第15話 石田と塔

 深緑色の生垣に囲まれた庭では、壮年の男が霧吹きを手に植物に水をやっている。庭で園芸を嗜むらしい。細君のほうはどうだったかは知らないが、五年前は植物を育てる趣味は無かったはずで、だから最近楽しむようになったのだろう。仕事を退職した男性の園芸といえば盆栽と相場が決まっているような気がしたが、男は定年にはまだ早かったはずだ。歳をとれば誰でも植物が好きになるのだろうか。それにしては水をやっているプランターの土から生える植物の茎は細く、頼りなさげで、花も咲いていない、何の摂り得もないような植物だった。野菜の苗か何かなのだろう。

「秋月さん」

 少しの間、生垣の影から庭を覗いていたわけだが、あまり長居していると通行人に不審者と誤解されそうだったので、石田鉄は意を決して声をかけた。


 植物に水をやっていた男は背後から声をかけられたことに驚いたようだった。振り返り、じっと石田を見つめ、それから表情がゆっくりと変化した。驚愕の表情に。石田のことを思い出したのだろう。直接会うのは五年ぶりだ。

「きみは……、何か用かな」

「真樹くんはご在宅ですか?」

「真樹に何の用だ」

 秋月塔の口調には、隠せぬ不信感が溢れていた。たぶん神野清花という少女と同じで、石田が真樹を連れて行ってしまうことを恐れているのだろう。

 なぜそんなことを危惧するのだろうか、と考えかけて、ある意味当然だな、と納得する。塔は真樹のことを、母親と別れた子だということしか知らない。だから、いつか母親が彼を迎えに来るという未来を想定していてもおかしくはない。


「話があって来ました。彼がまだお母さんのことを探しているようなので、それを止めておこうかと」

 石田は正直なところを話したが、秋月塔に信用してもらうには時間がかかった。これならまだ五年前の、出会ったばかりの頃のほうがましだったな、と思う。

 なんとか家の中まで上げてもらうことができた。夫人は買い物で出かけているということであり、何の構いもできない、ということだったが、いまは台所で茶を淹れている。淹れようとしている、はずだ。湯を沸かしているのは結構なのだが、茶葉が見つからないのか、棚を開け閉めする音が何度も聞こえてきて、他人事ながら心配になる。

「真樹くんは……」

「出かけている」

 と秋月塔は台所から短く答えた。声の色は、未だ警戒を解いてはいなかった。

 居間に座し、ようやく出てきた湯呑みと急須の載せられたテーブルを挟んで向かい合い、石田はしばらく黙って考えた。ここまで不信感を持たれるとは予想外だった。何の対策も講じてきていないのに。


 石田と秋月が出会ったのも、やはり五年前のことだが、出会う切っ掛けも何も無かった。ただ当時、ひとりぼっちになってしまった鈴木真樹のことを知った石田が、親切そうな中年夫妻に声をかけただけの話である。真樹の存在を教えてやり、引き取れるようなら引き取ってやればよい、とりあえず会ってみるだけでも良いだろう、と助言しただけで、だから彼らにとって石田は、真樹の存在を教えてくれはしたものの、何が目的なのかわからない、久しぶりにやってきた怪しげな男というだけなのだ。おまけに会うのは五年ぶり。不信感を抱くのも当然だ。

 全ての物事を、最初から説明するしかないな、と石田は結論付けた。

「真樹くんから、母親の話は聞いたことはありますか?」

「ない」きっぱりと秋山は答える。「おそらく、あれはおれたちに気を遣っているのだろう」

「では、彼が母親を探しているのは知っていますか?」

「知っている。本人は秘密にしているつもりのようだが、見ていればわかる……。きみが今日、ここに来たのは、その母親に関する話か」

「まぁ、そうなりますね」

「真樹のことを引き取りたいと言ってきたのか。一度はあの子を捨てた女が」

「まさか。それはありえません」

「ありえない?」

 秋月は首を捻った。


「あの、ところで真樹くんは、バイトか何かですか」

「部活だ」

「ああ、ボランティア部とかいう……」

「よく知っているな」

「昨日、清花ちゃんという子から聞いたので……」

「あの子は良い子だ。可愛いし」

「ああ、ええ、はい」なんと答えるべきか迷い、石田は曖昧に頷くことにした。「えっと、施設や病院を訪ねる部活動なんですよね? 今日も何処かへ出かけているんですか?」

「なんだ、急に」

「いや………」

 なんだ、と聞かれれば、非常に答え難い。単なる勘だからだ。予感がしたからだ。五年前のあの日と同じ、厭な予感が。

「近くじゃない。隣県の病院だよ」

 秋月から病院の名を聞いた瞬間、石田は目を瞑った。


「五年前……、いや、依頼が来たのはその一年ほど前ですね。自分はある依頼を受けました。行方不明になった子どもを捜して欲しい、という依頼でした。行方不明というのは、いわゆる失踪とかではなくて、継母に連れて行かれただとかいう話でした」

 急に石田が語り出しても、秋月は不審な顔はしなかった。これから石田が伝えたいことのために、必要な前情報であるということを心得ているからだろう。

 石田は説明を続ける。

「それは、たぶん、昔ならよくある話なのかもしれません。夫のほうは名家の跡取りで、女のほうはどことも知れぬ馬の骨といわれてもおかしくはない生い立ちで、夫は親の取り決めに反発して家を出て、細々と暮らし、子を成した、という話でした。しかし夫のほうが病死し、そのことを知った継母によって、跡継ぎになる子どもを奪われてしまったのだと。

 相手が名の知れた名家であれば、所在を突き止める程度のことは簡単だと思っていました。しかしその継母は女の手から孫を隠すために、様々な手段を用いて、孫の存在を隠そうとしました。彼女にとってしてみれば、自分の手元で孫を育てたかったというよりは、怪しげな水商売女の下で息子の血を引く存在を育てさせるということが問題だったようです。

 子どもが誰に預けられたのかもわからず、また、その老女は口を頑として割ろうとしたなかったため、単純な捜索依頼ながら難航を極めました。子どもの居場所が突き止められたのは、依頼を受けてから一年が経った頃、つまり、ちょうど五年前です」


「その子どもというのが……、真樹なんだね?」

「違います」

 違う。ああ、違うのだ。いまの話に、真樹の存在は一片たりとも出てこない。

 にも関わらず、秋月塔がその子どもを真樹だと思うのは、彼にとって真樹が身近で大事な存在だからだろう。だから、幼い頃に行方を眩まして、探偵によってその行方を捜されていた子ども、というのが出てくれば、それは真樹だと思ってしまうのだ。

 だが世の中、誰もが主人公というわけではない。

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