第四章(02) 親父は帰ってこなかった


 * * *


 外に出て路地を抜けて、人の姿のない高台へ。たどり着いて、アークは溜息を吐いた――そこは空と街が見渡せる場所だった。喧噪こそは遠いものの、街の光がよく見える。地上に落ちた星のようだった。温かな光。

 見上げれば、海の深い部分の色をした空がある。月と星の光に、流れる『旅島』が影となって浮かび上がっていた。それはどこか、不気味に思えた。流れては去っていく謎の群れ――。

 ――『探求者』の仕事は、危険な仕事だ。

 サジトラの話を、アークは思い出す。

『探求者』になって、そのことを忘れていたわけではなかった。

 ――知ってはいる、けど……。

 欄干で頬杖をつく。

 ……『探求者』は大怪我をすることだってある。死ぬことだってある。叡智を結集させた翼や武器をもってしても、危険なものは危険なのだ。何でもできるわけではない。

 ――だから、今日ハレンと見つけた『旅島』で、人のようなものを見た時、行かなかったのは正解なのだ。正しい判断をしたのだ。

 何があるか、わからなかったから。危険かもしれなかったから。

 もしあの時、何かあったのなら、どうするつもりだったのか。危険な何かが潜んでいたら、太刀打ちできなかったかもしれない。いや、太刀打ちできなかっただろう、確実に。とはいえ。

 ――結局、俺が見たのは何だったんだろ。

 あの人影について――アークは仲間に言わなかった。自分でも信じられず錯覚だと信じたかったからだ。

 不思議なことに、ハレンも言わなかった。理由はわからないけれども。

 ハレン――見に行こうと、目を輝かせていた。

 ハレンはどうして、そういうことができるのだろう。そう、アークは考え始める。あの時、二人ともまだ『探求者』としては未熟な橙ランクで、翼も壊れてしまっていたというのに。「危険」という言葉を知らないのだろうか。怖いと思わないのだろうか。

 思えばハレンは本当に怖いもの知らずだった。人型のマキーナとの戦いの時も、その後のレースでも。シュトラ・ペギィレースの時だって。何も迷わず、先へと飛んでいった。疑うことなく、己の道を進んでいるようだった。

 自分のように怯えてはいなかった。

 ――怯えている?

 ――何に?

 アークは、我に返る。

 ――怖い?

 思い出したのは、ハレンの言葉だった。だが、その時だった。

「――アーク」

 声をかけられ振り返れば、シュピルカがいた。アークは驚いたが、シュピルカは笑って、

「ピッセの話……聞いてたでしょ?」

「……ああ。聞いてた」

「……気の毒だけど、仕方がないことよね」

 シュピルカはアークの隣に並べば、欄干を掴んで夜景を見下ろす。残念そうに微笑んでいた。

「……あたし、もっと何かできたらよかったんだけど」

「仕方ないさ。それは多分……ピッセもわかってる」

 よく晴れた夜空。影となった『旅島』が鯨のようにゆっくりと流れていく。裏に隠れていた月がやがて姿を現し、二人を、ここを、文明の最先端をゆく『第三の島』を照らす。

 アークは、その月を見上げた。

「いまは事前調査や推定危険度調査で、島に深く立ち入らなくても、どのくらい危険かわかったり、マキーナの研究や新しい武器の開発も進んでる……でも、わからないことの方が多い」

 人々が初めて『旅島』を捕まえてから、数百年。そして『叡智の書』を手に入れてから、百年余。『彩の文明』や『旅島』に関する謎は、解明されていくどころか、深まるばかりだ。かつて、新時代の夜明けだと言われた。けれども、まだ世界は暗闇に包まれているといっていい。

「まだまだわからないことが多いってことは……そのまま、危険が多いってことだ」

 アークは言う――何があるかわからない暗闇を見れば、誰もが言うだろう。危ない、と。

「……でも、わからないことが多いからこそ、惹かれるのも確かよね」

 と、シュピルカは溜息を吐く。

「正直、ピッセみたいになった『探求者』の話こそは聞くけれど……こうして目にしたのは初めてよ。見てるこっちも辛いわ……腕も失って『探求者』の資格も失うかもしれないなんて。失うものが、多すぎる……あたし、軽く思ってた」

 月が、また流れてきた『旅島』の影に、呑み込まれるようにして隠れた。街は明るいままであるけれども、月明かりが消え失せ、わずかに世界は暗くなる。

「……あんたは、あんなの見ちゃって、怖くないの?」

 シュピルカはアークを見れば、心配そうに首を傾げた。アークはしばらく返事に困ったが、

「……『探求者』になってからかな、怖いって思うようになったのは」

 ――そう、ハレンに負けたあの日から。

 様々なことが、怖くなった。

「それまでは……何でもできると思ってたんだ、翼を得れば……。でも実際『探求者』になってわかった。違った。思うように空は飛べないし、何でもできるわけじゃなかった。それから……危険と隣り合わせだって、身をもって知ったよ。だから、怖い」

 しかし、と、自然とアークは神妙な顔になる。

 ――けど、怪我や死ぬのが、怖いわけじゃないんだろうな。

 それは、間違いないだろう。何故なら。

「……でもあんたはまだ『探求者』としてやってる……どうして? 怖いのに」

 シュピルカの言う通りだった。

 ……どうして自分は、まだ『探求者』でいるのだろうか。

 怖いのなら、やめてしまえばいいのに。どれほど危険であるかは……そもそも『探求者』になる前から、感じ取っていたではないか。

 それでも。

「――カノフから、親父について聞いたことあるか?」

「……ないわ」

「俺が『探求者』になったのは、ていうかカノフもだけど、多分親父の影響さ」

 父親に関しての記憶は、少ない。けれども、いまここにいるのは父親の影響と言えるだろう。

「……あんた達の父親も『探求者』だったの? 何で言わないのよ、どこのネストの誰?」

 シュピルカは目を丸くして尋ねてくる。だがアークが答えずにいると、はっとして口を結んだ――察したのだろう。

「……万年緑ランクの『探求者』だった。ぎりぎり緑って感じで」

 父親の持っていた緑のプリズムを、アークは思い出す。そして薄汚れた緑の『探求者』章も。

「ろくでもない奴でさ……っていうと言い過ぎだけど、結構へらへらした奴でさ。でも定期的に『錨の島』の家に帰ってきては、よく土産話をしてくれた。『旅島』からこっそり持ってきたものを、見せてくれることもあった……そのせいかな、『探求者』になろうと思ったのは」

 父親の話は、まるで夢のような冒険譚で、面白かった。世界には、自分の知らない様々なことがあるのだと、つくづく思わされた。

 だから、自分自身でも、その知らない何かを見つけてみたいと思ったのだ。

 父親の手のひらに乗ったプリズムの輝きを憶えている。探索の際、見つけたというものだ。いま思えばひどく小さいプリズムだったけれども、当時、その光はとても眩しかった。まるで太陽のかけらのように。その輝きに、未知の世界が凝縮されていた。

「……でも、ある日、親父は帰ってこなかった」

 アークは続ける。全ては起きたことだから。過去の話だから。事実だから。

「任務に行ったっきり」

 珍しい話ではなかった。帰ってこない『探求者』は、時々いる。

「俺やカノフがまだ子供の頃の話さ。二度と家に帰ってくることはなかった」

 何も残ることなく殺されたのか、何かあり『旅島』に残されそのまま一緒に流れてしまったのか。はたまた、いまの自分でも想像できないことが起きたのか。それすらも、わからない。

 けれども、十分にわかっていることが、一つだけ。

「『探求者』の仕事は……危険で過酷な仕事だ」

 アークは繰り返す。自分自身に言い聞かせるように。改めて。

「……それでも、なったの?」

 シュピルカは決して怪訝な顔はしなかった。だからアークは頷いた。

 ……あの時、父親に見せてもらったプリズムの輝きが、忘れられなかった。

「この空にあるものを、見つけたいから。なんていうか……誘われてる気がするんだ」

 だから翼を得れば、誘われるままに、どこへでも飛んで行ける、何でもできると思ったのだ。

「……よく、反対されなかったわね。『探求者』になるの。身内がそんなことに、なってて」

 シュピルカはゆっくりと苦笑いを浮かべた。アークも少しだけ、苦笑いを浮かべて、

「まあ……先にカノフが『探求者』になってたからな。そのおかげだな、母さんに反対されなかったのは……カノフが『探求者』になる時、母さん、めちゃくちゃ反対したんだぜ? お前の言う通り、親父のことがあるから……でも、母さんは止めるのを諦めたんだ」

「あっ、その話、カノフから聞いたことあるかも! 熱意で押し切ったって!」

「熱意って……なんかぎゃーぎゃー騒いでたことしか、俺は憶えてないけどなぁ」

 気付けば、二人の笑みは、苦笑いから自然な笑みへと、変わっていた。

 やがて、シュピルカは深く溜息を吐いた。改めて、アークを見つめれば微笑む。

「……あんまり遠くに飛んで行かないでよ? 空は広すぎるんだから」

 星と月の光に、その顔が照らされる。まだ幼さが残っている、その表情。

「わかってる、大丈夫だって」

 アークはそう返した――実際に、そう空を飛べるものではなかったのだから。

 それからは、黙って二人で街を見下ろしていた。特に話すことがないわけではなかったけれども、そうすることを互いに選んだ。ただただ時間を共に過ごす。星が瞬く。彼方から『旅島』の小さな影が現れては、もう一方では消えていく。

 やがて吹いてきた風に、シュピルカが震え、自身の身体を抱きしめた。

「……薄着で出てきたからちょっと冷えてきた……あたし、風邪ひく前に先に帰るわ」

 シュピルカは欄干から離れる。だがアークはその場に留まったままで、手を振る。

「俺はもう少ししたら戻る……もうちょっと、ここにいる」

「ちゃんと帰ってきなさいよ、明日、任務がまたあるかもしれないんだから……そうだ、あんたの翼、ばっちり直しておいたからね! だから、ちゃんと帰ってくるのよ!」

「わかってるって」

 もう一度アークが手を振れば、シュピルカも手を振り、路地にその姿が消えた。

 明日。また任務はあるのだろうか。今日の夕食で、サジトラは何も言わなかったが、あるのならきっと、朝食の際に言われるのだろう。

 何が待っているのだろうか。空を見ていると自然とアークは微笑んでしまった。

 けれども、我に返る。

 ――どうしてこうも惹かれてしまうのだろうか。自分はちっぽけなのに。

 空は広い。その大きさに、呑みこまれてしまいそうだ。

 ――シュピルカと一緒に帰ればよかった。

 『旅島』の影は不気味だ。

 それでもアークは夜空を睨み続けた。抗うかのように。

 結局は、自分はあまりにも小さな存在にすぎないと、わかっているのだけれども。

 長い溜息を吐く。胸中のもやもやは、晴れない。

 ――そろそろ帰ろう。

 ここにいても、何もできないから。かといって、どこへ行ってもそれは同じであるけれども。どこに行っても、この空の下なのだから。

「……?」

 ふと、アークが背後に気配を感じたのは、その時だった。誰かがいる、シュピルカだろうか。

 ――違った。

「――お前……!」

 背後には『叡智の書』を広げた『探求者』が一人いた。切りそろえられた赤茶色の髪が星の光に輝いている。金色の目は真っ直ぐにアークへ向けられている。

 ハレンだ。石像のように、そこに立っていた。

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