一章 汚職の魔術師と没落貴族 4
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想像通り――お風呂はまったくもって素晴らしいシャピノ式でした。
公園の設えられた池ほどもある大浴場では、白大理石の柱が何本も突き立ち、それが白い湯煙の向こうでボンヤリと浮かび上がっているのです。まるで霧の中に佇む太古の神殿を彷彿とさせ、神聖な泉で身体を清めているような気分でした。
実家のアパートにはシャワーすらなく、ストーブで湧かしたお湯を桶に張っての湯浴みをしていたり、軍の隊舎にあるシャワーは一分しかお湯が出ない粗末な物でした。
存分に湯を楽しんだ記憶は、十歳より前の時代です。
こうした経緯から、私がこれほどお風呂に浮かれてしまう理由はおわかりいただけたでしょう。
体の芯から温まったことなど、訓練生時代の行軍訓練以来です。もちろんそんな汗臭い思い出なんかより、遙かに夢見心地で気持ちの良い熱が骨の髄まで染み渡っています。
まさに極楽気分――この後に控える夕食にはいったいどんなご馳走が待っているのか。
それを考えただけで、もはや現在の自分の身分を忘れてしまいそう――でしたが。
「えっ、何?」
私は自分の部屋を前にして足が止まってしまいました。
室内から何やら物音が立つのを耳にしたからです。
ベッドメイキングは不要、とドアノブにはカードをかけてありますし、ルームサービスを頼んだ覚えはありません。こんな高級ホテルで清掃カードの見過ごしや部屋の間違え、というのも考えられません。
社員教育はプロフェッショナル育成の為に、非常に厳しいのだと聞き及んだ記憶があります。
もしかすると、大佐がいつまで経っても到着報告に来ないことに腹を立て、乗り込んできた可能性もありました。恐る恐るドアに耳を寄せ、聞き耳を立てます。
『――か』
『――に――い……』
耳を澄ませてみましたが、良く聞こえません。
ゲッシュ・カーネルともあろう高級ホテルに、よもや空き巣や強盗など居るはずもない。
ですが、もしそうならガツンと言って追い払ってやろう。
栄えあるアルビオン陸軍軍人の中尉であるこの私にちょっかいを出した事を後悔させてやる。
そう思い立ち、私は意を決して扉を開きました。
「あ、あのぅ……ここ私の部屋なんですが、何かご用でしょうか。どなたかとお間違いになっていらっしゃらないでしょうか。その、どちら様です……?」
言うは易く行うは難し、とは言ったものです。
室内にいたのは、二人のゴブリンでした。彼らはこのホテルのポーターにあてがわれている制服を着ています。そんな人たちがどうして――それを考えるよりも前に、彼らが手にしている物に目がいきました。
彼らゴブリンの二人組は、ベッドの上で私の旅行鞄を勝手に広げてあさっていたのです。それだけではなく、サイドテーブルの引き出しも全て投げ出され、クローゼットも開け放たれています。部屋中がひっくり返されていたのです。
何より、彼らが私の下着を手にしていることに戦慄が走りました。
「し、下着泥棒――ッ!?」
咄嗟にそんな言葉が口を衝いて、私の下着を握り締めるゴブリンを指さしました。
「ち、ちがわい! ごごごごご、誤解だ!」
私のショーツを持っていたゴブリンは狼狽えながら否定します。
身振り手振り訴えようとする様は昼間の私のようで、こうしたシチュエーションでは逆効果であることをこのとき学びます。
「兄貴、パンティ握ってちゃ説得力ないぜ」
腰に手をやって呆れているのは、パンツ泥棒の後ろで私の化粧ポーチをまさぐっていたゴブリンです。彼らが下着泥棒か否か、それは問題ではありません。ここまで人様の部屋を荒らしていては、どんな釈明も用を為しませんでしょう。
彼らが泥棒の類であることは明白。
直ぐさま踵を返してこの場を離れようとしました。ホテルの警備に事の次第を伝えれば何とかなる。
そう思っていたのですが、扉が勝手に音を立てて閉まってしまいました。
ドアノブにしがみつくようにして、どうにか開けようとしましたがビクともしません。
「なんで――何で開かないのよッ!」
懸命に扉と格闘していると、背後のゴブリンたちの不敵な笑い声が聞こえてきました。
あからさまに下卑た笑い声は、古今東西「ぐへへへへ」に統一されているもの。
彼らもその偉大なゲス野郎に倣っていました。
「ぐへへへへ、残念だったな軍人の姉ちゃん。俺たちが魔術師だったのが運の尽きだぜ」
「俺たちオマール怪盗団にかかりゃこのくらい朝飯前よ!」
「馬鹿野郎かチョッパ馬鹿野郎! わざわざ名乗る馬鹿が何処にいるってんだ! 足がついたらどうするんだよ! 親分にドヤされても知らねえからな!」
「で、でもよコリゴリンの兄貴――」
「馬鹿野郎かお前、俺の名前まで出しやがって!」
懇切丁寧に所属する組織と他己紹介までしてくれたゴブリンたちでした。
この間抜けな彼らの目的は何でしょう。下着泥棒は疑いようもありませんが、本当に盗賊の類で間違いないのでしょうか。この素人感はホテルの従業員の可能性もあります。
私の魅力に参ってしまい、劣情に駆られての犯行ならばルイズは罪な女です。
「大丈夫さ兄貴! おいらの結界魔術はそう簡単には破れない。誰もこの部屋から出る事も入ることも出来ないんだ!」
「おう! さすがだチョッパ――あれ!? じゃあ何でこの女は入ってきたんだ?」
「それは結界を発動するのを忘れてたんだ。可愛いミスさ」
「馬鹿野郎かお前! 何の為の結界だ馬鹿野郎!」
「あいて――ッ!? 叩くなよ兄貴!」
コリゴリンなる兄貴が弟分らしきチョッパの頭を叩き説教を始めました。
私はこの隙に脱出を試みますが、やはりドアノブはビクともしません。彼らが魔術師だというのは嘘ではないようで、結界に閉じ込められてしまったみたいです。
逃げ場が無いとなれば、栄えあるアルビオン軍人の中尉として、そして偉大な御先祖様方に恥じぬよう、プルームプルハットの家名にかけて勇気を振り絞る以外にありません。
魔術師の端くれである以上、手足をもがれても丸腰にはなりません。
ならず者には縛り首がお似合いです!
「あなた方がどなたか存じませんが、下着は返して頂きます!」
私が息巻いて彼らに向き直ると、彼らも「何だどうした?」とこちらを一瞥しますが、すぐ興味を失って口論に戻ります。こんな夜盗にまでも侮られ、貴族としての矜持がいたく傷ついたことは言うまでもありません。
私は精神を集中させ、ゆっくりと口を開きます。
《イル・ラ・クオーツ・ルゥム・リール・アジェス∴リコトラ―》
私は精霊言語を用いた特殊な言葉で呪文を唱えると、ふわりと空気が震えます。
ネシム学派と呼ばれる、精霊言語に特化した魔術体系を持つ門下です。
数ある魔術学派の中で最も普及している学派で、独特な声帯の使用法と精霊の言語を用いることで言霊を形成し、空間中に満たされている魔術の源――マナに伝播させる技法。
その技術の中で、私が唯一使える魔術がこの『口寄せ』でした。
今し方の精霊言語を訳すと『私はあなたの力を欲している 鳥たちよ』。
つまりこの魔術は、鳥たちに助力を求めるというもの――変化はすぐに訪れます。
さしものゴブリンたちも私の魔術を前に諍いを中断していました。
そして、彼らは同情するように哀れみを讃えた視線を私に寄越します。なぜ?
コツン、と窓が鳴り、それからチュンチュン、という囀りが聞こえてきました。
窓の、外で。
ベランダの欄干には一羽の小鳥が羽休めし、可愛らしく毛繕いを……。
「なぁ……軍人の姉ちゃんよ」
「やめて! 言わないで!」
直視したくない現実に、私は耳を塞いでしゃがみ込みました。
初めからわかっていたんです。
自分の実力くらい把握しています。けど、もしかしたら、たまたま上空を通りがかったグリフォンとか飛竜の類が、気まぐれに三流魔術師のお願いを聞いてくれるかもと思ったんです。『口寄せ』は所詮『召喚』の廉価版。
賢天の魔術師サージオの部隊に入隊して、こんな一流ホテルに宿泊させて貰えて、自分まで一流であるかの如く錯覚していました。
実際の私は、ゴブリン風情に膝を屈して現実逃避するナメクジ以下の女です。ナメクジ女。
こんな役立たずの魔術なら拳銃の方がマシですが、銃は所属部隊から貸与されるものなので手元にはありません。
自尊心を挫かれ、虚栄心が光に曝かれた時、私は本当の意味で丸腰になりました。
「まあ、あれだ……そんなに気を落とすなよ姉ちゃん」
「そうそう、パンティなら返してやるって。まあ兄貴の気分次第だけど」
「ば、馬鹿野郎この野郎! 俺はケツが青いガキになんて興味はねえんだよ! もっとこうな……熟した果実というか」
コリゴリンが私の下着を床に叩きつけて自らの性癖を路程すると、ハッとなって「何言わせんだ馬鹿野郎!」とチョッパの頭を叩きました。
「ゴホンッ……ともかくだ、俺たちは下着泥棒じゃあない。それは信じて欲しい」
そんな所を訂正されても何も安心出来ませんし、ならいったい何が目的だと言うのか。
「まさか……私が目的――ッ!?」
人と妖精の交流がまだ一般的でなかった時代、古式ゆかしいゴブリンとは若い女を陵辱する悪鬼のように伝えられていました。思わず自身の体を掻き抱いて彼らを睨め付けます。
「違う! そっちでも無い! そう言った考えから離れろむっつり女! 俺は熟女が好きなんだ! いやそうじゃなくてッ――俺たちは鞄を取り戻しに来たんだ!」
「鞄?」
ようやく本筋らしいキーワードを聞いて、直ぐさま合点行きます。
彼らは今朝方に私とぶつかり鞄を取り違えた、あの失礼なゴブリンの手先なのでしょう。だとしたら怖がってばかりも居られません。
「なっ――だったらこんなことをせず、普通に申し出てくれれば良いじゃないですか! 私の鞄だって新調したばかりなんですからね、あれ返してくださいよ! こっちだって迷惑してるんです!」
一転攻勢に出た私に、彼らはキョトンとした様子で顔を見合わせていました。
自らが犯した過ちに気づいたご様子でしたが、それで一件落着とはいきません。
「ええい、しゃらくせいッ!」とコリゴリンが右腕を振り上げると、マナの微震が室内を駆け抜け、彼の人差し指が禍々しく赤い輝きを放ちます。
《汝
「エルードラの詠唱!?」
コリゴリンが唱えた呪文は、エルードラという魔術学派のものでした。
私のネシム学派が精霊言語を用いて精霊から力を借りるのに対し、エルードラは人の言葉を用います。自身の昂ぶる感情でマナを操る術式が特徴で、言うなれば自己陶酔の魔術。究極のナルシズムとも言われ、この界隈では『痛い人』と、白い目を向けられています。
「誰がイタイ人だ!」
またしても心の声が漏れてしまったようです。
お漏らしな私の心中に激怒したコリゴリンは、振りかぶるように人差し指を私に突きつけました。
突如として閃光が瞬くと、彼の指先から指弾が撃ち出されます。
「ひぇッ」
背にしていた扉の表面が弾け飛び、これがお遊びではない事を伝えるように燻った匂いが漂います。見るのは初めてでしたが、これはいわゆる
「観念して貰おう。さっさと鞄を渡しな!」
「兄貴は怒ると怖いんだ! 言うとおりにしといた方がいいぜィ?」
心拍数が急上昇して頭がクラクラする中、私は懸命にこの危機を脱する方策を考えます。コリゴリンの指先に光る怪しい光から逃れたくて、顔を何度も逸らそうと試みますが、いやらしく嗤いながら彼は私の顔に狙いを定めてくるのです。
「そんなのッ、持っていったら良いじゃないですか! そこら辺にあるでしょう!?」
鞄はベッドの上に投げ出したままにしておいた筈です。
こちらには隠す意図も理由もありません。
部屋中を引っかき回して当の鞄に目がいかないなんて、節穴も良いところです。
「往生際が悪いな姉ちゃん。見てみろ、どこにそんな物がある。お前がどこかに隠したに決まってるんだ!」
「嘘……」と私は一時だけ恐怖を忘れて立ち上がり、部屋を見渡します。
元々ホテルの一室で、広くはあっても物は多くありません。それらしい物があればすぐに見つけることは出来るでしょう。ですが……。
「そんな筈……わ、私じゃありません! ベッドに置いておいたんです――きゃあッ」
こちらが歩み寄ろうとした寸前に、コリゴリンは私の足下に指弾を撃ち出します。
「見苦しい奴め。少し痛い目に遭わないとわからないらしい」
「人の物を盗んでおいて、あまつさえそれをなくすなんて泥棒の風上にも置けないぜ」
言いたいことは山ほどありますが、情けないことに私は恐怖に息が詰まって、足も竦み、身動きがまったくとれませんでした。
もはや万事休す――。
そう観念した矢先の事です。
背筋からぞわぞわと怖気が走ったかと思えば、足下から黒い影の様な物が伸びきて、その影は一瞬で私の部屋を駆け抜けます。その直後、背後の扉が蹴破られるのと同時に私の背中が粉砕され、前のめりに倒れ伏します。
「た、大変です大佐! 中尉が――ッ、中尉が……死んでるニャ……」
「なんてこと、可哀想なルイズ……そこのゴブリン、あんた達の仕業ね!」
扉を蹴破って入ってきたのはごらんの通り、シンクレア大佐とケメット伍長でした。
二人とも私がゴブリンたちによって打擲されたと勘違いしていますが、わざとなんでしょうか?
「いや、俺たちはまだやってないんだが……」
さしものコリゴリンのこの珍妙な乱入者に言い淀んでいました。
「兄貴、奴らただ者じゃねえ。おいらの結界をいとも容易く破りやがった。それだけじゃない。仲間を足蹴にしておきながら、それを他人に擦り付けたんだ! とんでもない極悪人に違い無いぜ!」
同感ですが、今は置いておきます。
「いたたた……大佐ッ! あいつら泥棒です! 鞄を寄越せって私の部屋に忍び込んでたんです!」
「鞄?」と大佐は首を傾げると、ひょいと私の鞄を持ち上げました。
「これのことかしら? あんたがいつまで経っても到着したって報告をしに来ないから、こっちから出向いたのよ。そしたらあんた居ないじゃない? 待つのも上官らしくないから戻ろうとしたんだけど、昼間の見取り図が気になってね」
「だからちょっと拝借したわ」と学生の研修旅行で別室の友人からトランプでも借りるかのような軽い感覚で語る大佐でした。
「ウチはたとえ部下の物であろうとそれは盗みであると引き止めたのですが……」
「そんなこと言われてないし! あんたこそ下着でレストランの皿に載ってるナプキンを再現してやろうとか言ってたじゃない! 一人だけ良い人面するんじゃないわよ!」
「……そう、だったんですか」
二人の行為の善し悪しについては、報告義務を怠った負い目もあるので眼を瞑ります。
私が押しても引いてもビクともしなかった結界を、大佐は容易に……というか、ケメットに蹴破らせて開放してくれたのですから、差し引きゼロです。
「大佐、気を付けてください。あのゴブリン、
ふむ、と大佐は夜盗二人組を繁々と観察しています。
「まったく、女三人寄れば何とやらだ。俺たちを無視してぺちゃくちゃ喋りやがって! さっさとその鞄を――寄越しやがれ!」
一度断たれた緊張の糸を再び張り巡らせるようにコリゴリンは啖呵を切り、大佐に向かって右手の魔弾を躊躇無く撃ち放ちました。
数瞬前まで戦う素振りも無く無防備だった大佐。
如何に
コリゴリンの撃ち出した魔弾は、同じく大佐の右手から放たれた
詠唱も無く顕現した魔術に、コリゴリンは目を見開いて驚きを露わにします。
ですが自分の魔術を真似されたことで頭に血が昇ったのか、彼はムキになって魔弾を乱発し始めました。数鬱ちゃ当たるの精神は逞しいものでしたが、大佐は彼の射線を全て封殺してのけます。
頭上で激しく炸裂する両者の魔弾に、私は「きゃっ」と愛らしく頭を抱えて蹲り、その拍子に、床に広がった異様な影の存在に目がいきます。
影を目で辿ってみると、その出所は大佐だったのです。
樹木の枝のように大佐の影が伸び、私やゴブリンの二人組の影に枝分かれして取り付いていました。
「――畜生ッ、俺の真似するんじゃねえ! なんだって詠唱も無しに
全ての攻撃を防がれたコリゴリンは、悪態を吐いて大佐を睨み付けます。
対する大佐は余裕を見せながらも、面罵が癪に障ったのか口をへの字に曲げています。
「詠唱ならしたじゃないの、あんたがね。種明かししてやろうと思ったけどやっぱり止めたわ。口悪いもの。これ以上やるって言うなら、命の保証はしないわよ」
するとこれまでヤジ担当でしかなかったチョッパが前に躍り出ます。こいつはまずい、と掌を突き出しました。
《汝 拒絶する意志よ 強固なる壁となり 敵の刃を退けよ――氷昌の牙城》
またしてもエルードラの魔術です。
チョッパはいわゆる補助役としての術者らしく、彼が手を突き出した手を中心に、部屋を分断する氷の壁があっという間に築かれます。ここまで手際良く鮮やかに、正確な術式を組める魔術師は多くなく、逆に感心してしまいます。
彼らもただ者では無いのでしょう。
私が呆けた顔で透き通った美しい氷の壁に目を奪われていると、大佐も同じく手を突き出し、次には握り締めました。途端、氷の壁は一瞬で砕かれて霧散し、ダイヤモンドダストの如く宙を舞いながら消えていきました。
あっというまの攻防。
次から次へと自身の魔術を模倣、干渉されてしまったゴブリン達は、開いた口が塞がらずに驚愕しています。彼らの受けた衝撃は私ですら共感できるもので、実際、大佐がしてのけた事は、魔術の教本から逸脱する物ばかり。
「これが
何故か偉そうなケメットの口上に目が覚めたゴブリン達は慌てふためき、懸命に身振り手振りで何か悪態を吐いてやろうとしていました。
でも結局ひねり出された「覚えてやがれ!」の捨て台詞だけを残して窓から飛び出し、背中に隠していた小さなグライダーで逃げ去って行きます。退き際だけは、鮮やかな泥棒たちでした。
冷めた視線で、ゴブリン達の逃走経路を眺めていた大佐が呟きます。
「なんだったのよ、あいつら」
「たしかあの人達、『オマール怪盗団』がどうとか言っていた気がします」
「魔術の腕前はただの空き巣とは思えないし、組織立って訓練を受けた連中でしょうね」
するとケメットが意味深に呟き神妙な面持ちです。
「オマール? オマル? ニャ?」
似合わない思案顔をしながら、さも聡明さを醸そうかと顎に手をやります。
「どうしたのケメット、夕飯なら食べたでしょ」
「はっ――違います、思い出しました! オマール怪盗団――怪盗オマールです!」
「伍長、知っているの?」
「はいニャ。怪盗オマールと言えば、正体不明の大怪盗として有名です。これまで盗めなかった品は無いと言われております」
「あんな間抜けそうな連中を引き連れて良く失敗しなかったわね」
「それなのですが、怪盗オマールは百の顔を持つと言われ、変化の魔術の達人だそうです。だから目撃者証言はいつもバラバラ。人であったり妖精であったり、男であったり女であったり、果ては幼子が犯行に及んだという証言もあります。『センテンスプリング』で読んだ事ありますニャ!」
「伍長、それってただの週刊誌よね。鵜呑みにするのはどうかと思うけど」
ゴシップ雑誌を根拠に確証を持つのは些か頼りないと思います。
そこで大佐が思い出したように「ほっ」と息を吐き、鞄の中から博物館の見取り図と一緒に入っていた書類を取り出します。
「連中の正体はともかく、泥棒ならきっとこれが狙いだったんでしょうね」
「なんなんです?」
見取り図の方は見えてしまったので如何ともしがたいですが、文書の方は他所様の物ということもあります。もし書かれているのが意中の相手へ捧ぐ恋文や日々を憂うポエムの類だった日には……なので読むことは憚られたのです。
「ここに書かれているのはね、暗号化された博物館の術式に関する詳細よ」
「結界、ですか?」
「その通り」
大佐はパシンと書類を叩きます。
「一見するだけだと美術品に関する情報とか、展示条件、貸し出し期間なんかの契約書の類なんだけど、暗号を整理整頓してやると、記載されている重要展示物に施された結界の術式が出て来た。結界の式がわかるってことは、解も求められる。つまりこの書類は狙われる価値が十分あるし、持ち主は博物館でもかなり上の権限を持つ人ね」
「では……これでウチは大金持になれるという寸法ですニャ?」
大佐はパシンとケメットの頭を叩きます。
「それで、いったいその展示物っていうのは何なんですか?」
「ブラッディ・メアリー」
それを聞いた時、私は大した衝撃を受けませんでした。
どことなく予定調和めいていた、というか、核心部分へ至るまでの地均しとも言うべき出来事が、既に私の身に降りかかってきていたからです。
何か感じる事があるとすれば、因果な物だと、出来事を俯瞰して眺める仙人のように穏やかな心境が芽生えたくらい。
この一日で色々ありすぎて麻痺しているだけなのかもしれませんが。
ただ、このルイズは、やはり非凡なる家の生まれなだけあって、凡庸な星の下には収まらない宿命を背負っているようです。その事が少しだけ、私を満足させました。
ただ、捻くれた優越感に浸ってばかりもいられません。
面倒毎に巻き込まれたのは明らかです。
あのゴブリンが博物館の関係者なら、こんな賊まがいの事はせずに正攻法で解決を図るでしょう。
いくら性格が悪かろうと、犯罪の区別までつかない社会不適合者がそうそう居るとも思えません。
なので彼こそが、怪盗オマールなる窃盗団の親玉と見るのが確実視されます。
こうなるとわかっていれば、博物館へ赴いた際、意地など張らずに鞄を返しておけばよかった――というのは後の祭り。博物館の閉館時刻をとっくに過ぎていました。
それでも警備員は居るだろうし、不安であれば警察に届けよう、そう私の意見を話しましたところ……。
「お待ちください中尉どの。オマールは変装の達人だニャ。今夜の失敗から中尉の動向を注視しているものと考えられます。警備員や警察に扮し、中尉から鞄を奪い去る算段を立てているやもしれません」
というアホらしからぬケメットの忠告に一理あると納得してしまった私は、翌日を待って鞄の返還をすることに決めました。
博物館職員の目が複数あれば、それがオマールの変装でも私の非は薄れるだろうという打算尽くのこの行為。
なんだか卑怯な気がしましたが、念には念を入れて損は無いでしょう。
肩の荷が少し降りて楽になったところで、大佐にお呼ばれし、お高いワインに舌鼓を打ちながら夜は更けていきました。
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