第9話 真樹と塔
じゃあ、ばいばい、と清花の家の前で別れる。また明日、と。
「ばいばい」
こうして登下校を共にするのは、白瀬に転校して以来、小学六年生の時期を除けばずっと続いている。情けないことに、未だに人見知りの気は抜けないので、中高と清花が一緒というのは心強かった。
通りに面した清花の家から、横断歩道を渡り、通り沿いに南下してから細道に入る。数年前に暮らしていたアパートは取り壊され、もはや空いた土地があるだけだ。その土地を眺めながら細道を歩き、かつて住んでいたアパートの跡地を眺めるための遠回りをしてから、また幅の広い通りに出た先に、門の脇に小振りな松の木を備えた和風建築の家屋がある。その中に入れば、五十過ぎの中年の女性が出迎えた。
「真樹くん、お帰り」
にっこりと微笑みかける女性、
「ただいま、おじいちゃん、おばあちゃん」
真樹はふたりのことをこう呼ぶ。というのも、養子になったときに、「おれのことはじじいと呼べ」と塔に言われたからだ。
「じ、じじい?」
もちろん真樹は戸惑った。当時、つまり五年前の人見知りはいまより酷かったし、何より蘭がいなくなってからあまり時間が経っていなかった。
「そうだ、じじいと呼べ」
「あの……おじいちゃんってこと?」
「そのほうがいいだろ。どうせ、おまえくらいの孫がいてもおかしくはない歳だし、親と違って、じじいは何人いても良いもんだからな」
「わたしはまだ若いんだけど」
「あっちは」と塔は妻の佐織を指して、「ばばあでいい」と言ったものだ。
佐織は塔に対しては厳しかったが、真樹に対しては佐織も塔も優しかった。でなければ、真樹を養子に迎えるなどということはありえなかった。
五年前、小学五年生だった頃の、ちょうどこの時期。真樹は母親の蘭とともに白瀬市に引っ越してきて、そして蘭はいなくなった。
理由はわからない。だが過程は知っている。間接的な原因も。真樹と蘭が住んでいたアパートをたびたび訪ねてきた、あの黒いスーツの男。あのサングラスの、傷の男。あの男が齎した何かによって、蘭は真樹に別れを告げなくてはいけなくなった。蘭は消えた。
その理由を、真樹は知らない。あの日以来、真樹は蘭に会えていないからだ。彼女の口から理由を聞き出すことができていないからだ。
彼女は失踪した。黒いスーツの男も、蘭がいなくなったあとには見なくなった。
蘭以外に身寄りは無く、頼る術もない真樹は、孤児を引き取る施設に預けられるしかなかった。
かつて真樹が蘭に引き取られたのは、まだ物心がつかない頃だった。だからその頃のことはよく覚えてはいないが、たぶん蘭に引き取られる前も、たぶん真樹は児童養護施設にいたのだろう。二度目の施設というわけだ。だが今回は引き取り手はいないだろうと真樹は確信していた。普通、養護施設でも引き取られるのは、幼い子どもだ。真樹のように、相応に成長して、自我があり、しかも前の親のことを引き摺っている真樹のことなど、引き取り手がいるはずがない。
真樹は、それでも良かった。蘭以外の人と暮らすなんて、考えられなかったから。
施設に入れられてから、真樹はしばしば施設を抜け出して蘭を探した。探すなどといっても、当てはなかったし、移動範囲も狭かった。それでも何かをせずにはいられなかった。無駄だと思っても、動かずにはいられなかったのだ。そうして施設を抜け出してから連れ戻されるときは、こっぴどく叱られたものだ。
塔と佐織に出会ったのも、そうして施設を抜け出したときだった。なけなしの金を使って白瀬市に戻り、子どもの足でただひたすらに蘭の写真を持って歩いていた真樹に、親切にしてくれた。心に傷を負っていた真樹の心を開かせてくれた。
「お母さんのことが忘れられないんだったら、それでいいよ。おれたちはじじいとばばあになるからな」
そう言って、塔は真樹を養子に迎え入れる決断をしてくれたのだ。
あとになって、「犬が死んだあとだったから、犬より寿命が長い生き物を育てたかった」と言われた。真樹と塔たちが始めて出会ったとき、それはバス停でだったが、ふたりは悲しそうな表情だった。聞けば、そのときは飼っていた老犬をペット墓地に埋めた帰りだったのだという。
だから、塔の言葉は本音だったのだろう。
だから、優しいと思った。ふたりとも優しくて、だから自分たちより弱い生き物が自分たちより早く死んでしまうのが悲しかったのだ。もうそうした悲しみを味わいたくなくて、それでも弱い生き物を助けたいと思ったから、真樹を引き取ってくれたのだ。
だから、真樹はふたりに感謝している。感謝しながら、裏切りを続けている。
心の裡を隠すように、真樹はつとつとと足音を殺して木目の廊下を歩いた。自分の部屋に荷物を置いてから、居間へと戻る。六畳一間の古アパートとは違い、秋月家の一戸建ては平家ながら三人が暮らすには十二分に広い。自分の部屋があり、物が置く空間には不自由しない。給料日前だからといって必死に節約する必要も無いし、燃料代を惜しんで毛布に包まることもない。塔と佐織は優しくて、だから何の不自由も無い。
ただ、蘭がいないということを除けば。
「最近、帰りが遅いと道が暗いけど大丈夫か?」
と、居間に入ると塔が話しかけてきた。テーブルには麦酒の瓶と琥珀色の液体が注がれたグラスが置かれている。いつもの晩酌のようだ。
「そういうの心配するのは、普通は女の子」
と返事をしてから、小学生の頃に誘拐されかけたことがあることを思い出した。あのときは、怖かった。蘭にはこれまでに無いほどの勢いで怒られたものだが、同じ頃に塔や佐織が親だったら、やはり同じように怒られていただろうと思う。
「最近は何があるかわからん」
「清花ちゃんと一緒に帰ってきたから」
「清花ちゃんは送ってった?」
「家まで送ってったよ」
「そうか。清花ちゃんは可愛いからな。優しいし、バレンタインデーにはチョコくれるし、だからおれは心配だ。ほんと、変な男に引っ掛からないかとか、そういうこと」
背後から頭頂部を見ると白髪と黒髪の面積のが半々くらいに見える五十代の塔だが、清花のような若い女の子にチョコレートを貰えたのが何度語っても飽きないほど嬉しかったらしい。
冗談めかしているが、塔が神野清花のことを気に入っているのは間違いなかった。勿論、義理の息子の友人として、あるいは知人としてだろう。佐織も、そうだ。清花のことを好いている。
真樹も同じだ。清花と一緒にいると、心地好い。秋月家が清花の家の近くだったのは幸いだった。彼女の存在は、蘭ほどではないにしろ、大きかった。
「今度行くところは、F県だっけ?」
と夕餉後に話かけてきたのは、佐織だった。台所から運んできた湯呑みには湯気の漂う緑茶が入っている。
「うん、F県の病院の小児病棟」
「おまえ、子どもの相手とか大丈夫なの」
とまだ麦酒を飲んでいた塔が問うてきたのは、日頃幼い子どもと触れ合う真樹のことを見ていないからだろう。
実際、真樹は子どもが苦手だ。
「どっちかっていうと、老人ホームとかのほうが人気ありそう」
老人も苦手だ。
というより、真樹は他人と触れ合うことが基本的に苦手だ。誰であっても。慣れればましになるが、すぐに苦手意識が消えるわけでもない。
今のところ気の置けないと呼べるほどの間柄なのは、神野清花くらいなものだ。クラスメイトや部長相手には勿論、自分を引き取り、育ててくれた塔や佐織相手に対しても、距離感を取ってしまっているという自覚がある。
だから本当は、真樹はボランティア部などは厭だった。間違いなく、人と触れ合わなくてはいけないから。
「おれもボケたら入るからな、良い施設かどうか確認しておいてくれ。美人で若い介護士がいるかどうか、とか」と塔が気楽な口調で言う。
「こんなこと言ってるけど、ほんともうボケてるんだけどね」と佐織が冗談めかした口調で口を挟んだ。
「そういうこと言うとほんとにボケてるんじゃないかって気になるから、やめてくれ」
この、ボケた、ボケない、という遣り取りを、塔と佐織はよくやっている。この繰り返される遣り取りは痴呆の症状のようにも見えるが、たぶん、自分たちがボケても準備しているから大丈夫ということを真樹に遠まわしに伝えたいのだと思う。実際に、「老後に介護を受けるだけの金は残してあるから、おまえは何も心配しなくても大丈夫だ」とも言われたことがある。もしかすると、ふたりにしてみれば平均的な「両親」よりも老い先短い自分たちが真樹を引き取ったことに、負い目があるのかもしれない。
真樹が塔と佐織に気を遣うように、たぶんふたりも真樹に気を遣っているのだ。
ふたりが真樹がしていることについては、おそらく知ってはいるだろうに何も咎めないのは、そうした理由からだろう。
真樹はずっと、蘭を探し続けている。そのためにボランティア部に入った。
五年前、蘭が何処へ消えたのか、真樹は未だその行方を知らない。
幼かった頃から、八方手を尽くして探した。自分の足で探した。僅かな金を使って遠出をした。警察に頼ろうとした。だがいずれも駄目だった。特に警察は、真樹が最後の蘭との遣り取りを素直に話してしまったため、蘭が自分の足で失踪したということで、探してはくれなかった。
それでも、真樹はたったひとりで蘭を探し続けた。
必要なのは、金だった。市内の自転車で行ける範囲では、殆ど聞き込みを終えてしまうと、市外へ出る必要がある。だがそうなると、交通費や宿泊費が必要になった。
高校生になってからは市内の喫茶チェーン店でアルバイトを始めたが、秋月家の規則正しい生活スタイルを考えれば、そう稼げるわけではない。あるいは学生ということを忘れればもっと稼げるのかもしれないが、真樹はそこまで深く踏み込めなかった。塔と佐織は優しくて、だからふたりの目の前で不真面目な姿を見せたくなかった。
だから、蘭を探す手段として、学生らしく部活動を検討した。
部活は、学生のうちしかできない手段だ。ものによっては遠征したり、課外活動を行える。そしてボランティア部は、そうした活動に最適だったのだ。
ボランティア部の活動内容は、月に一、二度、近隣の施設に行って奉仕活動を行うというものだ。近隣といっても、東北から関東へ行くこともあり、その間の交通費や宿泊費は部費から支払われるわけだが、活動内容が内容なだけ評判が良く、部長が口の上手さも手伝って、予算会議では潤沢な部費を支給してもらっている。たった三人の部員しかいない現状では、旅費は全て部費から支払えているため、金が節約できた。
また、病院に行く機会があるのも良かった。怪我や病気で、その地域に住む人間はみな病院を利用する。蘭本人が病院を利用せずとも、彼女を住む近隣の住民が来ていれば、蘭の写真を見せて、見覚えがあるかどうかを問うだけでも一歩一歩彼女に近づいているように感じられた。
実際に用事があるのは入院患者病棟や小児病棟だが、相手がボランティアで来ている高校生となれば、入院患者も外来患者も看護士も、親身になって接してくれる。街路での聞き込みでは、蘭の写真を一瞥して鬱陶しそうに「知らない」とだけ言って逃げるように去られてしまうことは少なくなく、相手がしっかり写真を見てくれないために確実性にも欠けた。ボランティア部として活動の片手間に蘭の捜索を行う場合は、みな親切で、だから「知らない」の言葉でも信用できた。
蘭がいなくなって五年。だが蘭が中心の生活というのは、幼い頃と何も変わっていない真樹の日常だった。
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