二章 異世界転生問題と教授のアルトロモンド 9
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パンシパル教官は自らの手で造り上げたという石の門を前に佇んでいました。
彼は私に気づいたようですが、こちらを振り向く素振りすら見せません。バインダーを手に何かを書き込み、作業をする片手間に話しかけて来ます。
「ルイズ君、今は扉の調整が最終段階に入ったところだ。すまないがお茶は出せない。出て行けとは言わないが、もう暫く辛抱して欲しい。すぐにこの嵐も収まるはずだ」
その普段と変わらぬ口調と、何かに熱中して他の物は眼中に無いといった学者肌な言葉を聞き、私はこの異常現象の犯人が彼である事を確信します。同時に込み上げてきた感情は、怒りや恐怖ではなく、寂寥感でした。
今の彼にとっての、私という存在、私の位置づけを見せつけられた気がしたのです。
私はただの教え子でしかなく、今に限れば、愛惜にすらあたわない赤の他人。
「教官……ッ! この現象は、あなたの魔術が原因なんですね」
歯を食いしばり、雑念を振り払うように首を擡げ、彼を睨め付けます。
「学生時代の君は少しおっとりとしていて、語弊があるかもしれないが、物事に対して鈍感な印象を抱いていた。それでこの先、軍人として勤めを果たせるのだろうかと心配していたが、その必要はないようだね。安心したよ」
「昔話をしに来たんじゃありません! 今すぐその魔術を止めてください! 必ず大変なことになる——いえ、もうなっています! 街を見ましたか? そこら中に影法師が現れているんですよ!」
大声を出した途端、稲妻のように鋭い痛みが眼球を通り、側頭部に激痛が走ります。
うめき声を上げて蹲っていると、大佐の足が目の前を横切りました。
彼女もまた眉間に皺を寄せて、肩で息をして辛そうでしたが、確りと床を踏みしめます。
「パンシパル、その魔術を止めなさい。多分だけど、そのちんけな石の門のせいであたしは大迷惑を被っているんだわ。精神的な苦痛を一生分受けた。慰謝料を請求したいところだけど、まず、魔術を、止めなさい」
大佐が語気を強めてそう言うと、教官は初めてこちらを振り向きました。
彼の胸元では、以前にも見た十字のタリスマンが黄金色に輝き——その時、初めてタリスマンがただの十字ではなく、トンボの形をしていることに気がつきます。
「
「感謝の意味がわからないわ」
「私が気づいたアルトロモンドの姿とは——重力だ。それも膨大な質量を秘めた究極の重力。それこそ、空間から落ちて孔を穿つほどのね」
「何の話をしているの?」
「アルトロモンドとは重力であり、孔であり、別世界への通路。扉とは恐らくそこから来ている。作者であるカイロ・メジャースがどこまで考えてあの作品を書いたのかは定かではないが、それでも読みは正しかった」
「あなたの講義を聴きに来たんじゃない。講釈を垂れたいのなら大学でも講習会でもお好きにどうぞ。でも今はごめんよ。早く魔術を止めて、あたしを怒らせたいの?」
二人は互いに向き合いながらも、まったく会話にならない会話を続けていました。教官は一方的に持論を述べ続け、大佐が声を荒げて憤慨する構図が繰り返されます。
ですが、次に語られた内容が大佐の興味を惹いてしまったようです。
「ただ、その質量となり得る存在の発見は困難を極めた。扉とパスを繋ぎ、重力の役割を果たすことの出来る存在。それが生物なのか、鉱物なのか、土地なのか、あるいは地上の物ではないのか——あのとき、君と偶然出会わなければわからなかったことだ」
「あたし?」
教官は深く頷き、胸元で輝くトンボのタリスマンを握りしめます。
「
それを聞いた途端に大佐の眼光は一層鋭さを増し、僅かに身構えたのがわかりました。
「——創造器か」
虚を突かれました。創造器があるかも、あるのならそれは石の門であろうと考えていたからです。まさかそんな些細な力を示す物が創造器だとは思いもしません。
しかし、思い返せば怪盗オマールも杖にトンボをあしらっていました。
この奇妙な類似点は創造器に良く見られるものなのか。
それにしても、創造器とは関係なく、独力により世界を変容させかねない魔導具を造り上げている点で、パンシパル教官は
「シンクレア。勝手なことをして悪いが、君とこの門の因果を結ばせてもらった。研究は最終段階に入ったんだ」
彼は身勝手なことを言うと、石の門を私たちに見せつけるように前から立ち退きます。
全容が明らかとなったその先には、石の門から覗く大海原——かと思えば次の瞬間には雲を突き抜け遙か上空の景色が広がり、人々の生活風景が映し出されます。
先ほどの頭痛が起こる度に変わる景色のように、門の向こうにある景色は絶え間なく変化し続けていました。
「パンシパル、忠告はこれで最後よ。その門の向こう側がこっちに流れ込んできている。どうしようもない事態に陥る前に、門を閉じなさい。でなければ破壊する。邪魔をするのなら、あなたも排除することになる」
スッと、気色ばんでいた大佐の面持ちは真顔となり、彼女の瞳は本気の度合いを示すように据わっています。
「君は、アルトロモンドを拒否するというのかね?」
「あなたの門はアルトロモンドじゃない。残念だわ先生。結局、あなたもアルトロモンドを信じていたわけではなかったのね。だから惨めに偽物なんかに縋り付くのよ。その門は確かに大魔術の素養を内包している——けどね、そんなちんけな門じゃ、あなたの奥さんと娘さんは生き返ったりなんかしない」
彼を説得する上で欠かせない文言。
私も大佐も、この認識を共有していました。
教官は妻と娘を生き返らせようとして、この門を造り、この事態を引き起こしたのだと。妻子の死という、未だ醒めない悪夢に囚われている彼を救うには、彼が現実と向き合う他に道はありません。その門に注いだ労力は徒労に過ぎないと、どうにか目を覚まさせる必要がありました。
ところが教官は自嘲気味に笑うと、誤った解答をした生徒を窘めるように首を横に振りました。
「君は話を聞いていなかったのかね。私はアルトロモンドを願望成就の創造器として見ていない。重力だ。たかが重力に人を甦らせる力など存在しない。私の目的はね、シンクレア——家族が生きている世界へ行くことさ」
私はハッとして顔を上げました。
彼はアルトロモンドを多重世界への通路として見ていた。その彼がアルトロモンドを再現するということは、当然ながら通路しての用途を見出していることに他ならない。
つまり彼は『もし』の世界。
妻子が生存しているパラレルワールドへ向かおうとしている。
大佐もそのことに気づいた様子で、眼を見開き驚きを露わにします。
「あなた正気なの?」
「その言葉はそのままお返ししよう。お伽噺を鵜呑みにしている君にこそ似つかわしい。あらゆる願いが叶う扉を追い求めるなど、それこそ神経を疑うよ」
「黙って。扉の向こうがパラレルワールドとも限らないのに、その上、無数にある『もしもの世界』から、どうやってお目当ての世界を見つけるつもりなのよ!」
「私も学者の端くれでね、失敗を繰り返し積み重ねて答えを得る生き方をしてきた。これからもそうするだろう」
「手当たり次第ってこと? 馬鹿げてる。途中でのたれ死ぬのがオチよ」
「それでも私は二人に会いたい——邪魔をしてくれるな、
その身勝手な物言いに、然しもの私も割れそうな頭に血が昇ってカチンときました。
いくら思いを寄せていた人でも、無関係の人々を巻き込んで一か八かの博打に出ようとする自己中心的な振る舞い、そして既に被害を受けている我々への無配慮。
見過ごしてたまるものか——そうした感情が湧き起こるものの、彼は聞く耳持たんとした態度で背を向けて門に手をかざすと、突然、地下室に風が巻き起こりました。
踏ん張らなければ体を持って行かれそうな突風が前方から押し寄せ、同時にこれまでに無い破滅的な乖離に見舞われます。
ふわりとした浮遊感——私の眼に映し出されたのは誰かの背中——違う、これは私の背中だ。倒れ伏している自分の姿を、私が背後の中空から見ている構図でした。門からは黒い霧が奔流となって噴き出し、その激流が私の精神を身体から引き剥がそうとしているように見えたのです。必死になってその流れに抗っていると、途端に私は自分の身体に戻ることが出来ました。ですが異変はそれだけに留まらず、床一面に敷かれている石畳に亀裂が入ります。
バキン、と石畳がはじけ飛び、眼下の亀裂の奥には漆黒の空間。
その闇の奥からぬうっと顔を近づけてくる存在に気付き、全身が総毛立ちます。
それは私でした。亀裂の向こうにはもう一人の私の姿があり、彼女は薄笑いを浮かべながら手を伸ばしてくると、私の腕を掴んで闇の奥へ引きずり込もうとしてきたのです。
「い、嫌、いやぁああああッ!」
何が起きてるのかわからない。自分ではどうする事も出来ない。
恐怖に駆られた私は、もう一人の私の手を払い除けようと懸命に暴れます。
私の髪を掴みに掛かるもう一人の私。
頭を振り乱して助けを求めますが、荒れ狂う黒の奔流に遮られ、大佐を見失ってしまいました。
どうしたら良いのか——これでは教官を止めるどころではありません。すると、門の前に立つ教官の背中が見えました。この嵐の中でも、彼の着衣には一切の乱れが無い。
胸元で輝きを放ち続けている創造器が、この暴風から彼を護る役割を果たしているのだろうと考えられます。
教官がそっと門へと手を伸ばすと、向こうに映っていた世界は途端に閉ざされ、波紋と共にほの暗い水面が広がりました。依然として黒い霞が吹き付けていましたが、教官が手を加えた影響か、勢いが幾分収まりつつあります。
夜の湖面のような静けさを湛える門は、やがてとある人物を映し出しました。
美しい妙齢の女性と、愛らしい服の少女。彼女達は眼前に立ち尽くすパンシパルに微笑みかけ、身を震わせる彼の様子からして二人が彼の妻子であることは明白。あの戸棚に飾られた写真と比べてもうり二つの姿——ただ、一つ異なる点がありました。
彼女達の背後には、長身痩躯の影法師が不気味に佇んでいたのです。
母子の二人は、穏やかな笑みを浮かべて目の前の教官に手を差し出し、彼を誘っているかのようでした。
二人の手を取りたい——その欲求がありありと見てとれます。
あり得ない。これは悪魔の誘惑です。こんなご都合主義がまかり通る世界なら、私の幼少期はもっとマシな物だった事でしょう。
私は渾身の力を込めて、もう一人の私の頭を押し込みました。
「教官! 行っちゃダメです! それは絶対にあなたの奥さんと娘さんじゃない!」
根拠は背後に立つ影法師、それだけで十分です。
あの立ち位置がまるで人形遣いのように見えてならない。
教官に門を開けさせようと、餌を吊しているようにしか見えません。
門が開いてしまったらどうなるのか……あの影法師がこちらの世界へ?
大佐は影法師をこの世界と異なる次元の存在であるとし、互いに干渉できないような話をしていました。もし、あの影がこちらの世界に『真に』顕現するとしたら?
生き物としての本能の部分が警鐘を鳴らします。
家族が目の前にいると信じて疑わない教官は、二人の手を取りたいと希求する思いを抑えられませんでした。私の声に耳を傾ける素振りも無く、波紋が広がる門に指先を触れさせてしまいます。
自信の無力感に苛まれるのは勿論ですが、八つ当たり的に大佐への苛立ちが募ります。
こんな時に大佐は何をしているんだ、どうして助けてくれないんだ——。
癇癪に近い激情がのど元まで迫り上がった時、黒い靄が噴流が突然途絶えました。
ふと隣を見上げれば、大佐が驚くほど間近にいたことに気づきます。
「た、大佐! お願いです、教官を止めてください!」
ところが彼女はこれまで見たことのないくらい緊張した——もしかすると、切迫した面持ちをして、呼吸を乱して門の先に拳銃を構えていました。額に光るの汗は私と同じ症状のせいか、それとも、門の先にいる『何か』を畏れているのか。
大佐は教官と門から視線を逸らすこと無く、拳銃の弾が収まる薬室から銃弾を引き抜き、胸ポケットから一発の銃弾を取り出しました。彼女はその銃弾に息を吹き込むような所作で口づけを施すと、小さな鉛の固まりが禍々しい紅蓮の輝きを帯び、薬室にその輝きが封じ込められます。
大佐が何を考えて居るのか、何をしようとしているのか——それらを推し量る知識を持たない私は、もどかしさと焦燥感から彼女を急き立てます。
「大佐! 扉が開いちゃいますよ! お願いですから教官を止めてください!」
しかし、彼女からの返答は端的なものでした。
「もう開いてる」
愕然とする私を他所に、パンシパル教官は一歩前へ踏み出しました。
「二人とも……今、いくよ」
教官が門の中へと踏み込もうとした矢先。
大佐が拳銃を構えながら思い切り床を踏みならしたのです。すると、いつの間にかパンシパル教官の影まで伸びていた
「——ッ」
パンシパル教官は門を通ろうとした所で体勢を崩し、弾かれるように門の外側へ飛ばされます。その瞬間、巨大な両手が門の中から飛び出し、内側から入り口を押し広げようと門を掴んだのです。
やがてほの暗い波紋が広がる門口の水面が浮き上がり、おぞましい面貌が現れました。
血のこびり付く古びた布で両目を覆い隠された『鬼』の貌。
焼け爛れた浅黒い肌には血が滲み、鋭い乱杭歯を蠢かせる口内からは、腐臭がたれ流されて空気が穢されていく。
その障気に巻かれた為か、教官の胸元で輝きを放っていたトンボ型の創造器が甲高い音を立てて砕け散りました。
「そんな……こんなこと……私は、こんな物——」
全くの想定外だったのでしょう。教官は創造器が砕けたことにも気づいていない様子で、こちら世界へ侵入を果たそうとする鬼を見上げて唖然としています。
かく言う私も、生まれて初めて目にした魔の眷属に息を呑んでいました。
暴威という言葉が実態を持ち、目の前に顕現したかのような畏怖の感情。
この世の者ではない、もしかするとこの世界の理からも外れ、魔族ですら無いのかもしれない。決して開けてはならない箱があるように、開けてはならない扉を開いてしまったのかもしれない——。
鬼の咆哮が耳をつんざきます。
おぞましい顎から発せられる、断末魔もかくやという悲痛なる叫び。その声を耳にしただけで、私の意識は明滅してしまいます。細胞の一つ一つが目の前の現実を受け入れることを拒否しているようで、絶望に捕らえられ生存を諦めたかのような感覚。
身を捩りながらこちらの世界へ渡ろうとする鬼は、石の門へと強引に身体をねじ込み、重厚な石積みが軋み始めます。一刻の猶予もない。あの怪物を自由のみにしてはならない。
でもどうすれば——と、見上げれば、大佐が鬼と対峙していました。
「パンシパル」
彼女は鬼に銃口と視線を向けながら、静かに、けれど情を籠めて語りかけます。
「あなたがどう思っていようと関係ないわ。あたしはアルトロモンドが実在するって信じてる。『きっとある』じゃないの。あるのよ」
こんな危急の時に話すことかと、私は鬼と大佐を交互に見ました。
「あなたが望んでいる事って、凄く残酷なことよ。奥さんと娘さんに会いたいっていう気持ちは理解するけど、二人の形をしていれば何でもいいの? あなたと一緒に過ごした二人の魂は——思い出は、この世界に置いてけぼりにされてしまう。あなたは愚かと言うけれど、それで良いじゃない。愚か者にこそ冒険に出る資格がある。一緒に愚か者になりましょうよ! 願いは叶うわ!」
「大佐ァッ!」そんな事を言っている場合かと、私は叫びました。
その瞬間、石の門が歪み、咆哮と共に鬼がこちら側の世界へ乗り出してきます。対峙していた大佐を呑み込んでやろうと、鬼は巨大で醜悪な顎を目一杯に開いて迫ってきました。
《
楽器の調律器具に二叉の道具で音叉という物があります。
打ち鳴らすと、一定の音階で音色を発するのですが、まさにその音叉と似た響きの音が、大佐の拳銃から鳴り響きました。
撃鉄が弾丸を炸裂させ、乾いた発砲音の代わりに荒んだ心を調律するような、癒しの音色が響き渡る。その後の出来事は全てが一瞬で、乱れた音階が正されていくように、世界の理が粛々と、直ちに修正されてしまった。
鬼の額に術式陣が刻み込まれ、その陣を中心に鬼は捻り曲がると、渦潮のように術式陣へと吸い込まれて消えてしまったのです。
教官が数年掛けて造り上げたであろう石の門は崩れて残骸と化し、地下室は静けさに包まれます。頭が割れんばかりだった頭痛も嘘のように無くなり、全ては平常に——。
「ふぅ……」と額に汗を浮かばせた大佐が息を吐く姿を見て、彼女自身、もしかすると今の魔術は賭だったのかも知れないと察しました。
オマール怪盗団の一件で垣間見た彼女の実力を思えば、結果論ではありますが、あの怪物を退治出来たのは当然だったのかも知れません。深遠なるドラドの秘術は、私程度の三流魔術師では理解すら追い付かない。易々と底を見せてくれないあたりは、流石、
そこへ、パタパタと足音が近づいてくると、入り口の薄闇からヌッと猫耳が突き出てきます。これまで何処に居たのか、ケメットがけろりとした顔をして訊ねてきます。
「影法師がみんな消えてしまいましたニャ。何があったのです?」
これに大佐はこれまでの災難を思ってか苦笑いを浮かべていましたが、すぐにけろりとして答えました。何でも無いことのように、終わった話だと。
「さぁ? でも、痴漢が降ってくることはもう無いでしょうね」
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