第10話 清花と黒服

 喫茶店のカウンターから、外へと出て行く背の高い後姿を見送ると、ほかの物が色を失っていくかのように感じる。白色の什器やその中の黒色のコーヒーは色を失っても殆ど代わり映えしなかったが、人はといえば色気を失えば土気色になり、あらゆる魅力が消え失せた。

(また蘭さんを探しに行くんだろうなぁ………)


 神野清花と真樹がアルバイトをしている喫茶店は、高校から徒歩で通える距離の本屋のフランチャイズ経営で、敷地も本屋の中に内包されている。清花はバイトを終えたあとに本屋に寄ることがあるのだが、真樹はといえばいつも真っ直ぐに出口へと向かってしまう。理由は簡単だ。他に為すべきことがあるからだ。日曜の午後をその用事を使いたいからだ。蘭を探したいからだ。早く。一刻も早く。

 しぜんと溜め息が出てしまう。せめてアルバイトを終えるタイミングが同じならば、彼と一緒に行けたのに。探し人の捜索なんて目的も、時間が日曜の午後しか使えないとなれば、しぜんと範囲が狭まり、殆ど散歩のようなものだ。デートだ。それなら、一緒にいるだけで薔薇色だ。


 シフトを一緒にしてくれなかったことについて、恨みがましい目で店長を見るが、こちらはといえば忙しそうに働いているので何も言えなくなってしまう。土日が忙しく、シフトがままならないのは、店のバイトの殆どが大学生だからだ。大学生というのは、どうやら休日には仕事をしたがらない生き物らしい。一方で平日には朝から昼から働いているのだから、いったいどういう生態の生き物なのか、高校生の清花にはいまいちわからない。

 代わりにと借り出されるのが、清花や真樹のような高校生だ。それ自体は構わなくて、というのは雇う側にもいろいろと規制があるらしく、高校生は遅くまで働かせることができないようになっているからだ。この店は閉店は二十二時だが、閉店後の清掃作業まで含めると終業は二十三時を過ぎる。そうした時間まで高校生を働かせることはできないため、平日の仕事時間は短い。代わりに休日に鉢が回ってくる。

 その中での問題は、休日のシフトがままならないことだ。大学生は休日に働きたがらないため、高校生の清花と真樹が長時間シフトに入ることになるのだが、引継ぎや仕事行程の都合上、店側はふたりの時間をずらしたくなるものらしい。清花は朝起きるのが苦手で、一方真樹は朝が早い。寝坊をしない真樹を午前中に使って、午後は清花、というシフトが恒例だ。だから折角同じアルバイト先を選んだのに、土日はろくろく一緒にいられない毎日である。


 清花は真樹のことが好きで、だから一緒にいたいと思っている。

 だが真樹はそう思ってはいない。だからそうしてはいない。

 清花はもう一度溜め息を吐いた。真樹とはそう長い付き合いではないが、少なくとも中学や高校に入ってからの同級生と比べれば、誰よりも付き合いが長いのは清花だ。

「それに、恋人同士なのだ」

 ストーカーだとか、片恋慕などではない。立派に恋人同士で、高校に入ってから、そういうことになった。しかも切り出したのは真樹からで、清花は始め、何を言われたのか理解できず、理解したのちには天にも昇る気持ちだった。嬉しかった。もともと家が近くて、登下校は一緒だった。休日も共に過ごすことが多かった。だが恋人という、明確な呼称のある間柄になれば、もっと発展したものになるものと思っていた。

 そうはならなかった。


 何度か溜め息を吐いていたが、昼過ぎになると客が急激に増えるため、いちいち辛いアピールをする余裕は無くなった。店は二、三人で回しているので、さぼれない。客の注文を受けて、注文どおりに作り、出して、会計をする。

(左目の上のところに傷………)

 その中で、清花はひとりの客に目を留めた。

 黒いコートを着た男だ。年の頃は三十代の中頃だろうか。若くはないが、年寄りというほどでもない。上背は標準的だが、がっしりとした身体つきなので、だいぶん大きく見えた。

「コーヒー。ホット」

 短い注文の声は見た目通りの低音であったが、喉元を見たのは一瞬だった。清花は男の左瞼の傷から目が離せなくなった。注文を取ってからコーヒーを持っていくまでの間、清花はずっと男を見ていた。


 真樹から聞いたことがある。蘭が失踪するのに前後して、真樹の家にたびたび現れるようになった男のことを。

 その男は、当時の幼い真樹の視点だから曖昧ではあるが、大きく、筋肉質で、喪服のような黒いスーツを着ていた。サングラスをしていて、髪は黒く短く、無精ひげを生やしていて、年の頃はそれほど老けてはいないように見えず、さらに大きな特徴として、左の目の眉の横に、裂傷の跡のようなものがあったという。

 いま店を訪れた男は、それらの特徴に合致していた。


「神野さん」

 と声をかけられたとき、傷の男のほうばかり見ていた清花は、不意を突かれて飛び上がりそうになった。

 声をかけたのは店長であった。驚いた様子の清花に、何かあったのかと首を傾げたものの、そう深くは追求せず、「もう忙しくないから、今日は早く帰っても大丈夫だよ」と告げてきた。時刻は十六時、本来のシフトは十八時までの仕事だったため、二時間ばかり早いが、昼のピークと午後のゆったりとした時間の格差が激しい土日にはよくあることだ。

 喫茶店はフランチャイズで本屋内部で営業されており、経営元は同じなので事務所も同じだ。二階の事務所まで駆けていき、カーテン仕切りの更衣スペースで着替えてボタンを嵌めるのももどかしく、また走って戻る。


 傷の男は、まだ居た。いや、ちょうど脱いでいた外套に袖を通し、店を出て行こうとするところだった。

 清花は、迷った。

 いつもなら、バイトが終わった頃には一緒に帰るために真樹が迎えに来るのだ。今日はフレックスで二時間ばかり早く終わったが、こういうときはメールをして、真樹が出先から戻ってくるまでにそう時間がかからなければ、喫茶店か本屋で待っていることにしている。

 だが、今回ばかりはそう悠長なことをしてはいられない。


 もしこの男が、真樹の言っていた、五年前に現れた黒スーツの男であるというのなら、彼は消えた蘭の行方を知っているのかもしれないのだ。でなくとも、何らかの情報を握っている可能性はある。人違いかもしれないが、それなら謝れば良いだけのことだ。

 躊躇する理由はひとつだけ。彼がここに現れた理由が不明確なこと。

「その人は、果たして蘭さんを狙っていたんだろうか」

 五年前に現れた黒いスーツの男、彼が本当に狙っていたのは、蘭と暮らしている真樹だったのではなかろうか。だから蘭は真樹に容易に外に出ないように言っていたのではないか。誘拐騒ぎがあったとき、あれだけ心配したのではないか。保護者である彼女が敢えて消え去ることで、真樹ごと消え去ったと思わせようとしたのではないか。

 そしていま、五年間のときを隔ててあの男が白瀬市に現れたのは、真樹を探しに来たのではないのか。


(この店に来たのも……)

 単なる偶然というわけではなく、真樹が働いていることを知って、監視をしようとしているのではないのか。接触を取ろうとしたのではないのか。でなければ、でなければ、真樹をどこかへ連れて行こうとしているのではないのか。

 自分を産んだ両親が誰で、何処で産まれ、なぜ両親を失い、なぜ蘭に引き取られたのか。真樹はそうした自分のルーツを知らないのだという。


 真樹がアラブの石油王の息子で、本当の家族が遺産相続のために彼を探しに来たのだ、なんてことを想像しているわけではない。だが藪を突いて出てくるのが鬼なのか蛇なのか、それともキラキラした綺麗な宝石なのか、散りかけの花なのかはわからない。清花の知らない事情があるのかも知れず、下手に手を出すことには期待よりも不安のほうが大きかった。

 だから清花は、ただ追った。声をかけず、誰かに連絡もせず、ただ彼の後ろを歩いた。


 幸いながら、男は車やバイクのような乗り物を使わず、バスも利用せず、ただただ市内では繁華街の部類に属する駅のほうへと歩いていった。人が多くなるだけ、見付からぬようにと気を配る必要は無く、上背があるだけ、見失う恐れもなかった。

 それでも歩幅が違うので、早歩きをされれば清花は小走りにならざるを得なかっただろう。だが男の歩みは遅かった。ゆっくりと歩き、ときどき立ち止まった。立ち止まって見やる向きは、道脇に佇むパン屋の広告貼り紙だとか、新装開店のコンビニエンスストアだとか、工事現場だとか、そんなものばかりで、何を考えているのか、よくわからない。


 歩いたのは、ニ、三十分といったところだろうか。上着を着て歩き続けていたため、緊張も手伝って少し汗をかいた頃、男はひとつの建物の中に入っていった。

(ビジネスホテル………)

 繁華街の通りに面した場所にあるその長細い建物は、清花でも名前を知っている全国チェーンのビジネスホテルだった。スタッフか客しか受け入れることのない建物の中に入ることが躊躇われ、二重の硝子扉の外側から男の様子を伺いえば、受付で会話をしてから、鍵を受け取っていた。宿泊者らしい。さすがに距離があってはキーの番号までは見えない。男はすぐにエレベータへと向かってしまう。

 未だ、彼が真樹の言っていた黒いスーツの人物なのかどうかわからなかったが、それでも清花は硝子扉を押し退けてホテルの中に入った。

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