第14話 清花と蘭

 男の子なんて、こんなものだ。

 まるで悟りきった女娼のようなことを呟いてしまった。だが産まれたときから今までずっと女の清花にしても、男のことを何も知らないわけではない。たいていの場所で、たいていの環境で、半分は男がいるのであれば、十二分とまでは言えないまでも相応には男のことを知っている。真樹のことも。


 ひとりの女性しか見ていない、なんてことに文句が言いたいのではない。

 ただ、馬鹿だ。

 清花にも、養父母にも会えなくなるとしても、蘭に会いたいのか。そんなふうに尋ねられて、迷い無く会いたいと答える。

 それは愛ゆえではなく、単なる売り言葉に買い言葉のようなもので、ようは何も考えていないのだ。ただただ獣のように、虫のように、パチンコ弾のように、光のように、落ちる槍のように、己の考えられる最短距離で真っ直ぐに目的地に辿り着こうとしているだけなのだ。それだけ。こんなもの。こんなもの。


「今日の午後に来たお客さんの中に、石田さんって人がいたの」

 そんなふうに切り出してやれば、きっと真樹は話の急な転換に驚いたかもしれない。突如として出された知らない名前に食いついてきただろうか。それとも興味が無さそうに話を元に戻そうとしていただろうか。

 しかし、「石田さんが、昔蘭さんを追っていた探偵さんなの」とまで言えば、真樹は飛びついてくるだろう。早く話せとせがむだろう。真夜中でも、清花のもとへやってくるだろう。

「真樹くんは、蘭さんのことが好きなんだなぁ………」

 電話を切ってから、清花は当たり前のことを言葉に出して確認した。そのことは知っていた。知っていながら、真樹に協力していた。何もしないよりもマシだと思って。


 だが、いまとなっては何もかもが自信が無い。小学校から積み上げてきた信頼の関係も、現在の名目上の恋人の関係というのも、よすがにはなってくれそうになかった。何せ、その関係自体が真樹と清花の愛情の関係の上にはなく、蘭を目指していたからだ。

(都合が良かったんだろうな)

 いまにして思えば、そうだ。真樹にとって、清花という存在は都合が良かった。蘭を探しに何処かに行くとき、近場にしても遠出をするにしても、清花と出かけるから、と言えば彼の養父母は納得する。女性しか入れないような場所にも入れ、相応に大人びてきた真樹より警戒されない容姿だ。何より、真樹の事情を知っている。好いている。無条件で協力する。

 だから、付き合おうと持ち掛けてきたのだろう。清花と真樹との関係は、そういう付き合いなのだ。パジャマ姿の清花はベッドの上にうつ伏せになり、枕を抱いて顎を乗せた。真樹は馬鹿で愚直だから、こんなことは考えていない。それでも、きっと清花が有用であることを理解している。そんな真樹の心の中がわかっているだけ、悲しい。


 彼の心は蘭の方向しか向いていない。

 ならば蘭を探し出したところで、無駄だ。彼の想いが、そのまま蘭に通じるだけだ。利用価値の無くなった清花とは、それで終わりだ。いや、終わりはしないだろう。友だちとしては関係性は続くかもしれないが、そんなのは、厭だ。好き合いたい。ずっと、そうだった。清花が好くのではなく、真樹から好いて欲しかった。

 そのためには、蘭を探すのを、止めるべきか。止めさせるべきか。

 石田鉄という手がかりが得られたいま、清花は迷っていた。

(石田さんは、どうして真樹くんにしか言えない、なんて言ったんだろう………)

 その理由を石田は説明しようとしてくれたが、隠そうとするあまりに表現が曖昧すぎて、その真意が理解できなかった。清花は喫茶店での石田鉄との会話を思い出す。


「おれは……もう失敗したくはないんだよ」

 と石田は真剣な表情で言ったものだ。

「失敗?」

「鈴木くんには、もう彼女を探すことを諦めて欲しい。この町に来て、真樹くんのことを教えられて、そう伝えるべきだと思った。彼女を探すことは、無駄なんだ」


「蘭さんはいまも、生きているんですか?」

「え?」

 唐突な清花の言葉に、石田は戸惑うように声をあげた。まるで、何を言っているかわからない、とでもいうようで、清花は己の鎌をかけた言葉が間違っていることがわかった。

(蘭さんは、生きているよね)

 そうだ、死んでいるはずがない。蘭が死んでいるはずがない。でなくては、真樹が報われない。


「あなたは真樹くんのお父さんだったりしないのですか?」

 次の清花の鎌かけには、石田は半ば噴き出した。清花の言葉が、余程おかしかったらしい。

 石田の年齢は、見たところ三十代といったところだろう。彼は随分と真樹に想い入れがある様子だったので、もしかすると、と思ったのだが、当てが外れた。


「蘭さんは、悪い人なのですか?」

 清花は最後のつもりで、その言葉を口にした。それはかつて真樹が口にした問いだった。

 昔の話だ。蘭が失踪し、真樹が隣県の施設に引き取られる直前、清花は茫然自失の状態の真樹と会って話をしたことがある。そのときの彼は、ある疑いを口にしていた。


「蘭は、悪い人なのかな?」

 彼女を付け回す黒服の男。当時はそれが石田という名だとは知らなかったわけだが、真樹は彼が犯罪者ではなく、探偵の類かもしれないと気付いていたらしい。なぜならば、蘭は警察に訴えようとしなかったから。相手が悪ならば、自分たちが被害者であるならば、警察に訴え出ればいいのだから。

 だがそうせずして、真樹を残し、蘭は消えたのだ。

 だから。

 悪いのは相手ではなく、こちらなのではないかと。罪も無く追われていたのではなく、追われるべくして追われていたのではないかと。真樹はそんなふうに思ったらしいのだと、幼い頃に聞いた。


 石田の表情は、動かなかった。驚くでもなく、笑い飛ばすでもなく、鉄のように硬かった。

 だから清花は、己が問いかけが正しいのだということを確信した。

(蘭さん………)

 真樹とは違い、清花が蘭と知り合ってから過ごした期間は短い。それでも、蘭という女性のことはいまでも容易に思い返せる。

 清花は小学校で真樹と出会うよりまえに、蘭に会っていたのだ。


 五年前の、真樹が転校してくる前の週のことだった。曜日まで覚えている。金曜日で、ぽつぽつと綿雲が漂っていたものの、秋らしく晴れていた。まだ夕焼けには遠くて、空は青かった。母親からお使いを頼まれた帰りに、清花は女性とすれ違った。普通なら何の印象も記憶も残さないところではあったが、清花は立ち止まって振り返ったのを覚えている。

 足を止めた理由のひとつは、彼女が手に紙を持って、きょろきょろと辺りを見回していた様子から、道に迷っているように見えたからだ。だがもっと大きな、単純明快なる理由は、蘭が美しかったからだった。


「何か探しているんですか?」

 そんなふうに清花が声をかけると、蘭は吃驚したような顔で目を見開いた。まるで、自分が見えるのか、などと言おうとしている幽霊のようだった。

「あの、えっと」と蘭は迷いに迷った挙句に、ようやく清花に向き直った。「病院とかを………」

 その覚束ない様子は幼い清花からして、「らしくない」と思わせるものだった。もっと自信たっぷりにその豊満な胸を張って良い容姿なのに、新居に連れて来られたばかりの兎のように見えたのだ。


「病院? 怪我ですか? 病気ですか?」

「あ、ううん、違うの」と蘭は慌てた様子で手を振ったものだ。「最近、こっちに越してきたので、病院とかは何処にあるのかを確認していたの。小児科があるところがいいんだけど」

「えっと……」清花は頭の中で道案内の経路を思い描いたが、上手く言葉で表せそうにないな、と判断した。「案内しましょうか?」

「え?」

 蘭の声は、単に驚いたというだけではなく、どこか警戒の色が混じっていて、それが不思議だった。どこからどう見ても、当時の清花は小学校高学年の女子だったからだ。警戒する必要があるだろうか。


 しかし蘭の言葉を聞いて、その警戒の理由がわかった。

「その……知らない人に声をかけられてもついていっちゃいけない、とか、言われてない?」

 どうやら彼女は、清花のことを不審に感じていたのではなく、己が不審者に間違われることを警戒していたらしい。清花は噴き出してしまった。蘭は美人だし、格好は簡素ではあったが、けして不審ではない。警戒されるどころか、近寄って話しかけたいと思う容姿である。なのに、そんなことを心配していたのか。

「おねえさんは綺麗だから、そういう心配はしないですよ」

 と清花は正直に言ってやってから、先導するために歩き始めた。


 清花のかかりつけの診療所は、買い物をしたスーパーから歩いて五分もかからない場所にあった。言葉だけならともかく、手足を使っての道案内は容易で、だから当時の清花にはそれが惜しかった。蘭の長い髪は柔らかそうで、顔立ちは優しげで、何より胸が大きかった。でなくても顔立ちが整っているだけで、こういう女性になりたい、と思うような容姿で、それなのにどことなく頼りなく、自信なさげで、清花は彼女に興味を持ったのだ。

「わざわざ道案内、ありがとうね」

「はい。あの、おねえさん、小児科があったほうがいいって言ってましたよね? 子どもがいるんですか?」

「うん。来週から、白瀬小学校に転入することになるの。きみも、白瀬小学校の子だよね?」

 清花が頷くと、蘭は嬉しそうに息子だという少年の名を教えてくれた。

「真樹っていうの。もし同じクラスだったら、よろしくね」

 そのときは、互いに名乗らなかった。いや、名乗っただろうか。よく覚えていない。だから、清花にはただ、告げられた真樹という名が心に残った。


 だから翌週になって真樹が転校してきたとき、清花は彼に興味を持った。もし蘭と出会っていなければ、あれほど積極的に彼と交流を深めようとはしなかっただろう。清花と真樹との出会いは、その前に蘭との出会いがあった。彼女と出会っていなければ、真樹と一緒に登下校をしていたりはしなかったはずで、そうしたら、五年前の誘拐事件の日に、真樹は本当に誘拐されていたかもしれない。


 清花は枕に埋めていた頭を起こした。

(そうだ………!)

 あの日の誘拐事件は、たぶん、真樹や蘭にはまったくの関係ないものだった。犯人は警察に逮捕されて、その後はどうなったのかは知らないが、兎に角警察は関与したのだ。誘拐未遂というがどれほど重い罪なのかは知らないが、あのときの犯人は今も刑務所にいるのかもしれない。それとも未遂犯なので、すぐに出てきただろうか。動機については訊いていないが、営利目的か、でなければ幼い頃の真樹は可愛らしかったから、卑猥な目的かもしれない。いまはかっこいいのだが、ときたま可愛らしくて、などということはこの際どうでもいい。

(あの日、蘭さんは警察署に駆けつけてきた)

 真樹を叱った。真樹を怒った。そして真樹を抱き締めた。

 彼女は本当に、真樹のことを心配していた。それを清花は知っている。だから蘭が悪い人だとは思えない。


 それにもうひとつ。

(蘭さんは、警察を怖がっていなかったじゃないか)

 単純に罪を犯して、警察に追われている、だとかではないのだ。警察から逃げる必要があるわけではないのだ。警察沙汰になったとしても、何の問題もないような立場なのだ。

 では、なぜ彼女は警察に助けを求めずに消えたのか。

 清花には考えてもわからなかった。ただ、ただ時間が過ぎていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る