蘭と真樹

 目の前が濁った。泣きそうな自分に気付いた。

 病院で真樹と出会ったときには涙も何も出なかったのに、こうしてひとりきりになって、これから出会うと思うと涙が出るのだから不思議だ。

 結局じぶんは、嬉しいだとか、悲しいだとか、そういった感情では泣かないということなのだろう。泣くのは怖いときだけだ。

 鈴木蘭子は久しぶりに訪れた白瀬市内を歩きながら、己の左腕を右手でずっと擦っていた。でなければ、手は己が髪に向いていた。あるいは爪に。指先に。恐怖で何もかもが落ち着かなかった。

「何を………」

 小学校に面した道路を跨ぐように架かる陸橋から道路を見下ろしながら、蘭は恐怖の先を己に問うた。


 何を言われるのだろう。

 何を課されるのだろう。

 何を奪われるのだろう。


 最初に真樹から奪ったのは蘭のほうだ。孤児だった彼に母親という存在を与え、そして奪った。だからいまさら、何も言えない。

 そうだ。自分は罪深いことをした。自分を愛してくれていた子を裏切った。だから裁かれるのは当たり前だ。

 彼を引き取ったことは、何か考えがあっての行為ではなかった。当時の蘭は未だ未成年で、子どもだった。夫と死に別れ、寄る辺を失い、夫の親類をよすがにしようとしたところで、裏切られ、幼い景を奪われた。隠された景の行方を狂ったように探し回ったものの見つからず、疲れ果てていた。そんなときに、真樹と出会った。

 当時の彼は、物心がつくかつかないか程度の年齢だった。だから、たぶん覚えてはいないだろう。孤児院を勝手に抜け出して、転んで膝を擦り剥いていた。傷付いていたし、泣いてもいた。

 蘭と同じだった。だから放っておけなかったのだ。脇に手を入れて、持ち上げてやって、傷口を洗ってやって、絆創膏を貼ってやった。それだけだ。

 最初は、本当にそれだけだったのだ。


 蘭は秋月の表札がかかっている二階建ての一軒家の呼び鈴を鳴らした。現在の真樹の家族が住む家だ。彼の養父母は老年に差し掛かりつつある夫婦らしいが、菜園のある庭や、ガレージにある洗車された車を見れば、生活環境が悪くないことはわかる。

「蘭」

 庭を眺めていた蘭の鼻先に男の顔が出てきたので、危うく飛びのきかけた。インターホンで応対されると思っていたところで玄関の戸が開いたので、機を先された形になった。

 真樹だった。

 幼い頃の真樹とは、ずいぶん違う。昔はもっと小柄で、細くて、蘭よりも小さいくらいだった。顔の造作は女の子のようで、幼かった。それが五年の歳月を経て、変わっていた。背は伸びて、見上げなければならないほどになっていた。顔つきは男らしい精悍なものになっていて、指はごつごつとしていて逞しいものになっていた。

 それでも幼い頃の面影があったから、蘭には彼が真樹であるとわかった。昨日、病院で会ったときも、彼のほうから声をかけられるより前に、蘭は真樹の存在に気付いていた。


「入って」

 真樹に促されて、蘭は玄関の敷居を跨いだ。石造りの玄関にはサンダルや運動靴が揃えられている。靴箱の上には置物や写真立てが並んでいて、それらがどちらも旅行先で得たものであろうことは予想できる。写真の中の真樹は、蘭が知っている頃から少しばかり成長した頃の姿で、恥ずかしそうに俯き気味ながら、口元は笑んでいるように見える。

「おじゃま、します……。おじゃまします」

 蘭は声を発した。最初のものは、あまりにも小さすぎて、真樹にも聞こえるかどうかくらいだったので、言い直したのが二回目の言葉だった。玄関を上がるときに、靴を揃えた。


 玄関を上がって通路を跨ぎ、すぐのところにある居間らしきスペースに蘭は通された。キッチンと繋がっているタイプの家らしいが、キッチンと居間との間は暖簾のような布で覆われていて、下から覗き込みでもしない限りは、キッチンがどういう状態なのかは知り得ないだろう。

「座って……、待ってて」

 言われたとおりにしようとして、どこに座るべきだろうかという疑問を抱いた。一般家庭の居間でも、上座下座の概念はあるのだろうか。あるとすれば、どちらが上だろうか。でなければ、いつも家族が座っているスペースは避けたほうがいいのではないだろうか、と。

「真樹、あの………」

 蘭が声をかけると、真樹はみなまで聞かずとも理解したようだった。

「どこでもいいよ。おじいちゃんもおばあちゃんも出かけているから」

 そう言って、真樹は暖簾をくぐって台所へと行ってしまった。

 蘭は本能的に、通路に最も近い側に座った。

 おじいちゃん、おばあちゃんと真樹が呼ぶのが、彼の養父母であるというのは、昨日病院で交わした会話で、なんとなく理解できていた。先ほど玄関で見た写真を見る限り、ふたりとも五〇の境は越えているのだろう。真樹の養父母はいろいろと事情を汲んで、そんな呼び方をさせているのかもしれない。

 写真に映っていたのは、三人だけだった。養父母と真樹だけ。だから三人で暮らしているのだろう。そしてふたりがいないということは、この家に、いまは真樹と蘭のふたりだけだということになる。


(どうして………?)

 昨日、病院で真樹に出会ったとき、改めて話がしたいということで、今日この時間、この場所を指定された。そのときには、てっきり真樹の養父母とも会うものだと思っていたのだ。

 真樹の養父母に会うという事態に、恐れを抱きながらも、どこか安心感を抱いていた。

 なぜならば、彼らは真樹を引き取ってくれたからだ。育ててくれたからだ。蘭のもとにいるよりも、ずっと良い環境で。優しいひとたちなのだ。

 そんなひとたちだ。引き取り、育ててきた子を捨てる欄には呆れただろう。憎らしく思っただろう。愚かしく感じただろう。だがそうした人々なら、景という幼く弱い存在を抱えている蘭に対して、そう酷いことは課さぬだろうと思っていたのだ。

(でも、真樹は………?)

 真樹はいったい、何を考えているのだろう。


 彼はキッチンから戻ってきたとき、盆に急須と湯飲みを載せていた。炬燵の上に盆を置き、急須から緑色の液体を注ぐ。緑茶の良い香りがした。湯呑みのひとつを蘭のほうへと寄せてから、彼はキッチンへ戻った。また帰ってきたときには、今度は盆にケーキをふたつ載せてていた。同じように、ひとつを蘭のほうへと押しやった。蘭のものは抹茶で、真樹のものはチョコレートだった。

「食べて」

 そう言われれば、フォークで突き刺して口に運ばざるを得ない。

「高校に入ってから、喫茶店でアルバイトしてる。そのアルバイト先で買ったやつ。少し安くなるの」

「そうなの………?」

 食べながら、泣きそうになった。味なんて、わかららない。ただ、怖い。真樹が何を考えているのかわからないから、怖い。何を要求してくるのかわからないから。

「清花ちゃんも一緒にバイトしてる。部活も一緒で……、清花ちゃん、昨日もいたけど、わかった?」

 真樹もケーキとお茶に口をつけながら、合間に言葉を投げかけてきた。蘭は首を振る。真樹以外のことは、目に入らなかった。ただ怖くて。恐ろしくて。

 真樹はいったい、なぜ自分を探していたのだろう。蘭が彼を捨てたという事実を、いつの間にか察していたらしいことは推測できる。にも関わらず、蘭を探し続けた理由は、いったい、なぜなのだろう。


「蘭は……、どうしておれを捨てたの?」

 フォークが皿に当たる音が止まった。真樹も蘭も、フォークを置いて向き合ってた。正確には、蘭は真樹から視線を逸らしていたが。

「おれより、あの子のほうが大事だったの?」

 蘭は、五年前、蘭は真樹を愛していた。真樹と過ごし、真樹を愛した。景を探しながら。

 そうすべきではなかった。景を見付けたという報告を聞いたあとになって、蘭はそれを知った。


「良い報告と悪い報告があります」

 五年前、景を見つけたという報告をしてくれた探偵、石田鉄はそんなふうに冗談めかしたものだった。

 良い報告というのは、景が既に姑の手を離れたということで、悪い報告というのはその原因に関してだった。景は亡き夫と同じ心臓の病で、入院しているということだった。

「初めから、真樹のことを捨てようと思っていたわけじゃない」

 真樹とふたりで暮らしているときでさえ、襤褸アパートでぎりぎりの生活をしているような状況だった。それも景の捜索のために、各地を点々とする転居費用や探偵を雇う金に費やしていたためだが、それが無かったとしても生活は楽なものではなかった。

 それでも、いままで以上に働いて生活を切り詰めれば、三人でなんとか暮らしていけると思っていた。

 だが病魔に冒されていた景の治療費は、相当なものだった。景を一度は引き取り、しかし病魔に冒されていると知って捨てた姑はというと、初期治療の費用は出したものの、それ以上手を出そうとはしなかった。

 どちらかを選ばなければならなかった。真樹との穏やかで幸せに満ち満ちた生活か、真樹を捨て、景の病気と向き合い、必死になって働かなければ助けられない、新たな生活か。

 蘭にとって、真樹よりも景のほうが重要だった。

 だから、蘭は景のもとへ行った。


「そうだよ………」

 蘭は嘘を吐かなかった。

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