第11話 石田と親子

 母親が癌で死んだ。


 もう半年近く前の話だ。癌が発見された時点で、既に転移が進んでいたため、母親が死ぬことに対する覚悟はできていた。膀胱の癌で、最期まで痛い痛いと言っていたから、むしろ生きていた頃のほうが苦しいくらいだったかもしれない。看取る側にとっても。死顔は覚えていない。あまり見ていたいものではなかった。

 むしろ心配なのは、残された父親のほうだった。定年退職してから以前より活力を失っていたようだが、母親が死んでからはさらに小さく見えた。喧嘩をすることもあったが、なんだかんだ言いながらも仲の良い夫婦だった。姉夫妻がいろいろと気を焼いてくれているようだが、悲しさは簡単に埋まらないだろう。

(だが自分は大丈夫だ)

 そう思っていた。


(母親は母親ということか)

 仲が悪かったというわけではないが、とりたてて良かったというわけでもない。あまり真っ当とはいえない会社に就職してからは殆ど実家に帰らなくなったため、時折電話が向こうから掛かってきて、一方的な話に相槌を打つ程度の間柄だった。いい年をして、親子だから何をするということもなかろうと思っていた。

 だが死ねば、肉親が死ねば、それだけで深い理由も無く悲しいものらしい。悲しさが空白になって、呆とする時間が多くなった。仕事も手がつかなくなるときがあり、会社の上司からもそのことを指摘された。

「少し休め」

 そう言われて、休暇を与えられた。気分転換でもしてきたらどうだ、と。


 家にいても気分は紛れなかった。石田鉄いしだてつはそれで、旅行をすることにしたのだ。

 最初は観光地に向かい、旅館に泊まっていたが、すぐにそれが自分には合わないことに気付いた。旅館の部屋は居心地が良過ぎて、だらけて、蕩けてしまう。何も考えずに身体を休めたいわけではない。石田は己を元の状態に戻したいのだ。

 だから人のいる場所を歩き、泊まり慣れたビジネスホテルに宿泊するようになった。することといえば、適当に出歩いて、本屋や喫茶店に入り、適当に時間を潰し、夜はホテルの近くの居酒屋で食事をするだけ。空白が埋まるわけでもなく、さりとて悲哀が形になるでもなく、やはり空虚だった。今日もそうして無為に無駄を重ね、ホテルまで帰ってきたところだった。


(こんなことをしていても、無駄だな)

 やはり仕事に戻ろうと、多少能率は悪くても仕事の中で自分を取り戻そうと、部屋に帰ってから会社に電話をしようと、そんな決意を抱きながらエレベータを待っていたときである。

「待って……、待ってください!」

 高い声だった。振り返れば、声の持ち主らしい小柄な少女がホテルの中に駆け込んで来て、石田の外套の袖を掴んでいた。

(中学生……いや、高校生かな)

 幼さが残る可愛らしい顔立ちには見覚えがあった。先の喫茶店の店員だ。十一月ともなれば、ほとんど冬といってよい東北のこの季節で、上にはコートを着てはいるものの、合わせの間から見える下半身は膝丈より短いスカートを履いているきりで、黒のソックスとの間に素肌の色が見えているのであれば、いかにも寒そうだ。髪はシュシュで纏めていて、洒落っ気のある様子は、背伸びした中学生に見えなくもないが、喫茶店でアルバイトをするからには高校生だろう。このくらいの少女が、長期休暇の時期でもないのにビジネスホテルに宿泊するとは珍しい。いや、待てと言いながら開いたエレベータに乗らないのだから、宿泊客ではなく、石田を追いかけて来たのだろう。


 石田は掴まれているのと逆の手で、己の尻のポケットを叩いた。財布はある。携帯も。ほかに持ち物は無いので、忘れ物をして届けようと追いかけてきたのではないかという推測は外れた。

「鈴木……蘭子という女性を知っていますか?」

 少女の小さな口から発せられた言葉を聞いた刹那、石田は己の表情の変化を自制できなかった。少なくとも、自然な表情にはなっていなかっただろう。

「いや………」

 ようやく発したその返答に、目の前の少女は明らかなる猜疑の視線を向けてきた。ああ、その通りだ。ああ、嘘だ。ああ、動揺したのだから嘘が嘘だとばれても仕方がない。だが、なんと答えれば良いのだ。この少女はなんなのだ。


 いや、石田には彼女はがどういった存在なのか、何を目的としているのかがおおよそ予想がついていた。

 フロントからホテルマンが、訝しげな表情で声をかけてきた。何かあったのか、と。もしかすると、少女が風俗嬢だとかで、石田が部屋に連れ込もうとしていると思われたのかもしれない。

 エレベータのドアは既に開いているのだから、彼女を振り切って逃げるのは力の差を考えれば簡単だ。こちらは正式な宿泊客で、今まで何の問題も起こしていないからには、少女に何か問われたからとて、フロントは容易にこちらの部屋を教えないだろう。逃げ切るのは簡単だ。

 だが。

(これは贖罪か)

 だが石田はそう思った。思ってしまった。


 探偵社に所属していた石田は、六年ほど前、とある依頼を受けた。連れ去られた子どもの捜索ということで、よくある身辺調査よりは難易度が高く、なかなか成果が上がらなかったものの、依頼人の金払いは良かった。

 調査捜索に一年近くの日数をかけた結果、石田は遂に依頼を達成した。

 その結果として、ひとつの家族を不幸にした。

 そうなったのも、石田がその依頼を単純な失踪人捜索と受け止めていたからだ。ああ、特に後ろ暗いものがあるとは思えなかった。依頼人に対しても、むしろ疑うより親身に力になってやるべきだと思った。ああ。だから、仕方が無かった。知らなかった。知らなかったのだ。

 そんなふうに言い訳してみても、悔恨の情は和らがなかった。


 依頼終了後、石田は個人的に、真樹という名の少年の足取りを追ったことがある。彼は、理由不明の保護者失踪という背景を考えてか、隣県の孤児院に引き取られた。だがその後も、何度も孤児院を抜け出しては、鈴木蘭子を探しているようだった。真樹にとって、彼女が掛け替えのない存在だったのだ、とその頃になってようやく気づいた。

 当たり前だ。彼にとっては、たったひとりの母親だったのだから。

 だがその姿を見るまで、石田は知らなかったのだ。鈴木蘭子が、真樹とあんなふうに仲睦まじく暮らしているなどということを。

(あの少年にとっては、確かに母親だった)


  蘭という女が真樹にとってどのような母親だったのか、石田は知らない。だがあの少年にとっては、唯一無二の母親だったのだ。良いも悪いも無く母親だったのだ。

 石田は、己の母親の死後、これまで自分を悩ませていた虚無感の原因を理解した。探偵の依頼などというのは、正義の行いには程遠く、溝鼠のようにこそこそと這い回り、他人の動向を物陰から伺うような惨めなものだ。だがその中でも、石田は己の仕事に納得してやってきた。どんなに惨めな仕事でも、嘘を吐いて金を騙し取ったり、卑劣な犯罪に手をかけたりはしてこなかった。人に胸を張れるような仕事ではないが、情けなくなるような仕事ではないし、己の中の正義からかけ離れたようなことをやっているわけでもなかったのだ。

 だが、鈴木蘭子に関する依頼だけは、違った。石田は幼い少年から母親を引き離してしまったのだ。それが、罪の意識になっていた。自分も母親という存在を失って、それがわかった。


 石田はホテルマンに一度受け取ったルームキーを返した。少女を部屋に連れ込むことは許されないだろうし、かといってホテルのロビーで会話を続けるには、ホテルの人間の懐疑の視線が痛くなるだろうと予想できた。

 少女を連れて、ホテルの外に出る。駅方向に少し歩いたところにある歩行者天国のアーケードにある喫茶店のひとつに入ることにする。少女が勤めている店と同系のチェーン店である。その店を選んだのは、単に喫煙席があるから、という理由だったが、入ってから、未成年相手に喫煙席を選んで良いものだろうか、と考えてしまった。

 しかし幸いなるかな、禁煙席は満席で、喫煙席に座らざるを得ない状況のようである。これなら、仕方がない。いつもどおり、石田は言い訳で己を納得させようとした。


 ふたり掛けの席に着き、少女と向かい合ってから、沈黙が降りた。


 石田はもともと喋る性質ではなく、少女にしても戸惑っているようだった。彼女が、五年前に鈴木蘭子の息子であった真樹という少年の友人であろうということは想像に難くない。おそらくは真樹の手伝いで、蘭の行方を捜しているのであろう。だがそのために、見ず知らずの男に声をかけたあげく、大人しくついてくるのだから、年頃の少女にしては度胸が据わっている。いや、警戒心が足りていないというべきか。

(でなければ………)

 それだけ彼女が真樹のことが好きで、彼の力になりたいと思っているのだろう。そのためには、リスクも何も厭わないほどに。

(こういうことは、直接訊くのが早いか)

 そう思った石田は、まず名乗る。

「おれは石田という。きみは?」

 と。

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