘭子は、真樹や清花には蘭と呼ばれていたという女性は、想定外の行動に出たのだ、と彼は語った。

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