第四章(03) 可能性を無駄にしたくないの
「な、何だよお前……」
もちろん、アークは驚いた。だがすぐに我に返って、翼を指さす。
「おいお前、何で翼広げてんだよ……まさかまた街中で飛んだのか? 禁止されてるのに」
「誰も見てないから大丈夫」
ハレンはいつもの無表情だった。翼が色を失うように消え失せれば、もう誰も彼女が違反したとはわからない。ハレンはこちらまで来て欄干に飛び乗り、街と夜空に背を向けて座った。
「そっちのネスト覗いたらいなかったから、探してたの」
ちらりとこちらを見る。それ以上、何も言わなかった。足をぶらぶらさせ、ただ目の前を見ている。どこを見ているのだろう。待っていても、何も言わない。何も起きない。
――なんだこいつは。
アークは困惑するしかなかった。これは、帰っていいのだろうか。
いや、ハレンはどうやら自分を探していたようだった。だが何も喋らない。
何か、用があるのか? やっとそう聞こうと、アークは口を開こうとした。が。
「なん――」
「残念だったね」
言葉の衝突。圧し負けたのは自分。
しかし何が残念だったのだろうか。首を傾げれば、ハレンは、
「二人で見つけた島。他のネストが調査するって」
「……らしいな。ま、そんなもんだろ。俺達が行くにしても、危険だしな」
その話か。戸惑いつつもアークは返した。だがその返しに、ハレンは何も言わない。
気まずい沈黙が居座る。アークがハレンをもう一度見れば、また正面を見ている。
何の話をしたかったのか。発見した島の話をしに来たのではないのか。
残念だった、それだけを言いに来たのか。もう帰ってもいいのか。
――島の話をしにきたのか?
「島の――」
「空を飛ぶの、好き?」
再び言葉の衝突。相性が悪い。別の言い方をするなら、話そうとするタイミングの息が合う。
「あ、ああ……まあ……」
戸惑うばかりで苛立ちは瞬時に蒸発してしまう。流されるまま、圧されるままにアークは答えた。するとハレンはまたこちらを見る。金色の目に、何が映っているのだろうか。
「だから『探求者』になったの?」
ちゃんと話す気は、少なからずある、らしい。だからアークは答えた。
「ああ……いや、飛ぶのは好きだけど、『探求者』になったのは……誰も見つけてないものを、見つけたいから、だな……」
「偉くなりたいの? それとも、強くなりたいの? すごくなりたい?」
まるで子供のようなハレンの質問。それでも、少しずつ、会話が成り立ちはじめる。
「いや……単純に、おもしろいだろ、知らないものって。で、誰も知らないものを一番に知ったり発見したりするって……いいだろ?」
……どこか漠然とした答えになってしまったが。
――変だ、とアークは感じていた。ふわふわと、雲よりも実体のない会話のようだ。
心地いいわけではなかったが、悪くもなかった。余計なことを考えなくて済んで。
「……じゃあ、今日、どうして人影を追わなかったの?」
しかし冷や水を浴びせ目覚めさせるかのように、ハレンは問う。全く変わらない口調であることが、より問いの鋭さを増させる。
「それは……」
――確かに、自分は矛盾していた。
アークは言葉を詰まらせる。
……もしあのまま人影を追っていたならば、誰も発見していない何かを見つけられたかもしれない。まだ誰も会ったことのない『彩の文明』を築いた何者かに、出会えたかもしれない。
あれは、チャンスだったのだ。
……でも。
「怖かったの?」
ちくちくと刺してくるようなハレンの声。
怖いのか――またその言葉。
その通りではあるのだろう。だがいまだに実体がわからない。ただ一つ、言えることは、
「……もし敵で、強かったら、勝てるわけがないだろ」
あの扉の向こうに、何があるのか、何が待ちかまえているのか、わからないのだ。
未知は、そのまま、危険だ。
「やってもないのに」
ハレンの言う通りだ。やってもいないけれども。
――自分達は、何でもできるわけではないのだ。できないことの方が、多いのだ。
「やってもいないけど……危険なことぐらいすぐわかるだろ。マキーナがいたら、彩想生物がいたら……かなうかわかったもんじゃない。リスクがありすぎる」
「……………ふーん」
それはひどく愛想を尽かしたような「ふーん」だった。
見れば、ハレンは目を据わらせていた。明らかに、不機嫌であるかのような顔で、アークは少し驚いた――そういう顔もできるのか。そこまで親しいわけではないけれども。
と、ハレンはぶらぶらさせていた足を止め、のけぞるようにして空を見上げた。そのまま、後ろにひっくり返ってしまいそうなほどに。
「……私は空がそこにあるから『探求者』になったの」
「……どういう意味だ?」
見上げれば、どこまでも続く空がある。終わりのない、世界の天井。
思えば、ハレンがやっと、自分自身のことを話してくれていた。
「そこに空があって、飛んでいける。それで飛んだ先には『旅島』がある。それなら、行ってみようって思ったの」
とはいえ、その言葉はやはり不思議だが。
ハレンは空を指さす。その先にあるのは、影になってよくは見えない『旅島』の一つだった。
「行かなくてもいいけれど、行ける場所があるなら、せっかくだから行ってみた方がいいでしょ? ……誰にも『探求者』になれる可能性はある。だからなってみたの……ママが『探求者』だったこともあるけど。でもそうじゃなくても……私、可能性を無駄にしたくないの」
――可能性。
声もなく、アークは呟いた。
可能性……何かできるかもしれないという思い。
――そうか。
だからハレンは、物怖じしないのだ。自分の可能性を、信じているから。
実際、ハレンはそれに見合った実力の持ち主だった。
「それに」
と、ハレンは手を下ろし、あたかも澄んだ夜の空気を吸い込むかのように、深呼吸をする。
「空に呼ばれてる気がする。空というか、誰かに」
耳を澄ませば、街の喧噪が消える。夜空の音が、その静けさが入ってくる。
「もし『旅島』に誰かがいて、その誰かが呼んでいるとしたら、会ってみたいと思わない?」
それはまるで子供のような想像だけれども。
アークも、
「……空が呼んでるっていうのは、わかる気がする」
……だからこそ、自分はまだ『探求者』でいるのだ。
空。世界の秘密を隠した青色。
星が笑うかのように瞬いていた――明日もよく晴れるだろう。
ハレンがしたように、アークも深呼吸をすると、夜空が身体の中に入ってくるようだった。溶け込んでくる。染まる。
――ハレン。変な奴ではあるが、案外話の合ういい奴なのかもしれない。
そう思って。
そう思って――数秒後に、誤解だったと痛感した。
「それで、私、あの島に行こうかと思うの。いまから」
「――んっ?」
「それで、私、あの島に行こうかと思うの。いまから」
聞き間違いかと思ったが、丁寧にも全く同じ口調、声色で繰り返された。それでも幻聴だろうとアークがハレンを見れば、ハレンは確かにこちらを見返していた。苛立つほどに、変わらない表情で。
「……悪い、何言ってんだお前」
アークは追いつけなかった――ハレンの思考に、頭が追いつかない。
ハレンは、
「悔しくないの? あの人影見て……あの人影はきっと私達に会いに出てきたんだよ。それを他の人に先を越されちゃうなんて……悔しくないの?」
悔しいかと聞かれたならば、悔しい。だが、
「いや、何でそうなったか、わかってるのか? 危険だからだぞ?」
他のネストが行く。そう聞いて、アークは安心したのだ。何故なら自分が行ったところで、そこに潜む未知と戦える気がしなかったからだ。
――こいつは……自分自身の実力を、どう理解しているんだ?
いくら速く飛べるからと言っても、それでも敵わない強大な敵がいたら。世界は広い。考えられないのだろうか。もし何かあっても、自分達は橙クラスなのだ。
「俺達は橙ランクなんだぞ? いくらお前に技術があっても、武器は強くないんだぞ?」
橙ランク。持たされる武器も、それに見合った力のものだ。協会は、誰と構わず、強い武器を渡してくれる存在ではない。だが。
「それは大丈夫」
そう言ったハレンの腰を見れば、ナイフだけではなく、そこにはホルスターがあった。
――何でこいつ、二つも『叡智の筆』を持ってるんだ?
おかしい。一人に一つが決まりのはずなのだが。
ハレンはそのホルスターをあけると、銃型の『叡智の筆』を取り出した。慣れない手つきで握る。全く見覚えのない銃だ。と、はまっているプリズムが月明かりを反射する。夕焼けから夜に染まる、その一瞬のような色――。
――紫。
――『探求者』最高ランクの者の色。その者だけが持つことを許されたプリズム。
「まっ、まっ、えっ? あぁ?」
あまりのことにアークは言葉にならない声を上げた。慌てすぎて、欄干の向こう側に落ちてしまいそうになる。思わずハレンから距離をとり、そのまま腰が抜けて座り込みそうになったが、なんとか転ぶことはなかった。
紫の『叡智の筆』。
どこかで思っていた――それは英雄譚や冒険譚の中だけの存在ではないか、と。
……それが、目の前に、ある。
「なん、何で? どこで? えぇ?」
声が裏返る。変な汗が出ている。
正直、一生見ることのできないものだと、どこかで思っていた。それを、こんな場所で、こんな時に、しかもハレンが握っているのを見るなんて。
「拝借してきた」
ハレンには一切そんな様子はなく、あったから持ってきた、といった様子だ。適当に構えて見せてくる。
――拝借? ハイシャク?
――誰から?
何にせよ、ハレンが紫の『叡智の筆』を持っているのは明らかにおかしい。これは。
「……ま、まさか、誰かのを、勝手に持ち出して……? ぬ、盗み出して……?」
「違う、拝借してきたの」
ハレンは言い方にこだわる。悪いことは何一つしていないと言うように。
「とりあえずこれがあれば、強い何かが出てきても対抗できるはず」
銃をホルスターにしまえば、ハレンは欄干からぴょんと降り、すっくと立つ。全ての準備が整ったと言わんばかりに。だが、そういう問題ではないのだ。
「お前……お前……少しどころじゃなく違反しすぎだぞ!」
街中で勝手に飛ぶ。許可無く『旅島』へ立ち入ろうとする。そして自分のものではない『叡智の筆』を勝手に持ち出し、使おうとしている。
あまりにも、自分勝手すぎる。
すると。
「じゃあ、アークは行かないの?」
「……っ」
――俺も、あの『旅島』に。
瞬間、アークは言葉を詰まらせた。
行かないに決まっていた。違反であるし、危険すぎるから。
……しかし何故言葉を詰まらせたのだろうか。
わかっているはずではないか。行ったところで、何があるのかわからないのだ。
――調子に乗って行ってしまって、その先で何かあったなら。
「――行かないに、決まってるだろ!」
やっとのことでアークは震えた返事を絞り出した。「答え」と言うよりも「声」だった。
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