第六章(03) もう逃げるな、俺

 ドラゴンは牙をむきカノフを睨んでいた。カノフはまだ起き上がれないものの、剣を構える。まるで英雄譚の一幕に思えるものの、それは間違いなく、強大な存在と非力な存在の光景だった。ドラゴンが口を開く。炎を吐くのではない――鋭く巨大な牙がカノフへと迫る。

 ――ひゅん、と。

 風を切る音がした。

 続いてべちゃりと何かが潰れる音――気持ちのいいものではない。

 ドラゴンの頬に、光り輝く何かが、叩き潰されたように張りついていた。甘い香りが漂う。潰れて溢れ出た汁が、鱗を伝って地面に垂れた。

 と、もう一度、風を切る音がして、直後にべちゃりと潰れる。

 それはドラゴンの巨大な目に当たった。染みたのか、ドラゴンは目を閉じ、頭を振る。そして怒り狂ってそれが飛んでくる方を睨んだ。

 ……だからアークは、抱えた光る実をまた一つ手に取れば、ドラゴンへ再び投げつけた。もう一度、目を狙って。しかし狙いは少しずれて、三個目は敵の目の上に当たった。とろりと果汁が流れる。

「――おいこら! クソトカゲ! カノフから離れろ!」

 声は恐怖で裏返ってしまった。それでも、また一つ、アークは投げつける。

 いまできるのは、これしかなかった。これが、やってみようと思ってできることだった。

「お前なんか串焼きにして食ってやる!」

 そうアークは言うと、果たしてドラゴンはおいしいのだろうか、なんて考えて始めてしまった――恐怖のあまり、現実逃避気味に愉快なことを考えてしまっていた。ドラゴンの肉は果たして固いのか、柔らかいのか。なんて。そもそも串焼きにするなんて、どれだけ大きな串が必要になるのか。なんて。

 けれども。

 ――気を引くことは、できた。できたのだ。

「何人分の肉になるんだろうなぁっ!」

 アークはまた一つを掴んで投げつける。だがその実は他のものと違って、妙に柔らかかった。不思議に思ったものの、もう遅い。ドラゴンの鼻に命中する。

 その実はほかの実と違って、潰れ方がおかしかった。粘り気があるかのように、どろりと潰れたのだった。瞬間、ドラゴンはまるで戸惑った犬のように鳴き、目を細め、頭を振る。すると異常に甘ったるく、気分が悪くなる匂いが漂った――腐っていたのか、熟れすぎていたのか、そんな匂いだ。

 カノフが顔を歪める。アークもうっと顔をしかめ、もしかしてと思ってその実を投げた手の匂いをかいでみると、あまりの臭さに吐き気を覚えた。

 獣のうなり声が聞こえた。地面を震わせるかと思うほど、低く、怒りのこもった声が。

 アークが顔を上げれば、ドラゴンの鋭い目と目が合った。一歩、また一歩と近寄ってくる。

 怒らせてしまったようだ――そう思った次の瞬間、ドラゴンは炎を吐いた。ぎらぎらと輝く白色が迫ってくる。

 ぱっと地面を蹴ってアークは上空へと飛び立った。まだ翼はあるのだ。高くまで飛べば、大きかったドラゴンは小さく思える。だがドラゴンも翼を広げ追ってくる。

 ――おとりになろう。

 そう思いついた。深くは考えずに。

「今のうちに安全な場所へ逃げろ!」

 ドラゴンに追われながらも、アークは器用に逃げつつ、カノフへ叫んだ。それからハレンが落ちたであろう茂みの方にも怒鳴る。

「ハレン! お前一体どこだ! 大丈夫なのか!」

 返事はなかった。

 立ち上がったカノフは、ゆっくりと歩き出す。天井を見て立ち止まれば、荷物の中から何かを出した。と、何かを発射する。先程ハレンが天井に作った、穴に向かって。

 救難発光弾――白い光は天井の穴から外に出ると、真夜中の空に光り輝く。

 もう見つかってしまう、なんて言ってはいられない。これで助けが来てくれるといいのだが――天井の穴から、アークは光を横目で見る。

 と、背後から別の白色の光を感じ、アークは回転して横へとずれた。隣でドラゴンの炎が燃えさかる。その勢いに煽られそうになるものの耐える。

 アークが後ろをちらりと見れば、ドラゴンとの距離はあった。

 よし、これなら――そう思った時だった。

 ドラゴンが吠え、大きく羽ばたいた。ぐんと速度が上がり、まっすぐに飛んでくる。

 慌ててアークが避ければ、ドラゴンはそのままアークを追い越し、先にあった壁に張りついた。だがそれも一瞬で、まるで飛びかかるように、今度は正面からアークへと飛んでくる。

 完全に不意打ちだった。それでもアークは横へと逸れようと身体をひねった。そのため牙は避けられたが――ドラゴンの大きな翼に、叩かれた。

 翼は硬かった。アークはそのまま逆さまに落ちていく。カノフの悲鳴が聞こえた。真下を見れば青かった。冷たい衝撃に包まれる。

 奇跡的に、落ちた先は池だった。沈み込む。冷たさが痛む身体に染みる。口から空気を吐き出してしまう。いくらか水を飲んでしまう。上はどこだともがく。目を開けて、明るい方へと浮いていく。

 水面上に顔を出し、アークは空気を吸った。けれどもせき込む。それでもドラゴンはどこだと見回せば、

「――アーク! 潜れ!」

 カノフの声。そして目前には炎を吐きながら飛んでくるドラゴンの姿があった。

 息を吸う暇もなかった。アークがすぐさま水中に戻れば、水面は白色に染まっていく。薄暗い水中を、柔らかな光が満たしていく。

 ――こんな状況ではあるが、水中から見た水面を覆うドラゴンの炎の美しさに、アークは目を見張った。

 きらきらと揺らぎ、輝いている。それはとても眩しく、柔らかそうだった。

 まるで別世界のようだった。口からはわずかに泡が漏れ、白い光へと、昇っていく。

 白い光が消え去り、アークは再び水中から顔を出した。すぐ近くの岸から這い上がる。

 濡れた服が重く、身体中の骨にひびが入っているのではないかと思うほど全身が痛かった。それでも、顔を上げた草地の先に、ドラゴンは四つ足で立っていた。口からは抑えきれないのか、白い炎が溢れ出ている。

 逃げないと。そう思って、アークは翼を広げようとしたが――ばちり、と音がした。

「……嘘だろ」

 背負った『叡智の書』。出現させた翼は、ぼろぼろに破けてしまっていた。輝きが揺らめけば、翼は消えてしまう。

 ――壊れた。ドラゴンの翼に叩かれた時に。

 全身の力が、抜けていくような感覚。全てが崩れていくような感覚。

 ――失敗。うまくいかなかった。

 と、ごう、と正面から音がして、我に返ってアークは走り出した。そのため何とか炎を避けたが、もう限界が近かった。足がもつれ、草地に転がる。

 カノフの声が聞こえた。それからドラゴンの唸り声。ドラゴンは、少し離れた場所からアークを見下ろしていた。ようやくしとめられる、といった目で。

 ――やっぱり、だめじゃないか。

 アークの全身は、震えていた。

 結局、だめだったじゃないか。やってみても。

 ――失敗した。

 ――無力だった。

 武器もない。離れた芝生の上に、自分の銃が転がっているのが見えたが、取りに走る余裕もない。そして橙色の輝きは、あまりにも弱々しい。

 敵うわけが、ない。

 ――それでも、身体を起こそうとしたのは、生存本能からだった。

 死ぬわけには、いかない。

 翼が壊れてしまっても。武器が弱々しくても――いまは、戦うしかないのだ。

 ――と。

 こん、と、身体を起こそうと地面についた手に、何かが当たった。

 ――紫色の光。

 ハレンの持ってきた紫色の銃が、そこにあった。

 最高ランクの『探求者』のみが所持を許され、また使いこなせる武器――トップレベルの腕がなければ、使いこなせない『叡智の筆』。

 もう一度アークが顔を上げれば、ドラゴンが炎を吐こうと胸を膨らませていた。

 見比べるように見下ろせば、紫色のプリズムの輝きが目に痛い。

 ――できるだろうか。

 真の『探求者』のための武器。しかし、迷っている暇なんて、なかった。

 ――やってみるしかない。

 やってみなければ、わからないのだから。

 その銃を、アークは手に取った。

 自分には、不釣り合いだと感じられる銃。それでも。

 深呼吸をする。立ち上がり、ドラゴンへと向かって、構える。

 ――紫の銃を手にした。

 しかし、だからといって何でもできる、怖いものなしだとは、思わない。思えない。

 ――信じれば、翼を得れば、何でもできると思っていた。

 でも、もうわかった。それは思い上がりだったのだ。

 だから紫の銃を手にしても、大丈夫だとは思わない。

 使いこなせないかもしれない。うまくいかないかもしれない。

 だがここで撃たなければ――自分は意気地なしのまま、死ぬのだ。

 ――怯えることで、自分の可能性を全て潰していたのかもしれない。

 何かができたかもしれないのに、何かすることを避けた。

 気付いた。そう。慎重と臆病は違う――臆病は前に進まない。慎重は前に進む。

 銃を構えた手が震えた。巨大な敵が、恐ろしかった。しかし。

「……もう逃げるな、俺」

 逃げてばかりだった。立ち向かえば、何かが成せたかもしれないのに。

 可能性を捨てるな――可能性から逃げるな。

 ――やってみるしか、ない。やってやるのだ。

 ドラゴンが炎を吐いた。白波のような、けれども勢いのある揺らめき。

 それと同時にアークは重い引き金を――引いた。

 全ての曇りを晴らすかのような、澄んだ音が響いた。紫色の閃光が、宙を走る。炎へと突っ込んだかと思えば、その白色を染め上げるようにかき消した。そしてドラゴンへ向かう。

 鮮烈な紫色の輝きが爆発する。銃弾はドラゴンの喉に命中した。悲鳴を上げるドラゴン。苦しそうに尾を振る。

 ――当たった。

 発砲の衝撃は非常に重く、慣れない反動に手を痺れさせてしまったが。

 それに、これも慣れていないせいだろう、顔を狙ったのだが、狙いが喉にずれてしまった。

 しかし、これなら――痺れが消え去り、アークはしっかりと銃を握る。

 だがドラゴンは喉に深い傷を負っても生きていた。まるでせき込むように炎を吐けば、苦しそうな、それでも怒りに満ちた咆哮を上げる。

「不死身かよ……」

 思わずアークは苦笑いを浮かべる。これがドラゴン。なんて恐ろしい敵。

 ドラゴンはもう一度濁ったような咆哮を上げ、古びた布のような翼を広げる。こちらへと飛んでくる気だ。アークは再び銃を構える。次こそは。

 しかし唐突にドラゴンは悲鳴を上げた。バランスを崩したかのように、何の前触れもなく、横に倒れる。

 一体何だ、とアークは身構えたが、ドラゴンの背後で青い光が見えた。

 カノフだ。その傍らには、太くて長い何かが転がっている――ドラゴンの尾だ。

「カノフ! まだそんなところにいたのか!」

 心配してアークは声を上げたが、カノフは笑って、

「弟がやばいんだ! 一人で逃げられるわけがないだろ!」

 そう言った次の瞬間、ドラゴンは跳ね上がるように宙へと飛び上がった。先のなくなった尾を振りながら、バランスが取れない様子で羽ばたき、少し離れたところに落下する。

「あの野郎……まだ生きてやがる。これがドラゴンか」

 アークと同じことを、兄も言う。だからアークは「何か弱点はないのか?」と、駆け寄って尋ねるが、カノフは苦い顔をしたまま、ドラゴンを睨んでいた。ドラゴンは身体を起こそうと必死だ。中途半端な長さの尾を、ぶんぶんともがくように振っている。と。

「……?」

 はたと、何かに気付いたように、カノフが自身の剣を見た。青い光を帯びた剣。刃にはゴミのようなものがついているが、ひどく美しい。

「……土がついてる……血じゃなくて」

 独り言のような兄の言葉に、アークも気付いた。刃についているのは、土汚れだけ。

 ――血が一滴も、ついていない。

 言われてアークも思い出してみれば、喉を撃った際に、血が出ていなかった。普段はプリズムで動く人形であるマキーナばかりを相手にし、彩想生物なんてあまり相手にしないため、意識していなかった。

 ――あのドラゴンには、血が流れていない?

 そうアークが思った時、カノフの隣にあった切り落とされた尾が、急激に色あせはじめた。艶やかな鱗の生えたそれは、土色へと変化し、ぽろぽろと崩れだし――くしゃりと解けた。

 そこにあったのは、土塊だった。確かに、土だった。

「――ドラゴンじゃないんだ」

 土塊に手を伸ばし、握りしめ、カノフが目を見開いた。手の中から、土がこぼれ落ちる。

「あいつは――ゴーレムなんだ! ドラゴンの姿を模したゴーレムなんだ!」

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