第五章(03) 決めつけんな
「……なあ、落ち着けよ二人とも」
険悪な空気に、ついにカノフが二人の間に割り入った。けれども。
「――失敗するのが怖いんだね」
ハレンのその声は、言い返してやろうと上げた声ではなかった。
それは、いま言わなければいけないという、使命を帯びたような口調だった。
「慎重に進むのと、臆病なのは、違うよ」
金色の目とはっきりとした口調は、何でも斬れるナイフのようにアークの胸を突き刺した。
――胸中にあった鬱憤に満ちた袋を切り裂き、そこからどろどろとした何かが出てくるような感覚。一瞬前まで、口から吐き出していたそれは、もう下がってしまって出てこない。全て、破れ目から出ていく。
慎重に進むのと、臆病は違う。
自分は――どちらだ。
そんなことは、すぐにわかった。
まず思うことが「怖い」だからだ。
アークは目を大きく、見開く。
失敗するのが、怖い――その言葉が、頭に響く。
――その通りだった。
ただアークはハレンを見つめ返した。目をそらしたら、負けてしまう気がして。
それでも、そらしてしまった。
そうじゃない、と見つめ返したところで、いやそのはずだ、と言われてしまうのが、怖くて。
失敗する――それは自分の可能性のなさを知ってしまうこと。
無力であることを、突きつけられること。
――シュトラ・ペギィレースで、一位をとれなかったように。
――全てができると思っていたけれども、それを否定されたように。
何も言い返せないまま、アークは俯いた。自分の手を見れば、震えていた。
強がることもできなかった。
くるりとハレンが無言のまま背を向ける。その背が、離れていく。追うこともできない。
意気地なしは、立ったまま、進めなかった。
「……アーク」
兄が囁くように名前を呼んでくれた。しかし、それ以上は何も言わない――カノフもすでに、真実に気付いていたのかもしれない。弟は慎重ではなく、臆病だと。
黙っていると、より無力である気がしてきた。何か言わなければ、とアークは思った。
「……その通りだよ」
しかし出た言葉は、全てを認める言葉だった。ひどく震えていた。
「アーク」
カノフが再び慰めるように名前を呼び、そっと肩に触れた。
けれどもアークは、耐えられなくて、その手を払った。
「触んな」
惨めなのは嫌だった。無力なのは嫌いだった。
しかし何かすればするほどに、追い込まれていく。だから、何もやりたくなかったのだ。
「そうだよ、俺は慎重なんかじゃない。何もできない臆病者だよ、何もできないことを知るのも怖かったんだ! だから何もやりたくなかったんだ! 挑戦なんて……やっても失敗して、惨めな思いになるだけじゃないか!」
決壊。自分から溢れ出たどろどろに、溺れていく。
――ハレンともう一度レースなんてしたくなかった。
――未知の島に乗り込みたくなかった。
やったところで、失敗するだけだから。ますます自分がちっぽけに思えてしまうから。
そして、ついにアークは口にした。
『探求者』になってから、いままで、ずっと思っていたことを。
――怖かったのだ。認めるのが。
「――俺は『探求者』に向いてないんだよ」
こんなに臆病で。前に進もうとしないで。
――じゃあ、今日、どうして人影を追わなかったの?
自分自身の矛盾。ハレンに言われる前から、気付いていた。
未知に会いたいのに、恐れている。何も探求しようとしていない。
気付けば視界は潤んでいた。ただただ、悔しかった。自分がちぎれてしまいそうだった。思うように探索し未知に出会いたいと願う理想の自分と、現実の臆病な自分。
……ずっと、居心地が悪く、苦しかったのだ。だから、逃げたかったのだ。
カノフが目を丸くした。それでも、優しく微笑めば弟の背を撫でる。アークは今度は払わなかった。払えなかった。そんなことも、できなくなっていた。
「……アーク、昔のお前はどうした? そんなに……喚いて」
「何もできないんだ。俺は……無力なんだ……もうわかったんだ。何でもできると思ってたのに、それは間違いだったんだ」
何もできない存在だった。認めざるを得なかった。ハレンの言ったことは、全て正しいから。
「……何にもできないなんて、そんなこと言うなよ」
それでもカノフは、アークの目の前に立てば、慰めるように屈んで目線を合わせてきた。
「お前は俺を助けたじゃないか。あの巨人のマキーナとの戦いの時や、さっきだって。それに、お前はまだ『探求者』になったばかりじゃないか。向いてるか向いてないかなんて……まだわからないだろ? まだ……慣れてないだけかもしれないじゃないか」
だがアークは頭を振った。何も聞きたくはなかった。
……兄は何もわかってはいないのだ。
「何もできないんだ」
どれほどに、自分に絶望したのかを。世界から切り離されていくような感覚を。
「何でもできると思ってた……でも、そうじゃなかったんだ。自信があった。俺は立派な『探求者』になれるって……でも違ったんだ」
掴めると信じた夢が、遠のいていく。掴めないと気付いた頃には、辺りは暗闇だった。何も残ってはいなかった。
それを、兄はわかっていない。
理想と、現実。
……カノフの手が、ふわりと離れた。
――と。
「決めつけんな」
それは兄の声かと疑うほどに、聞いたことのない、カノフの声だった。
「何でもできると思うのは傲慢もいいところだぞ。何様のつもりだ?」
否、一度だけ聞いたことがあって、アークは思い出す。
――カノフが『探求者』になるためシュトラ・ペギィレースに出ると、母親と揉めた時だ。
あの時、母親はカノフが『探求者』になるのを止めたのだ。
危険だからと、お前も帰ってこれなくなるから、と。きっとできない、辛い、と。
だがカノフは言ったのだ。
「決めつけるな」と。「挑戦してもいないのに」と――。
「……ハレンに負けたことが、きっかけなんだろ、そうなったのは。自信をなくしたのは」
アークが黙り続けていると、カノフの声色が優しくなった。
「一位を取れると思ったけど、一位を取られて……できると思ったことが、できなくて」
黙り続けていても、カノフは全てを見透かす。それがまた悔しくて、アークは顔を上げた。
兄はいつの間にか、目の前にすっくと立っていた。瞳は同じ色。しかし少し責めるような目をしていた。
と、その目が細まり――アークは強めに背を叩かれた。まるで、叩き起こされるかのように。
「――それで全部諦めるなんて、お前らしくないなぁ! 何もできないと決めつけるのは、早すぎるんじゃないのか?」
明朗な笑い声が響く。カノフは、笑っていた。
「……な、何だよ」
突然笑われて、アークは戸惑うしかなかった。
こちらがこんなに苦しんでいるというのに。
「レースだけじゃない! あいつの方が……いつも一歩先に進んでるんだ!」
だからアークはカノフの胸ぐらを掴み怒鳴った。悔しさに睨んだ目から、涙が溢れた。
「あいつこそ……何でもできると思っていて、実際にその通りやって……俺は、あんな風にはなれない。あんな風になりたかったんだ。あんな風だと、信じてたのに――!」
自分にないもの、全てを持っている。
それが憎くて、アークはハレンをも睨みつけた。
――だが。
「――あいつは、どこだ?」
ハレンは、いなかった。
マキーナの残骸が転がるぼろぼろの廊下には、兄弟だけがいた。
「……あぁ? ……どこ行った!」
我に返ってカノフもアークの手を払い、辺りを見回す。廊下の先を見つめても、その姿はない。まるでレースで追い抜かれた時のように、もういない。
――まさか、先へ?
そういえば先程、こちらに背を向けてどこかへ行ったのを、アークは思い出す。
危険なのがわかっているのか。もし何かあったら――。
とたんに、悔しさが吹き飛んだ。
「あっちだ、あっちに行った!」
ハレンが向かった方へアークは走り出した。「おい待てよアーク!」とカノフが声を上げる。
――どうしてあいつは。本当に苛つく。ふざけやがって。
アークはただ、先を睨んだ。まっすぐに伸びているものの、迷宮のようにも思える廊下を。
恐れている様子を、一つも見せず。
……カノフは微笑めば、弟の背を追った。
【第五章 壊れた蝋の翼 終】
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