二章 異世界転生問題と教授のアルトロモンド 10
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あの陰気な地下空間で込み入った話をするのも気分が滅入りそうでしたので、ともかく一度外へ出ることにしました。半ば放心状態だったパンシパル教官にも声を掛け、私たちは無事に地上へと生還を果たしたのです。
地下室へ繋がる小屋から外へ出ると、真っ白な月明かりに包み込まれた穏やかな夜空が迎えてくれました。中庭の空気は都会の汚染が浄化されかのように澄んでおり、鈴虫の鳴き声が聞こえてくる落ち着いた雰囲気が満ちています。
豹変したパンシパル教官から伝播して感じ取った、魑魅魍魎の館という印象は既に払拭されていました。もちろん、『影法師』の姿はどこにありません。
「すぅ——はぁ……」
大きく深呼吸して、その不思議な清涼感を体内に取り込み、ようやく私が一息ついていると、ケメットが「化け物だニャァ!」と悲鳴上げて飛び上がります。
彼女が飛び退いた足下からは、半透明のぶよぶよした気泡のような物体が迫り上がってきていたのです。それは一見、生き物のようにも見え、地面から宙へと昇って行きます。その一体を皮切りに、中庭の一面から緑色の淡い光を帯びた物体が次々と現れ、草木に纏わりついたり、家の壁を這ったりしていました。
見たことも経験したことも無い事象を前に当惑していると「大丈夫」と声が掛かります。
今し方、小屋から出て来たパンシパル教官でした。
「大丈夫。一部のマナが可視化した姿だ。環境の浄化が進むと、一定の条件下で視認出来るようになる。シンクレア、さっきの魔術は君の『
「サージェイト?」
冷静に事態を分析した教官が大佐に尋ねました。そして
つまり大佐は、あの呪文によって賢天の称号を手に入れたということになるようです。
「言うなれば大佐の必殺技だニャ」
補足をありがとうケメット。
それにしてもあのような怪物を一撃で屠るだけでなく、周辺環境に浄化の作用までもたらすとは、何というか、環境への配慮なんて似合いません。
「余波みたいな物よ。それよりもパンシパル、気分はどう?」
大佐が慈愛を秘めた微笑みを浮かべてそう訊ねると、教官はばつの悪い顔を見せて俯き、恥じ入るように伏し目がちになりました。
「気持ちが楽になったよ。胸のつっかえが取れたみたいだ。しかし君には……その、大変な迷惑をかけてしまった。本当にすまない。謝って済む話でもないだろうが、どう償えばいいか……」
「——奥さんと娘さんのことは、まだ諦められない?」
「そうだな……ああ、諦めるつもりはない。今回は、どうやら私の見当違いだったらしい。君の言葉にも、考えさせられた。魂に依って立つというのは、一考に値する。輝きばかりを求めすぎて、目がかすんでいたようだ。足下が見えていなかった」
教官はその輝きと力を失い、今にも朽ち果てそうなトンボ型のタリスマンを手に取りました。創造器と思しきタリスマンの力を過信し過ぎたということでしょうか。
「パンシパル、アルトロモンドは重力なんかじゃないわ。いつかあなたにも分かるはずよ。あと——あたしに痴漢を嗾けた罪滅ぼしがしたかったら、いつでも受けてあげるから。施した恩は忘れない主義なの」
フフン、と徳のない言葉を吐いて笑う大佐はさっと身を翻し「帰るぞ!」と号令を出します。早々と立ち去る大佐にケメットが続き、私も付き従います。
ですが——。
その前に、私はどうしても彼に伝えたいことがありました。大立ち回りの末、感情が昂ぶりの助けも借りて、彼の生徒として、彼を慕う者として。
「教官、私も……大佐ほどではないにしても、アルトロモンドはあるんじゃないかと、そう思っています。それが想像通りの物かはわかりませんけど、でも、私は大佐を信じてついていきます。私の願いを叶えるためにも。またお茶をご馳走してくださいね!」
この一件を経て、シンクレアがカリスマと呼ばれる所以が少しわかったような気がしました。強いだけじゃなく、清廉潔白というわけでもない。
完璧そうに見えて実は隙だらけ。
愚直で一途。
自ら先陣を切って道を切り開き、夢を語るロマンチスト。
そんな冒険譚の主人公のような姿が、市井の人々魅了するのでしょう。
彼女に感化されてしまった私という事例があるように、パンシパル教官の寂しげな表情の中にも、熱い想いが芽生えたような気がします。
去り際に見た、硬く握りしめた彼の拳が、その顕れなのだと信じたいです。
あの懐かしい学舎で見せてくれたような、涼やかで柔和な笑顔を見せてくれる日がいつかまた来る——そう願ってやみません。
こうして事件は一段落したものの、今日は何だか眠れそうもありませんでした。
自分でも驚いた事に、大佐と語り明かしたい気分だったのです。この世界とは異なる世界の存在。本当のアルトロモンドとはいったい何なのか。
今だったら、大佐の荒唐無稽な話でも進んで聞き入る用意があります。
そしてふと、気になったことがありました。
これ程までにアルトロモンドを盲信する大佐。
彼女の願いとはいったい、何なのでしょう——。
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