序章
序章
十歳までの記憶はとても素晴らしいものでした。
先祖代々治めてきたリントンの領地で、何不自由ない暮らしを享受していました。
伯爵家の長女として生まれ、エリオットお爺様からは「お前は貴族として気高く生きるのだ」とよく言われたものです。
客間に飾られたご先祖さまたちの肖像画を見る度、我々の一族がこのアルビオン王国において重要なポストを占め、連綿と歴史を紡いできた事を感じられます。
誇りなる物も、幼いながらに多少の理解を持っていました。
『貴族たる者、民を導く気高き炎たれ』
この家訓にある通り、一角の人物になれるよう、夜毎お祈りを欠かすことはありません。
なんて上辺だけ取り繕っていても、これから自分を待ち受けている、高貴で華やかな社交の世界には胸が躍ります。そこではきっと素敵な出会いが待っていたに違いありません。
物語に聞くような出会いがあったことでしょう。あの豪奢で煌びやかな世界で繰り広げられる、高貴でハンサムな殿方との恋の駆け引きが――きっと!
そしてめくるめ愛に殉じる劇的な人生だってあったかもしれない!
でも結局、私の社交界デビューの夢は泡と消えたのでした。
「ルイズ君、昨日の日報どこにあったかな。ファイルに挟まってないんだけど。知ってたら持ってきてちょうだい。あと、新しい冬用の制服と野戦服の伝票ね、手違いで個別配送されちゃってね、いやいや、物はまとめて出して貰ったんだよ。ただ向こうの事務方がね……考えれば分かる事なのに融通が利かないったらないよ。自分らだって大変だろうにさ。嫌がらせなのかな……まあそう言うことだから悪いけど捌いといてよ」
「あ、はい」
「それ終わったら食堂の無料券数えといてね。君んところでしょ、これ。漏れてたから」
「あ、はい……」
「よく働いてくれる部下が居て助かるよ。今度からは食堂の方の発注も任せてみたいと思ってるんだ。その調子で頑張ってね。あ、メガネ変えた? 似合ってるよぉ!」
「変えてません……」
これが今の私。
十歳から私の人生は大きく変わりました。転落です。転落人生。
まず祖父が亡くなりました。
大好きなエリオットお爺様が亡くなったことは辛いことですが、老齢であることも考慮し、天寿を全うしたと言えます。仕方ありません。
しかし次からの展開はどうでしょう。仕方なくないです。
父が祖父の遺産を持ち出し、政財界を巻き込んだ『世界横断鉄道』なる大事業を計画しやがってくれたのです。結論から言えば、その計画は失敗でした。
父はトンネルの視察途中の落盤事故でこの世を去り、旗振り役の喪失に伴う混乱から、事業の引継に問題が乱発。
計画に一枚噛んでいた親族や財界の有象無象が主導権争いに没頭し、工事は中止に追い込まれ、私たち家族には途方もない借金だけが残されたのです。
蜘蛛の子を散らすように逃げていった親戚達の助力を得ることは叶わず、大黒柱を失った我が家には為す術がありませんでした。
ご先祖様――初代当主が、国王陛下より賜った館(城と言ってもよかった)と領地を手放し、財産の悉くを売り払って、首都ロンデニオンにある市営の格安アパートで、母と私、そして弟妹の家族六人、肩を寄せ合い口に糊する生活を余儀なくされました。
家族を支えるために、進学先と決めていた由緒正しい全寮制のロンデニオン魔法学校への入学を諦め、私は絹の服を質に出し、綿の服を纏って紡績工場の門を叩きます。
私は糸くずに塗れながら、朝から晩まで懸命に働きました。
工場で働き始めた私を待っていたのは、俗世の洗礼です。
子供故に出来る事など知れており、体力的にも大人たちに劣ります。
それでも職場では甘やかされません。仕事は仕事、労働者は労働者だと、大人と同じ結果を求められます。この市井にあっては、爵位だけの伯爵家の小娘には何の力もありませんでした。
もし私に権勢があったなら、あの癇癪持ちの工場長といびり屋の女工のおばさんどもを残らずクビにして、子供に優しい工場にしようと、夢想しながら糸を紡いでいたものです。
工場でのハードワークも三年目に差し掛かったある日、仕事が終わって疲れ果てながらも、夕食のパンの耳を街中で集める傍ら、夜の外灯に集まる妖精のピクシーを駆除するアルバイトをしていると、ふと足下に落ちているビラに気がつきました。
我が祖国アルビオンでは度重なる戦争に伴い、士官の充実を図りたいという思惑の元、士官学校が新しく開校される、という趣旨のものです。
そして、士官学校では給料を貰いながら士官教育を積めるという利点に加え、入学試験での成績優秀者には、学費免除の特典があるという文言に目が釘付けでした。
その頃、今の生活への不満でいっぱいだった私は、(今も変わらないが)当時では小娘が士官学校に入学するなど考えられない時代でありながらも、軍隊こそが、私の進むべき道であると直感したのです。
貧しい生活にもひもじい食事にもうんざりしていて、なんとしても今の生活から脱したと願っており、同時に、貴族らしく豪勢で煌びやかな余裕のある生活への回帰を――つまるところ、御家再興を生涯の目標に掲げていました。
軍隊ならば、大金は得られずとも、地位と名誉を掴むチャンスが有るはずでした。
地位と名誉さえあれば、金はあとからついてくるもの。
一も二もなく士官学校を受験した私は、見事筆記試験で首席の座を射止め(体力試験は散々だった)学費免除の特待生と相成ったのです。幼少の頃から家庭教師を付けてくれたエリオットお爺様に感謝しつつ、私は軍人となりました。
あとは、地位と名誉を手にするだけ――その為には、少なくとも佐官となり、参謀本部に食い込まなくては伯爵の位が廃るというもの。
参謀本部志望――これを私の上官で、二足歩行する猫に近似した妖精種『ケットシー』の少佐に伝えたことがあります……。
「戦功を立てて参謀本部で勤務したいって? じゃどうして主計科選んじゃったの」
だって、前線なんて怖いところに出たくなかったんだもん。
そして、今に到ります。
私の勤務先は、参謀本部のお膝元、アルビオン王国の首都ロンデニオンにあるアルビオン陸軍第一歩兵連隊駐屯地で、私の戦場とはだいたい三十歩圏内であらゆる物事が済んでしまう主計科の事務所でした。
そもそも主計科とは補給や福利厚生を担当する兵科であるわけで、一般の企業では総務や経理と呼ばれる部署なのです。その中でも首都に駐屯しているこの部隊は、首都防衛を要とする連隊で、国外への戦闘に出る機会は限りなく少ないです。
参謀本部に推薦されるには実戦経験が必須事項――それを知らなかった私は、安全で比較的に楽そうな職場を求めて主計科を安易に選択し、人事でも女である事を考慮されてこの連隊に配属されました。
その小さな戦場で、ここ一年は事務用品の充実の為に働く毎日。日々消耗する品々を町中の量販店に発注し、全てをリストアップしてコストカットに励みました。
お陰でロンデニオン中にあるペンやら用紙やらインクやらの価格を網羅できましたが、いくら雑貨を安く仕入れたところで勲功は立てられず、立身の役には立ちません。
真面目だけが取り柄で頑張ってきましたが、「次は食堂担当だ」と言われる始末。
このままでは参謀本部勤務など夢もまた夢。
御家の再興も成らず、仕送りを続けている実家(市営アパート)で内職に励む弟や妹たちを学校にも上げてやれない。寮生活をする自分の面倒だけでもままならないのです。
「私、間違ってたのかなぁ……」
誰もいなくなった食堂で、電気代節約の為に一角だけ灯された明かりの下、遅めの夕食を摂りながら独りごちています。
男社会である軍隊で、女の身である私が上へと行くには無理があったのでしょうか。
けれど、あのまま工場勤務を続けていても八方塞がりなのは火を見るよりも明らか。
何か――何か救いが欲しい。
冷めたコーヒーを口にして、ふと食堂の壁に貼られたポスターに目が奪われました。
軍隊へ勧誘するためのプロパガンダのポスターで、とある女性が写っています。
アルビオン王国にも十三名しかいない賢天の称号を持つ大魔術師で、一〇〇万人とも言われる魔術師人口の頂点にある者たちの一人です。
その中でも
年の頃は自分よりも幾つか上で、女の目から見ても美人です。
ポスターの中のシンクレアは、真っ白な燕尾服で、小洒落た白の中折れ帽を気障っぽく左手で押さえ、こちら向かって指をさし、ウィンクを投げかけている一風変わったもの。
下の文言には、『あなたが必要なの!:さあ、アルビオン陸軍まで!』という一文。
伊達や酔狂、なのかは知りませんが、軍服でも婦人服でもドレスでもなく、ど派手な衣装の彼女に軍の広報が何も言わないのが驚きです。
悪戯っぽい表情から覗く自由奔放な雰囲気が、ポスターからはありありと見て取れました。
きっと今、私は羨望の眼差しを彼女に送っているに違いありません。
窮屈な現状を顧みて、彼女に嫉妬する人間ならばここまででしょう。でも私は違います。
このポスターからは希望を感じ取ることが出来る。
女の身であっても、力さえ示せば上に行けるのだと、彼女は示している。
希望はまだ、残っている――。
転機は徐に訪れました。まさしく、晴天の霹靂というやつです。
翌朝、ケットシーの少佐に喚び出された私は、処理箱の中に誤って捨てられていた日報を手にして、彼のデスクまで向いました。
「ルイズ君、君に辞令だ」
突然何だろうと、くたびれた毛並みで老眼鏡を掛けた少佐が引き出しから封書を取り出し、もたもたと中の書類を引っ張り出すのを呆けた顔で待っていますと――。
「プルハット少尉、本日付で第一歩兵連隊主計科での任を解く。君の次の配属先は第七独立連隊となる。これに伴い、貴官は中尉に昇進となった。おめでとう。任官し次第、シンクレア大佐付の副官として、任務に従事したまえ――以上」
「い、い、い、イィィィィィィヨッシャァアアアアアア――ッ!」
気づけば私は、上官の面前だというのに奇声を上げて叫んでいました。
私の祈りが天に通じたのか。よもやこのような幸運が訪れようとは夢にも思いません。二二年という短い人生で、後半戦に於ける最大級の幸運が巡ってきたんでしょうか。
舞い散る日報の紙吹雪を浴びながら、満面の笑みで小躍りする私。
それを奇異の目で見つめる同僚たちや、じっとり湿った目を向けるネコの少佐。
「少佐! 少佐! 昇進ってことはお給料も上がりますよねッ!? だって中尉ですよ!」
「たいして上がらないよ」
それでも良い! ぜんぜん良い! 少佐の渋い顔だってまったく気にならない!
落とし物係から備品発注、食堂担当のコストカッターの歴任で昇進ができるか!
これはキャリアだ! 夢にまで見たキャリア!
シンクレアの第七独立連隊は精強と謳われるエリート部隊。
当然、危険な場所へ派遣されることは予想できる。
確かに戦場は怖いし、今でも抵抗感が無い訳じゃない――でもそこに立たなきゃスタートラインを踏むことすら許されない。
しかし何を恐れる事があるでしょう。私はあの
聞くところによれば、一〇万の軍勢を相手取り、たった数千の連隊だけで敵を翻弄し、その挙げ句見事に勝利を手にしたというではないですか。逆立ちしたって愚将に出せる戦果ではない。
月に一度の射撃訓練で赤点を連発する私みたいな素人にだってわかることです。
シンクレアに着いていけば、実戦経験だって危なげなく済ませられることでしょう。
ちゃちゃっと
私も勲章なんか貰えちゃうかもしれない。
ぜんぜんまったくなんにも怖くない!
運命って、きっとあるんだ!
でもこのとき、少佐は妙にばつの悪そうな顔をしていました。
よく考えてみれば、怪しむべきだったのです。
英雄と讃えられ、世間にも知らぬ者などいないであろうカリスマ的な
そして、万年平和ボケした首都防衛隊から、ずぶの素人同然である軍属二年目の女主計科兵が転属させられる理由を――。
ですが、私はシンクレアの副官になれるという夢みたいな話と、数ヶ月ぶりに外食できそうなお財布事情に舞い上がっており、それどころではなかったのでした。
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